34:公爵令嬢の初めて見る世界
眼鏡という存在は知っていた。
生前、父が何度か買ってきてくれたこともあった。けれど大きさが合わずにうまく掛けられなかったり、余計に見づらく気分が悪くなったりして、使用を断念したのだ。
ベスティエに来てから、ロクトやセントラ、他にも軽く紹介されたロクトの弟達。同い年の三男ソーディと十歳の五男イグザが普段眼鏡を着用していることはもちろん気付いていた。識別眼は物質を隔てることで視えなくなる為、識別眼を行使する時以外は着用しているのだとセントラから教わった。
けれど、着用している眼鏡の構造はよく見えなかったし、前に試したことのある物とは全然別物であるとは考えた事もなかった。
先ほどフレームを試させてもらった時も、珍しい形の眼鏡もあるのだな。くらいにしか思っていなかったのだ。
それは大きな間違いだった。
今、目の前にははっきりと像を結んだ鮮明な世界が広がっている。
「どうです?見やすいでしょう?」
そう言って微笑む女店主の眼鏡の奥、深い緑の柔らかい瞳、それを縁どった茶色の睫毛、そして人の良さが表れた笑い皺のひとつひとつまでくっきりと見える。
色も、形も、光も。全てが初めてはっきりと実体を持った。
近くで見たり、ルーペを使ったりしなければ捉えられなかった世界の光景が、こんなにはっきりと遠くまで見ることが出来るなんて。
「こんなに素敵な世界を見せていただけるなんて……何と感謝したら良いのか……本当にありがとうございます、マダム!」
「ええ、ええ!見えるというのは素晴らしいことですからねぇ!私も裸眼ではろくに見えないんですよ!だからお嬢様のような方のお手伝いが出来ることが本当に嬉しくってねぇ!さぁさ、ロクト様にもその表情を見せて差し上げてくださいな!」
女店主に軽く背を押され、ロクト達が待つカウンターの方へ向かう。
廊下に飾られた風景画に描かれた猫に似た雲の形も、置かれた観葉植物の生き生きとした葉脈も、窓に掛けられた薔薇の透かし編みが映えるレースカーテンも。
先ほど通った時もここにあったことはわかっているけれど、見えなかったから気付くことができなかった。
ドキドキと高鳴る心臓が騒がしい。ああ、世界にはこんなにも美しいものがたくさんあるのだ。
「さあ、お嬢様!」
女店主がカウンターに続く扉を開く。
そこで待っていたのは、相変わらず整った母譲りの美貌にピジョンブラッドの瞳を驚きに見開くロクトと、店内の壁際で橙色の瞳を細めて穏やかな笑みを浮かべ控えるキャサリンに、その隣で嬉しそうに頬を押さえながらこちらを覗き込むように体を傾げ、翠色の瞳を輝かせているエリザベスだった。
「っ……!」
まだ出会ったばかりだけれど、大切な人達。何となくのシルエットでしか把握できていなかった姿形が目の前にはっきり在る。
あぁ、なんて幸せな瞬間なのだろう。感極まって涙が零れそうで、両手で口許を押さえた。
「すごい……っ、まだ距離もあるのに、皆様のお姿が、はっきりと見えます……!」
ハンカチを取り出して涙を拭おうとしたところで、眼鏡のレンズに指が当たってしまった。
「あっ」
俯いた一瞬の間にこちらに近付いていたロクトがその眼鏡の蔓をそっと摘まんで持ち上げると、自身のハンカチで涙の滲んだ目許を拭われ、眼鏡を元の位置に戻される。
あまりにも自然に行われた一連の動作に瞬きすら出来ず見つめてしまった。
「慣れるまで大変かと思いますが、そのうち自身の一部となりますよ。ゆっくり慣れていきましょう」
「え、あ……、はい……?」
まるで子供にするように人の涙を拭うのは、ロクトにとっては当たり前のことなのだろうか。顔の近さや顔に触れられたことに先程感動していた時とは違う胸の高鳴りを感じて気恥ずかしい。
熱くなった頬を指で押さえてロクトから目線を逸らせば、ロクトの背後でエリザベスが拳を握って顔を赤らめていた。何か言いたげに口を動かしていたが、目が合った途端にぐるんとキャサリンの方に顔ごと向いてしまう。
「リザ……?」
今の動きは一体何だったのだろうかと声を掛けるが、エリザベスは手と顔をブンブンと振ってばつが悪そうな苦笑いを返した。どうやら聞かれると困ることのようだ。
キャサリンが呆れたようにエリザベスを見下ろして眉を寄せたので追及するのはやめておこうと思う。
「……ふふ」
「どうしました?」
「改めて思ったのです。見えるって、凄いことだと」
正面のロクトは続きを促すようにゆったりと微笑んでいる。後ろで視線で会話していたはずの侍女二人も、今は興味深そうにこちらを伺っていた。
「……エーピオス男爵家の邸を出てから私が誰かと会話する時はいつも、相手の方がどんな表情をなさっているのか想像するしかなかったのです。不快な思いをされていないか、退屈を感じていらっしゃらないか、困らせたり呆れさせたりしていないか、声色だけでは判断しづらく不安でした」
父が亡くなって執事と二人で暮すようになって以降、物理的に人との間に距離が出来、会話をしていても相手の細かい表情など見えなかった。声色や大まかな仕草のみで感情を読み取ってその状況に相応しい返答を返すのはそんなに簡単な事ではない。普通の人と同じように機微を感じ取れないからこそ相手を怒らせたり呆れさせたりした事も多いだろう。
「ですから、人に自分から話しかける事が少し苦手だったのです……」
「なるほど。確かに相互理解に於いて相手の表情や視線は判断に大きく関わりますね」
「はい。先程、キャシーとリザの言葉のないやり取りを見て、今は聞かない方がいいと思ったのです。そう、自身で判断する事が出来たのです」
その言葉にロクトはぴくりと片眉を上げて少し背後に視線を流し、キャサリンは先程と同じようにエリザベスを呆れの表情で見遣り、エリザベスは慌てて視線を斜め上に逸らして誤魔化すように小首を傾げた。
「今もあなた方の表情や視線がはっきりと見てとれる……その事が、言葉に出来ないほど嬉しいのです!ロクト様、本当にありがとうございます!」
「喜んでいただけて、俺も自分の事のように嬉しいです」
そう言ってロクトは本当に嬉しそうに破顔した。
ロクトからは花や手紙も含めて素敵な贈り物を貰ってばかりだ。だからこそ、困ってしまう。
「けれど、私にはお返し出来るものがなくて……」
グランツ公爵令嬢としてベスティエに正式に滞在するようになってから、公爵家から自由に使うようにと滞在費は準備されている。侍女達への給金や食費や諸々必要経費は申し訳なく思いつつも使わせてもらっているが、自分の我儘の為に使おうという気には到底ならない。
公爵家で下働きしていた時の給金もライラが管理していたし、こちらからも何かプレゼントを用意して贈り返すということが出来ずもどかしい思いだ。自分だって、ロクトを喜ばせたいのに。
そもそも自由に使えるお金があったところで何を贈ったらいいのかはわからない、という別の問題もあるのだけれど。
「お返しならもう貰いましたよ?」
「え?」
「貴女の喜ぶ笑顔が、俺には他の何よりも嬉しいです」
少し照れながら微笑むロクトの言葉に胸の奥がキュンとして、いつも目の前にある顔を隠せるレースや帽子の鍔がないことに動揺する。
何か言葉を返したいのに何を言っていいのかわからず、はわ……と変な呼吸が漏れてしまう。
自分でわかるくらいに熱くなった頬をどうにか隠したくて、俯いて両手を胸の前で握りしめた。
「っ……可愛いっ」
笑いをこらえるような声が聞こえたと思ったら、頭にぽすん、と何かが載せられる。視界の端には見覚えのある大きな鍔。
それが預けていた帽子だと認識すれば、その鍔をくいっと摘まんで引っ張り、深く被って顔を上げる。
「あのっ!笑顔、とか、そういったものではなく!今は無理かもしれませんが、いつか必ず何かプレゼントを贈らせてくださいませ!」
「ははっ、実は結構頑固なんですね!」
「だって!お花もお手紙も、この眼鏡も!本当に嬉しいのです!私だって、ロクト様に喜んでいただきたいじゃありませんか!」
「ぅぐっ……!」
ロクト様ばかりずるい、という的外れ極まりない恨み言は辛うじて呑み込んで必死に訴えれば、言葉に詰まったロクトは顔を逸らして胸元を押さえた。こちらに向くことになったキャスケットからはみ出た耳がとても赤い。
そしてロクトの背後では何故かエリザベスが嬉しそうに顔を輝かせながらキャサリンの腕をペシペシと叩いている。
「んはーっ!こんなに喜んで貰えて男冥利に尽きますねぇ、ロクト様!」
背後から聞こえてきた大きな声に振り返れば、女店主がケラケラと笑っていた。
「お嬢様!ちょっとお耳を」
ニコニコしながら手招きされたのでそちらの方に近寄れば、耳元に手を当ててそっと囁かれる。
「ロクト様を喜ばせたいってことでしたらね、お嬢様からの口付けなんていかがです?お勧めですよ!」
「くっ……!?」
女店主のとんでもない提言につい大きな声を上げかけてしまった。
彼女の囁きがロクトの耳まで届いていたらどうしようかと心配になってそちらを窺えば、こちらを訝しげに見詰める瞳と視線がぶつかる。どうやら聞こえてはいなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしてから女店主の袖をくいと引っ張り、今度はこちらから耳打ちで答える。
「……そんなはしたないことは出来ません。逆に幻滅されてしまいます……」
「まさか!」
女店主はカラカラと笑いながら眼鏡を仕舞う用の小さな箱を柔らかい布で包んでカウンター越しにキャサリンに手渡し、その隣ではロクトがいつの間にか準備されていた手形にサラサラとサインを記入していた。
「彼女に変な事を吹き込んでいないだろうな?」
「嫌ですねぇ!ロクト様は私への感謝で次のお越しの際には教会通りの菓子店のマールムパイを手土産にしたくなるはずですよ!」
「あの店はいつも朝から行列が出来て昼前には完売してると聞くが」
「なんでも今年は農作物全般が大豊作であの店のマールムの入荷も増えたらしくてねぇ!最近は昼過ぎまで完売しないそうですよ!本当に、豊穣の女神デミルーに感謝しなくちゃねぇ!」
「そうか」
ロクトは安心したように微笑むとこちらを見詰めた。
「感謝なら、彼女に。カイマスの枯れかけた作物を救ってくれたのは彼女の魔法だ」
「えぇ!?じゃああの噂の女神の化身様が!?お嬢様なんですか!?」
「え!?噂……!?女神の化身……!?」
魔法で成長させた作物が無事に流通していることに安堵したものの、女店主のただならぬ発言に失礼ではあるがついオウム返しに聞き返してしまった。
「カイマスに突如女神の化身が降臨なさって豊穣の奇跡を起こしてくださったから今年は過去にないほど大豊作だって、街に住む者ならみーんな知っていますよ!噂では化身様の正体は神秘のベールに包まれてるなんて言われてましたけど、まー!まさかこんなに別嬪さんだったなんてねぇ!お嬢様には感謝してもしきれませんね!」
「そんな……女神の化身などと……!何故そんな烏滸がましい噂が立ってしまっているのでしょう……?」
「あの時の奇跡を言いふらしているのはきっと叔父上でしょうね……帰城の際にも叔父上の貴女への態度は最早崇拝と言えるものでしたし」
「ですが……私はただ自分に出来ることをしただけです。ロクト様が魔力を譲渡してくださったからこそカイマス全域に魔法が行使出来たのですし、私が女神の化身などという噂が立っては女神デミルーへの冒涜になるのではないでしょうか?」
「ご自身で名乗った訳でもありませんし、実際に貴女の為業は女神の起こした奇跡だと言っても過言ではないと思います。俺は本当に魔力を譲渡しただけですし、貴女の魔法でベスティエの民が救われたのは事実です。女神デミルーもお喜びになることはあってもお怒りになるとは思えません」
ロクトはそう言ってくれても、どう考えても過言であると思う。
それでも、侍女達や女店主も彼の方に概ね同意しているようで、うんうんと頷きながら話を聞いている。ここでこれ以上否定したり心配を口にすれば、彼らの心を無下にすることになる。彼らの表情を曇らせたいわけではない。
「……では、この後教会にお祈りに行ってもよろしいでしょうか?」
「勿論です。俺も丁度お礼申し上げなければと思っていたところですし、礼拝の後鐘塔に登りましょう」
「はい、ありがとうございます」
そうして店の外まで見送りに出てくれた女店主に改めて礼をして手を振って別れを告げた。
大変お待たせ致しました。
一年以上更新が停まっている作品にブクマ・いいね・評価・ご感想いただき本当にありがとうございます。
続きが読みたいと言ってくださる方がいらっしゃることが何よりのモチベーションになります。
正直完全に筆が止まって別作品を書いていたので(公開はしていませんが)話の繋がりに不安がありますが、またゆっくりと更新していければいいなと思います。
次は流石に一年以上お待たせしたくないと考えておりますが、今後も不定期更新となりますこと、どうかご承知おきくださいませ。




