30:辺境伯夫人は後ろ髪を引かれる
ベスティエ城の西に広がる大森林。
古よりそこに生息する魔物との戦いは長きにわたり続いたが、二十五年ほど前に王国の英雄と王国の盾の二人の活躍により、人間側に攻勢が傾いた。
それからは魔物たちも大人しくなり鳴りを潜めていたのだが、ここ最近どうにも様子がおかしい。
セントラが嫁いで来てから発足した調査部隊は様々な事象からデータを収集し研究を重ねた。
増加する動物たちの骨や死骸。食い荒らされる木の実や草花。魔物討伐軍の隊員たちが哨戒中に魔物に出くわすことも増えたし、その魔物たちの多くは明らかに凶暴化している。
結果。近く、魔物たちの大規模侵攻が起きる可能性がある。
その一方で、森の奥の方で見かける魔物の中には、ひどく警戒している様子の魔物もいたという報告もあった。
森の出口に近い場所で出くわす魔物は何の躊躇もなく襲ってくるのに。
森の奥に、何かあるのだろうか。
そう考えて、少数精鋭の斥候を送った。
そろそろその斥候たちが戻る頃合いではあるのだが。
今は正直面倒事は持ち帰って来ないで欲しい。目下、将来の義娘を愛でるのに忙しいので。
「その後、目の調子はどう?」
クラティオを招聘し彼女の診療をしてもらってから数日。
色々とやらねばならない仕事に忙殺され、彼女とゆっくり語らう時間をとれたのは久しぶりだ。
彼女の部屋を訪ね、ソファの隣に座らせ話を聞く。
「はい、サナーレ卿……いえ、伯父様にご教授いただいたおかげで、無事人相手にも治癒魔法を行使出来るようになりましたし、キャシーも毎日充分な魔力を譲渡してくれるので解毒は順調に進んでいるように思います。まだ視力は回復しておりませんが、眩しさが緩和いたしました」
クラティオの泣き落としに近い懇願の甲斐あって、彼は可愛い姪から『伯父様』と呼ばれる喜びを享受し満足そうに帰領したのだが、彼女は未だその呼び方は慣れないらしい。
眩しさが緩和されたと聞き、目許を覆うレースをそっと上げて瞳を覗いてみれば、急な事に一瞬目を張り、少し頬を染めて目線を下げる様が可愛すぎて。
そのまま抱き寄せようとしたところ、背に回しかけた腕を掴まれた。
「ハァ……何で君がここにいるのかな?義母娘水入らずの時間を邪魔しないでほしいのだけど」
ため息と共にそちらを見上げれば、己そっくりの息子が温度のない笑顔でこちらを見下している。
「すみませんね。直属の上司が捌いても捌いても終わらない仕事を振ってくるもので、その上司も仕事を抜けるこの時間しか空かなかったんです」
「当然だろう?君だけこの子に会える時間があるなんて不公平じゃないか」
「母上はもっと俺に協力するべきだと思います。彼女がベスティエに嫁いできてくれるかは俺が彼女を口説けるか次第なんですから」
「君は婚姻を結べば夫という立場で一生隣にいられるのだから今くらい私に譲歩したまえよ。何より輿入れに際してお嫁さんが一番悩みがちなのは嫁姑問題だよ?私がこの子と仲良くなれば不安が減る。君に出来る協力としては最も効果的だと思うけれどね」
そんな恒例化したやり取りを見て、彼女は堪えきれないといった様子で口許を手で隠した。
「本当に、お二人は仲がよろしくて……ふふふっ!」
彼女が楽しそうに笑ってくれることに安堵する。
ベスティエに来てから、ずっとしんどかったはずだ。
母と思っていた女に捨てるように連れて来られて、嘘を吐くように強要され、罪悪感に苛まれながら毒された身体で少ない魔力を使い切って畑で倒れて……追い打ちをかけるように、信じ難い真実を知らされた。
数日間はろくに眠れていなかったと侍女たちから聞いた。ベッドに横になって目を閉じたのを見届けても、次の朝には顔色が悪く目元を隈で縁どった彼女と対面したのだと。
無理もない。精神的にダメージを受けた時、何も考えずに眠れと言われても、思考することはやめられないものだ。
彼女は何に対して傷付いて、何に対して憤りを感じただろうか。
どんなことでもいいから話して欲しいと思うけれど、それはきっと自分の役割ではない。
アイリスにとっての己のように、彼女にも何でも話せる誰かがいればいいのに。
息子はどうかと考えて、アレには無理かと首を振る。
時をかければ将来何でも話せる関係になるかもしれないが、今はどうしたって年頃の未婚の男女だ。
いい感じにお互いを意識しているようだし、だからこそ話せないことだってある。
己にとってのアイリスのように。時折話せない本音は存在するのだ。
誰だって、好きな相手に心配はかけたくないものだからね。
専属侍女につけた二人は……いい関係は築けているように見える。
きっとこの先何かあった時には相談し、悩みを共有できるだろう。
けれど。あの二人も、ベスティエに来るまでの彼女のことは何一つ知らない。
あの子に心のわだかまりを打ち明けてもらうには、彼女の過去を詳しく知る必要がある。しかし彼女は優しいから。自分の中にある重りを誰かに持たせようとはしないのだ。
おそらく、自分が体調を崩したり暗い顔を見せることで、皆に心配をかけることをよく理解している。
だからこそ努めて明るく振る舞うし、よく笑顔を見せてくれるのだろう。
無理をしてるかもしれない。けれどそれは悪いことではない。これからも人と関わって、前向きに生きていこうという気持ちの表れだから。
「……失礼いたします。セントラ様、先ほど斥候隊が帰還いたしました」
扉の向こうからチェーニが至福の時の終わりを告げた。
「あーあ。時間切れみたいだ」
「お忙しい中会いに来てくださり感謝いたします」
「仕事が片付いたらまた会いに来てもいいかな?」
「もちろんです!楽しみに待たせていただきますね」
はぁ。可愛い。こんな可愛い義娘とまたしばらく会えない日々が続くなんて。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にしようとしたところで。
「ロクト様」
一緒に退出しようとしていた息子を、可愛い声が呼び止めた。
「毎日お花とお手紙を贈っていただき、ありがとうございます。とても……嬉しいです」
「喜んでいただけたのなら何よりです」
「ですが……お忙しいでしょうし、どうかご無理なさいませんように……」
「貴女にどんな花と言葉を贈ろうかと考えることだけがここ最近の楽しみなんですよ。そのささやかな楽しみをどうかお許しいただきたい。母上だってその時間を奪うような鬼ではありませんからね。ねぇ、母上?」
我が息子ながら中々粋な事をしているようだ。知らない間に成長していたのだと感じられて素直に嬉しく思う。
「もちろん愛しい息子の楽しみを奪ったりはしないさ!いやー君が花と手紙をね!」
そう聞いてから改めて部屋を観察してみれば、窓辺の花瓶に白いアイリスが活けられていた。
花言葉は『あなたを大切にします』か。センスも悪くない。
「仕方ない。その頑張りに免じて近いうちに一日休みをあげようじゃないか。彼女はベスティエに来てからこの城とカイマスしか見ていないだろう?君が街でも案内してあげるといいよ」
「……本当にいいんですか?言質取りましたよ」
「君は疑い深いねぇ」
「お忙しいのに、よろしいのですか?せっかくのお休みならゆっくり身体を休めた方が……」
「例え何日寝てない状態だろうと、疲労困憊だろうと、貴女と出かけられる機会は逃しません。もっともそんな非効率的な仕事の仕方もしませんし、本当に抜けられない時は母上も俺に休みを出したりはしませんから安心してください」
悔しいけれど彼の言う通りだ。肩をすくめて頷いて見せれば、彼女はレースの下で喜びを隠し切れず控えめに笑った。
もっと、我儘を言ってくれていいのに。
「わぁ!街で初デートですか!素敵ですねぇ!」
「リザ!デ、デートだなんて……!案内していただけるというお話だったでしょう?」
「ロクト様の案内で二人で街を歩くなら、デートじゃないですか?」
「ふ、二人きり!?」
焦って声が裏返ってしまっている彼女も微笑ましいけれど。
「さすがに二人というわけにはいかないよ?婚約者でもないんだから」
思ったより早く、この台詞が言えなくなる日が来るかもしれない。
少し寂しいけれど、嬉しくもある。
「専属侍女の君たちもついて行くんだよ。彼が暴走しそうになったらちゃんと止めてね」
「かしこまりました、奥様」
「……信用ないですね」
「君のしてきたことはしっかり報告あがってるからねぇ。君の行動の結果だよ」
キャサリンは使命感に溢れた表情でしっかり頷き、エリザベスは悪戯っぽく笑って息子に視線を送った。
彼女たちに任せておけば問題ないだろう。
「セントラ様。街を見学する機会をいただき、感謝いたします。とても楽しみです!」
「君にお礼を言われてしまっては今更やっぱりやめたとは言えないからね。楽しんでくるんだよ」
「はい!」
さて。子供達を愛でた後は、お仕事の時間だ。
何事もなければチェーニは己を呼びに来なかったはず。何か面倒事が発生したのは間違いないだろう。
帰還した斥候隊の話を聞き、労いに向かうとしよう。




