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29:『悪役令嬢』の自嘲




 義母に連れられてやってきた人里離れた静かな邸での日々は、モイラの心を思いの外和らげていた。


 ここには高額な商品を虚栄心に付け入って売りつけてくる商人も来なければ、着飾って出席しなければならないお茶会も夜会もない。


 ここでは『公爵令嬢』らしく振舞う必要もなく、出来もしない特質魔法の修得に励む必要もない。


 とても優秀な執事が世話をしてくれ、これまでおざなりにしていたマナーや作法まで、気が付けば修正され身に付いた。これまで学んだどの教師より教え方が上手く、十日も経たないうちに自然に出来るようになっていたのだ。


 今更と言われればそれまでだが、それはモイラが初めて実感した成長だった。

 特質魔法の修得に固執していなければ、この成長をもっと色んな時に感じる事が出来て充実した生活をおくれていたかもしれない。


 追い出された時にはあんなに帰りたかった王都の邸での日々が虚しくて馬鹿らしかったと感じるほど、この邸は今のモイラにとって居心地が良かった。



 あの日々は何だったのだろう。


 父に愛されたかった。

 はじめはただそれだけだった。


 こちらを見て欲しくて、我儘を言った。

 失望の瞳がモイラを拒んで、悲しくて泣いた。


 貴族としてのマナーを学んでも、『公爵令嬢』として当然のことで。

 少しでも出来なければ呆れられ、見下される。


 モイラにしか出来ない事を身に着けて、見返したかった。

 治癒魔法でも結界魔法でもいい。両親の特質魔法を修得して、あなたの娘は役立たずなどではないと証明したかった。


 けれど。どんなに学んでも、努力しても、だめなものはだめで。

 モイラには才がないのだと突き付けられた。


 綺麗なドレスや装飾品でいくら着飾っても、結局父には愛されない。


 邸の使用人たちは、表ではモイラを褒めそやし、媚び諂い、裏では出来の悪い子供だと陰口をたたく。


 モイラの味方は、乳母であり、幼い頃からそばにいてくれた義母だけだった。


 義母はモイラの努力を認めてくれたし、父に愛されないと泣くモイラを自分のことのように慰めてくれた。


 自分の娘よりもモイラを優先してくれて、気分が晴れた。

 あの子を初めて見た時から、あの子が嫌いだったから。


 上品で育ちの良さを滲ませる振る舞いも、特質魔法を修得している事も腹が立った。

 あのレースの下でモイラを見下しているのではないかと思えてならなかった。


 モイラには母がいないのに、あの子にはあんなに優しい母もいる。


 ないものねだりで羨んで、あの子に嫉妬したのだ。


 公爵家に来たあの子をいびっていじめて、その瞬間は晴れた気持ちが。ふとした時に『だから誰にも愛されないのだ』と誰かが囁いてひび割れた。


 そんなこと、自分が一番わかっている。こんな自分が、愛されるはずない。だってこんなにも自分自身が嫌いなのだから。


 囁いたのは、モイラ自身だった。



「お嬢様」


 客人の訪れないサロンで窓の外を眺めて思考の闇の中に沈みかけたモイラの背後から、執事の声がかけられた。


 ……この男は、いつもそんなタイミングで声をかけてくる。


「お茶の時間にいたしませんか」


 パッセン・アウロフ。この老執事は己に仕えることが苦痛ではないのだろうか?


 ここに来た初日からモイラの態度は悪かったはずだ。

 侍女がいないことに悪態を吐き、出された食事にありもしない難癖をつけ、一晩中泣きわめいた声はこの狭い邸の中どこにいたとしても耳に響いて睡眠の邪魔をしたことだろう。


 それでも、この老執事は嫌な顔一つせず、モイラの世話を辞めない。貴族令嬢としての教育も諦めない。


 朝目が覚めた時には洗顔と着替えの準備が整っており、喉が渇いたと思う前にお茶が用意され、歩きたいと思った時には外出準備が出来ていて、用意される食事の味付けも量もちょうどいい。

 マナーや作法を間違った時には素早く的確に指摘され、手本を見せられ、それを習って上手く出来れば良かった部分を具体的に褒められた。長年の癖が出てしまって失敗することも多々あったが、毎回根気よく、怒ったり呆れたりすることもなく教えてくれた。


 こんなに優秀な執事が、何故こんな領の端の誰も住んでいない邸の管理人などをしているのだろう。


「……パッセンは、何故ここで働いているの?」

「新たな主人を見つけました故。お嬢様にお仕えできることこそ、この老爺の生きる糧でございます」


 執事は胸に手をあて恭しく一礼した。

 多少は大袈裟に聞こえるけれど、嘘やおべっかを使っているようにはまったく見えない。

 それほどに、パッセンはモイラを主として尊重してくれていると感じている。


「私が来る前からここにいたでしょう」

「大恩ある方のご遺志を守る為、俗世を離れておりました」

「大恩ある方?」

「……お嬢様とは、相まみえる事の出来なかったお方でございます」

「そう。まるで私と会えなかった事が無念みたいに言うのね」

「……まさしく」

「フフ、変なの。会ったこともない人なのに」


 けれど。その会ったこともない人のおかげで、パッセンはここで働いていたのだ。感謝しなければなるまい。

 父に捨てられ、義母に見放され、取り残されたこの邸で。彼がいなければきっと心が折れていた。


「ねぇ。お義母様がおっしゃった『役割』って、何だったのかしら?」


『あなたがちゃんと自分の役割を果たしてくれれば、一生優しくいられたわ』


 毎日何度も思い出す。忘れることの出来ない、義母のその言葉。

 本来与えられていたはずの果たせなかった『役割』とは一体何だったのだろう。


 ちゃんと父に愛されて、捨てられたりしない『公爵令嬢』?

 そんな夢みたいな存在になるにはどうしたらよかったのか。


 実際にモイラが果たした『役割』は、皆に嫌われて誰からも愛されない『悪役令嬢』とでも言ったところだろうか。


 ……あまりにもぴったりすぎてついつい自嘲してしまう。


「……ハッ……」

「どうされました?」


 モイラの問いかけに顔を曇らせていた執事はモイラの自嘲を聞きとめると怪訝な表情をした。


「私にぴったりの役割の名称を思い付いたわ」


 窓を背に、その場でくるりと執事の方へと身体を向けて。

 執事から教わった美しいカーテシーを披露する。


 摘まんだスカートから指を離して、顔の近くに落ちた自慢の美しい金髪を指でふわりと後ろに払いながら顔を上げれば。


 そこには偽りの自信に満ち溢れた、儚く脆いモイラの笑顔が張り付いていた。


「『悪役令嬢』。どう?似合うでしょう?」


 それを見た執事は一瞬だけ何かに耐えるように眉を寄せて瞳を伏せてから、けれどすぐに真剣な表情をしてモイラとしっかり目線を合わせた。


「いいえ。お嬢様には全くもって似合いません」


 執事の強い意志のこもったその表情と言葉に脆い笑顔が壊れそうになるけれど。


 ……この執事は己の所業を知らない。

 だからそんな風に真っ直ぐモイラを信じてくれようとする。


「やめてよ!」


 そう叫んで、サロンから飛び出した。

 淑女にあるまじき行為だ。きっと今度こそ、執事だって呆れるだろう。


 けれど、あの場にいたくなかった。

 胸が痛くて、息が出来なくて、涙がこぼれてしまいそうで。


 与えられている自室へと駆け込んで、今日も完璧にベッドメイクされているベッドにドレスのままで飛び込んだ。

 フカフカの枕に顔を埋めて嗚咽をこらえる。


 ……その時、部屋の外からオルゴールの音色が耳に届いた。


「……お義母様が歌ってくださった、子守唄……」


 癇癪を起こしてぐずった時。お義母様が頭を撫でながら歌ってくれるこの唄が好きだった。

 優しくて、包み込んでくれるような旋律を聞いていると、それまで抱えていたどうにもならない感情も一瞬忘れて、眠る事が出来たから。


 オルゴールが奏でるその懐かしい旋律が、モイラのささくれだった心をそっと撫ぜて。


 モイラはゆっくりと、ひと時の優しい夢の中に誘われていった。




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