3:『公爵令嬢』の誕生
「……グランツ公爵家の血筋が必要なのであれば、私には務まりません」
「だーいじょうぶよ。特質魔法は必ず継承されるわけではないし、先祖返りで両親と違う特質魔法が発現することだってあるのだから。
あんたにグランツ公爵家の血が流れてなくても誰にもわからない。野獣英雄の息子によく似た野獣の子を産んだらいいわ。きっと喜ばれるわよ!
あんたみたいな役立たずが人様のお役に立てるなんて良かったじゃない!」
勝ち誇ったようなモイラの歪んだ笑みを、少女は諦めの気持ちで眺めていた。
モイラは先ほど母から何も聞いていないのねと言った。
ということは、身代わりとして婚姻するのは決定事項なのだ。
きっと公爵には秘密で、母がモイラにそう提案したのだろう。
◇
幼い頃から母に愛されていないことは気付いていた。
生まれつき視力の弱い目。
光を直視することが出来ず、レースで遮光しなければ日常生活すら送ることができない。
そのせいで自分の育児は大変だっただろうと思う。
母はずっとグランツ公爵家でモイラの乳母として働いていた為、少女は主に父であるミーテ・エーピオス男爵の手で育てられた。
男爵家に領地はなかったが、王都の外れに庭付きの小さな邸を持っており、そこで父と過ごした十年間は掛け替えなく幸せな時間だった。
優しく穏やかな父。
弱い視力で細かい顔の造形はわからなかったが、ふわふわで太陽のような金色の髪と、晴れた空の色に似た明るい青い瞳を持っており、誰からも好かれる人物だった。
邸で働いていた執事とメイドの二人に父の事を尋ねれば、
『旦那様は身も心も美しく、魔力も高く、特質魔法まで使える自慢の主ですよ』
と、毎回父に親切にしてもらったエピソードを交えながら嬉しそうに話してくれた。
ぼんやりする視界で、抱き上げられて鼻と鼻がつくほど間近で視る父は確かに美しく、いつも優しく穏やかで柔らかな笑顔が印象的だった。
成長していくにつれて、父は少女に対して申し訳なさそうな態度をとることが増えていった。
滅多に帰ってこない母のことを心苦しく思っていたのだろう。
母に抱かれた記憶は一つもない。
ライラ・エーピオス男爵夫人という女性が母親だと教育を受けたから母なのだと覚えただけ。弱い視力では金髪に蒼い瞳を持つ女性としか認識できない。
父のように目線が合う距離に抱き上げ、近くで顔を見せてくれればもっとしっかり視えただろうが。
物心ついて初めて母に会った時、「おかあさま」と声を掛けたことを憶えている。
応えることなく振り向いた母はどんな表情をしていたのだろうか。
未だ母の顔をしっかりと視たことはない。視たいとも思っていない。
仕事に生きる母は、義務で子を産んだ。愛されていないだけならいい。その分父が愛してくれたから。
しかし。もしかしたら、恨まれているのではないだろうか。そう思ってしまうほどには、母娘の心の距離は離れていた。
その証拠に、少女は誰もが持つはずのものを持っていない。
◇
ガタリ、馬車が止まる。
「着いたのかしら」
扉が開くのを待っていると、少ししてノックの後に上品な青いドレスに身を包んだ女性が乗り込んで来た。ライラだ。
「お義母様、どうされましたの?」
「……説明が、まだだったでしょう?」
「私がしておきましたわ。道中暇だったのですもの!
本当に田舎だわ。こんなところに住むなんて耐えられない!」
「……このような格好では公爵家の一人娘として輿入れさせられないわ」
ライラの視線が少女の頭から爪先までをゆっくりと辿り、呆れたようにその蒼い瞳を閉じて首を振った。
「このドレスだけで十分では?」
それ以上少女を着飾らせてはたまらないと、モイラは不満げに言うが、ライラは更に一つ溜息を吐く。
「あなたの代わりに嫁ぐのよ?『モイラ・グランツ公爵令嬢』として。
いくら田舎者と言えど、相手は辺境伯家です。公爵家が下に見られるわけにいかないでしょう」
「……っ」
モイラは悔し気に唇を噛むが、ライラの言葉に納得した様子で、それ以上文句を言うことはなかった。
その間も少女はモイラのドレスに身を包み姿勢よく座ったまま微動だにしない。
「立ちなさい」
公爵家の大型の馬車だ。大人数人が立って身支度を整えるくらいの余裕は充分にある。
少女はドレスの裾を踏まないよう、ゆっくりと立ち上がった。
ライラは少女の後ろに回り込むと手早くドレスの余剰部分を詰め、慣れた手つきでくすんだ金髪に香油を馴染ませ編み込んでゆく。
公爵家の後妻に入った今では使う事のない技術だが、アイリスの世話をしていた長い時間で培ったものだ。そう簡単に忘れたりしない。
少女は、不思議な気分だった。
母がこれほど近くにいることも、自分の世話をすることも、初めての経験だ。
幼い頃にあれほど憧れた瞬間。だというのに、この瞬間は自分のためのものではない。公爵家の、モイラのための時間だ。
母の手が、少女の金髪を器用に編み込んでアップスタイルに変えてゆく。額に、頬に、首に、母のあたたかい指が触れる度、唇を噛んだ。
泣くな。泣くな。泣くな。
言い聞かせ、拳を強く握る。
レースで目元が隠れていてよかった。もしかしたら、赤くなっていたかもしれないし……母の顔がしっかり視えてしまっていたかも、しれないから。
「化粧をするからレースを外します。目を閉じていなさい」
「……はい」
それを聞いたモイラがチャンスだと言わんばかりに少女の目許を覗き込む。しかしそこにはすでに閉じられた瞼があるだけだった。しかも憎らしいことに驚くほど整った顔立ちをしている。
……いつもレースを掛けていてよかった。これほどの美貌だなんて知らなかった。目を閉じた状態でこんなに美しいなんて。
その美しい顔に彩りが載せられてゆく。目許と白い頬に淡いピンクが咲き、形の良い唇に薄く紅が引かれる。
悔しいことに、少女の作り物めいた整った造形に目を奪われてしまう。
モイラの心には完全に女としての敗北が刻まれた。
それを認めないように首を振り、目線を外に無理やり外す。悔しさで握って膝に押し付けた拳が震えていた。
化粧を終えて、レースを付けなおす。
再び隠された目許にほっと息を吐いた。
モイラはもう二度と少女にレースを外せとは言わないだろう。
「この馬車から降りたら、あなたはモイラ・グランツです。いいですね?」
「……」
少女は母に名を呼ばれたことがない。初めから与えられなかったから。
これまでも、これからも、母は少女に真名を与えることもないし、呼ぶこともない。
父が申し訳なさそうな態度だった理由の大部分はここにあるのだろう。
貴族の真名とは産まれた子と同性の親や、その子の誕生を心から祝福する貴族の同性が与えるもので、父からは与えたくても与えられないものだから。
エーピオス家の先代男爵夫人ももうすでに儚くなって久しく、母の身近な貴族女性はいなかった為、母以外少女に真名を贈れる人物はいなかった。
それでも出生届や少女を呼ぶ名は必要で、仕方なくエーピオス家に勤めていたメイドが仮名として名付けた。
貴族にとって真名とはただの識別記号ではない。魔法の行使に必要不可欠で真名に込められた祝福によって魔力も上下する。
輿入れの際に家名が変わるタイミングで嫁ぎ先の義母から新たな真名を与えられる場合もあるが、そこまで多くはない。
本人が元の真名から変えたくない場合も多いし、そもそも義母が嫁を心から祝福できることも少ないからだ。
これから少女は自身の仮名ですらなく、モイラ・グランツという他人の名で生きていくことになる。
ああ、でも。
「……わかりました、お義母様」
これで名実ともに、母を義母と呼ぶことができるのだ。