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35:元男爵家メイドのお嬢様




「安いよ安いよ!女神の化身様のおかげで今年は美味しい野菜や果物が大豊作!ぜひ見てってくんな!」


 (ペリヤ)の入口から程近い中央通りまで買い物に出ていたシャーロット・カーは、明るい客引きの声に引かれて、壮年の男が開く青果の露店の前で立ち止まった。


 露店の絨毯に並ぶのはベスティエで採れたとは思えないほど瑞々しい野菜と果物。三年前まで住んでいた王都で見ていた物よりも上質なように見える。


 少し前まではここらで売られている食材と言えば肉や加工品が主で、新鮮な青果を扱う店は少なく野菜自体滅多に手が出ないほど高価だったというのに、最近流通し始めた高品質の野菜や果物は庶民にも手が届く手頃な値段で提供されている。


 何やらカイマスに女神の化身が降臨し、奇跡を起こして大豊作を齎したのだと専らの噂だ。


「んーと、そこのラシチーイモを五つと、パスティナカ(*人参のような根菜)二本。ケパ(*玉葱のような野菜)は三つもらおうかな!あ、あとこのマールム(*林檎のような果物)も二つ!」


 大きな腹を抱えながらしゃがむのは難しい為、立ったまま欲しい物を指さして、持って来ていた籠を店員に渡しながら注文した。


「お!奥さん妊婦さんかい!そんじゃあ栄養たっぷり摂らないとなぁ!ラシチーイモ五つとパスティナカ二本。ケパを三つにマールム二つで五百ペクタだね!それからこれはオマケだよ!」


 ニカッと笑った店員が、籠に頼んだ商品と一緒にカウリス(*ケールのような草)も一束入れてくれた。まさかカウリスまで売っているとは。カウリスが妊婦に良いとは知っているけれど、何せとても苦い。

 シャーロットの妊娠がわかってから旦那はカウリスを食べさせたがったが、ベスティエでは簡単に手に入るものでもなかった為どうにか食べずにやり過ごしていたのだが。

 胎の子の為を想えば食べた方がいいのはわかっている。折角の好意でもあるし、ありがたい話だ。


「あははー……ありがとう!これお代ね!」

「うん、ちょうどだな!毎度!少し重いから気を付けてな!」

「どうもね!」


 妊娠してから、重い物を持つな。走るな。安静にしていろ。と口うるさかった旦那も今は軍の任務の遠征中で大森林の中だ。

 シャーロットは既に妊娠九ヶ月で、多少の運動はした方がいいと医者からも勧められているというのに。

 心配性だとは思うが、シャーロットとお腹の子を想ってのことだとわかっているので嬉しくもある。


 元々は農家の出で口減らしの為に両親に捨てられたようなものであるシャーロットには勿体無いほど、いい旦那にもらわれたと思う。


 シャーロットより二つ年下の彼リットは、出会った当時はスマーラ男爵家の三男で、家は長男が継ぐことが決まっており、将来は平民として自由に生きられる立場だった。


 彼は王国の英雄に憧れを抱いて騎士として国を守ることを志し、五年前から彼の家でメイドとして働いていたシャーロットに、これからは自分の側で妻として支えて欲しいと求婚した。それが四年前の事だ。

 リットのことは働いている家のお坊ちゃんとしか思っていなかったはずなのに、気が付けばその求婚に頷いていた。今考えてみてもどうしてあの時即決出来たのか不思議に思うが、その決断を後悔したことは一度もない。これが縁というものだったのかもしれない。


 旦那と結婚して男爵家を出て二人で暮らすようになって一年が経った頃、騎士として剣と得意の風魔法で身を立てた彼は一代騎士爵を叙爵してカーという姓を賜った。そして騎士を志すきっかけであり憧れだったベスティエ辺境伯が率いる魔物討伐軍への異動願が受理された。

 シャーロットにとっては青天の霹靂である。まさか自分が最下級とはいえ貴族の妻となるとは。


 貴族の一員に足を踏み入れることになって一番に浮かんだのは、訳あってシャーロットが仮名を付けることになったお嬢様の事だった。


 ◇


 旦那様がお嬢様をエーピオスの邸に連れて来たのは、お嬢様が産まれてから六日後のことだった。


『こんなことをメイドの君に頼むのは本当に申し訳ないし、恥ずかしい事なのはわかっているんだけど……娘に名を与えて欲しい』


 シャーロットには詳しく説明されなかったが、奥様が仕えていた公爵夫人が出産直後に亡くなったそうで、奥様はまだしばらく公爵家からお戻りになることが出来ないのだと執事のパッセンから聞いた。


 公爵家の葬儀に参列した帰りにお嬢様を連れて帰って来られた旦那様はひどく憔悴した様子だった。


 シャーロットを呼んで頭を下げた旦那様の腕の中にはおくるみに包まれた美しい赤子が穏やかな寝息を立てて眠っていた。


『旦那様!私に頭なんて下げないでくださいよ!あっ、ごめんなさい……大きい声出したら起こしてしまいますね……』

『帰り道で子守唄を歌ったから、大丈夫だよ……』

『なるほど!だからこんなにスヤスヤといい子で眠っていらっしゃるのですねぇ。ふふっ本当に可愛い!

 ……あの。こんなこと聞くのは失礼かもしれないですけど、お嬢様の名付けは奥様がなさるんじゃないんですか?』


 貴族の名には、識別記号以上の意味があると、平民である自分でも知っている。

 同性の貴族から贈られる、産まれてきたことへの祝福の証。


 生後七日までに教会で命名式を行うことを義務付けられているのに、未だ真名が与えられていないとは。


『ライラと話す時間が取れなくてね……、言付けを残してきたけど、命名式は明日までに行わなくちゃならないんだ……』

『でも……貴族の真名は平民の私が与えられるものじゃないですよね?』

『そうなんだけど……ロッティの他に、この子の誕生を心から祝福してくれる女性に心当たりがないんだ……本当に、こんなこと頼んでごめん……』


 あの時の旦那様は、本当に切羽詰まっていて切実さを感じた。


 シャーロットには旦那様に返せないほどの大恩がある。力になれることがあるなら、どんなことでもするつもりだった。


 けれど、この美しく可愛らしいお嬢様の名を、本当に己が付けてもいいのだろうか?


『……お嬢様を、抱っこさせてもらってもいいですか?』

『あぁ、もちろん』


 抱かせてもらったお嬢様は温かく、ミルクの匂いがした。

 握った小さな手をちょんちょんと指で触れれば、その指をきゅっと掴まれ、同時に胸の奥が掴まれたみたいにきゅんとして、愛しさと尊さが湧き上がった。


 あぁ、この子に出会えて幸せだ。産まれてきてくれてありがとうという感謝の気持ちと共に浮かんできたひとつの名。


『それじゃあ……』


 ◇


 結論から言えば、やはりシャーロットが付けた名は教会に真名と認められることはなく、仮名として出生届が提出された。

 それからシャーロットが知る限り、旦那様が亡くなった五年前までお嬢様の真名が与えられることはなかった。


 大切で、大好きなお嬢様。ずっとお側にいたかった。けれど、己が側に居続けることで迷惑をかけるわけにはいかなかった。


 紹介状を貰って向かった新しい奉公先であるスマーラ男爵家に行っても、ふとした時に考えるのはお嬢様の事ばかりだった。

 最初の頃は休みの度にエーピオスの邸に行ってお嬢様のご様子を確認していたが、数回目の時パッセンに『今の主家に仕える事に集中しなければ、紹介状を出したエーピオス男爵家が恥をかく』と窘められた。

 あまりの正論に頬を引っ叩かれた気持ちになって、中途半端だった己の心持ちを猛省した。


 それからお嬢様には会っていない。聞いた話によるとシャーロットがベスティエに移住してきた三年前の同じ頃、寡婦である奥様がグランツ公爵家の後添えに入ることが決まったらしいが、お嬢様の処遇についてはシャーロットの耳には届かなかった。


 今はどうしているのだろう。まだあの邸でパッセンと暮らしているのだろうか。

 彼女は目は不自由だが類稀なる美少女で、旦那様に似て心優しく、先祖返りの素晴らしい特質魔法を修得し、パッセンの教育を受けて十一歳にして完璧な淑女だったのだ。去年成人したのだし、もしかしたらもうどこかに輿入れしているかもしれない。


 どこで何をしていたとしても、どうか幸せでいて欲しい。そう願わずにはいられない。



「さてさてお集まりの皆さまへ!本日語らせていただくのは、カイマスに降臨した豊穣の女神デミルーの化身のお話!」


 中央通りと教会通りが交差する小さな広場に、よく通るテノールボイスが響いた。前を歩いていた老夫婦が広場に出来た人の輪の中に入って行くのを目で追って、自然とシャーロットの足も止まった。


 買い物も一通り終わって後は帰るだけだし、噂の女神の化身の話もしっかり内容を知っているわけではないので少し気になる。日暮れまでは時間もあることだし、聞いて行ってもいいかもしれない。


「今や皆さま知っての通り!過去に類を見ない大豊作の収穫期を迎えたベスティエの食糧庫を担う農耕地カイマスですが、本来ならば今年は例年よりもひどい不作になるだろうと予想されていたのはご存知ですか?」


 聴衆が頷いたり首を振ったり傾げたり。反応を確かめ満足そうに口角を上げた語り部が指を鳴らして天を指す。


「魔素に汚染された不毛の大地!そこで収穫できる作物はほんの一握り!そんな常識を覆したのが……そう!此度カイマスに突如降臨なさった、豊穣の女神デミルーの化身その人なのです!」


 ついつい引き込まれる身振り手振りと抑揚を付けた語り口に、周囲からおお!と歓声が上がった。


「収穫を間近に迎えているにも関わらず、痩せて枯れた作物たちを哀れに思った彼の方は、畑の中央で跪くと、天に祈りを捧げました!するとどうでしょう!祈りを受け取った天から光が降り注ぎ、一夜にしてカイマス中の作物を実らせたではありませんか!」


 語り部の語りが上手いのか、シャーロットはその光景を容易に思い浮かべることが出来た。その想像の舞台は畑ではなく、小さな庭だったが。


「それはベスティエを救いたもうた奇跡でした!……しかし。元気に実った作物を見た農民たちが大喜びで感謝を申し上げようとしたところ、彼の方はその日のうちに、人知れず御姿をお隠しになってしまわれたのです……」


 語り部が悲痛な面持ちで一つ息を吐けば、「まぁ……」「そんな……」と口々に嘆きの囁きが漏れた。


「その奇跡を見られなかった者が彼の方について目撃者に尋ねれば、ある者は大人しそうな少年だったと言い、またある者は陽に輝く銀髪の少女だったと言います。……しかし、誰もが口を揃えてご尊顔は拝していないと言うではありませんか!」


 シャーロットはそんなことがあるのかと首を捻った。けれど。


「神秘に包まれた女神の化身!一体彼の方は何処の誰なのか!?()()()()()()()()()は美女か野獣か!?また来年もご降臨なさるだろうか!?もしかしたら今あなたの隣にいるその人が!女神の化身様かもしれません!」


 雷に打たれたかのような衝撃がシャーロットに走る。


 片手を胸に当ててお辞儀をする語り部に周囲の聴衆は左右をチラチラと確認しながら拍手を贈って、地面に置かれた彼の帽子にコインを投げ入れたりしている。


 けれど、シャーロットは赤茶色の瞳を見開いたままその場に立ち尽くしていた。


「……お嬢様だ……」


 それは確信を持って呟かれた。


 エーピオスの邸の庭で、旦那様の隣でしゃがんで特質魔法の練習をするお嬢様。キラキラした光の粒子がお嬢様の元に集まり、天に昇って降り注ぐ。語り部の語る光景を簡単に想像出来たのは彼の巧さだけではない。シャーロットはその光景を見たことがあったからだ。


 いつも顔を隠しているのはベールではなく、遮光用のレース。けれど知らない人間がそれを見れば顔を隠す為のベールだと思っても不思議はない。


 だけど、真名のないお嬢様の魔力量では一夜でカイマス全域に魔法を行使出来たとは考えられない。ということはもしかして、ついにお嬢様は真名を授かったのだろうか?


 カーン……カーン……カーン……


 その時、夕刻を告げる鐘が鳴る。

 鐘の音につられ、鐘塔がある教会の方を振り返った。


 ビュウと強い風が吹き抜けて、やり過ごすように目を閉じた。


 ゆっくりと目を開けた視界のその先に、ワインレッドのリボンが揺れるベージュの帽子が空を舞う。


 その帽子は不自然な動きでゆらりゆらりと落ちてゆく。


 その落下点で帽子に腕を伸ばしていたのは。


「……っ!!」


 教会までは二千ペス(*1ペス≒1フィート)ほどの距離がある。けれど、障害物もなく人通りも疎らな今ならば、この距離でも己が見間違えるはずがない。


 姿を見るのは五年振りだし、目許にレースもかけていない。見覚えのない珍しい形の眼鏡だって掛けている。それでも。


「お嬢様ぁっ……!!」


 あれは、絶対に己のお嬢様だ。


 大きな声で呼んでもはっきりと聞こえる距離ではない。こちらに背を向けて逆方向に進みだそうとするお嬢様の方へ駆け出そうと一歩踏み出して、自分が妊婦であることを思い出す。


 どうしよう、あそこにお嬢様がいるのが見えているのに!行ってしまう!妊婦の自分の足では追いつけない!


 もし真名を授かっているなら、呼んでしまうと不敬になるかもしれない。でも、今は迷っていられる余裕はない!


 どうか、届いて……!


「ティア様っ!……ミラティアお嬢様ーっ!!」


 口にしたのは、お嬢様に贈りたいと思ったティアという名。それに旦那様(ミーテ)奥様(ライラ)頭文字(イニシャル)をそれぞれ添えたのがミラティアという仮名だった。


 正式に認められなかったその名を呼ぶのはシャーロットと、シャーロットに名付けを請うた旦那様だけだったけれど。お嬢様はティアという名を存外気に入ってくださっていたと自負している。


「?……っ!」


 声の限りに張り上げた呼び声に振り返って声の出所を探すお嬢様に向けて大きく手を振れば。涙を浮かべたお嬢様がこちらに向かって走り出すのが見えた。


 ……ほら、やっぱり私のお嬢様だった!




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