26:公爵夫人の罪 1
どうしてこうなってしまったのだろう。
王都の公爵家の屋敷への帰路へ着く馬車に揺られながら、ライラは爪先を噛んだ。
ベスティエ領を出発してから既に何日も経ち、おそらくはもうあの子とベスティエの女主人の顔合わせも済んでいるに違いない。レースの下も確実に確認するはずだ。
かつての親友そっくりの顔をしたハリボテの公爵令嬢を見て、あの夫人は何に気が付くだろう。
識別眼の特質魔法を継承し、学があることを笠に着て、彼女はいつも人を下に見ていた。厭味たらしく、そんなこともわからないのかとわざとらしく溜息を吐く。
彼女は、ライラの特質魔法も識別している。あの子の瞳を『視』たならば、あれがニーヴ子爵家の毒の特質魔法によるものだと一目瞭然のはずだ。
けれど、あれは不可抗力だった。もう一度あの時の状況になれば、もう一度同じ行動をするだろう。
なぜならば。
子よりも母体を優先するというのは、他ならぬ旦那様の願いだったのだから。
◇
あの日はひどい嵐だった。
轟々と吹く風と雨が激しく窓を叩いて、公爵邸のあちこちで混乱が起きていた。
シルト・グランツ公爵が溺愛する夫人アイリスの初めての出産。治癒の特質魔法は傷を塞いでしまう為、出産時には行使できない。アイリスの生家であるサナーレ侯爵家としても、遠い領地から祈るしかなかった。
シルトは経験豊富な産婆と腕がいいと評判の医者を手配していたが、邸に勤める者たちは初めての事に慌てふためき、普段なら冷静にできることすらまともにこなせていなかった。
昨晩女児を産んだばかりのライラもゆっくり身体を休めているわけにはいかず、難産に苦しむアイリスの側で世話をしていた。
『奥様!いきんでください!もっといきんで!』
『んんんんんんーっっ!!は、はぁ、っんんんんんんーーーっっ!!』
声にならないうめき声を上げながら必死にいきむが、もともと体力のないアイリスにはとても難しいことだった。
天蓋から吊り下げられた白布を爪の色が無くなるほど強く掴み、大粒の汗と涙を流しながら、アイリスは頑張った。文字通り、死力を尽くした。
しかし、子は産まれてきてくれない。出血がひどい。このままでは母子ともに危険だろう。
産婆から状況を聞いた医者は、別室で待機していたシルトに選択を迫った。
『このままですと、奥方も御子も助かりません。どちらを優先しますか』
医者の宣告を受けたシルトは絶望の表情で俯き、答えなど、出せるはずもなかった。
何よりも愛しい妻。その妻との間に十年越しに授かった子。妻を案ずるあまり子を諦めるようにと説得したこともあった。しかしその時妻は何と言った?
『公爵!選択を!どちらも喪ってしまいますぞ!』
シルトが医者に選択を迫られていたその時も、刻一刻と事態は悪化していた。
出産用に準備していた客室から何度目かわからない、次々と真っ赤に染まった湯桶が運び出されていく。外の嵐も益々強まり、窓はガタガタと激しい音を立てている。
その音にかき消されないようにと産婆は喉を枯らせて声を張り、アイリスも必死でいきみ、侍女やメイドたちも混乱の最中で、ベッドの脇の椅子に置かれた籠の中でほにゃあほにゃあと泣く赤子の声は誰の耳にも届いていない。
『出血が多すぎますっ!奥様、もういきむのはやめましょう!』
『はぁ……はぁ……はぁ……っんんんんーっ!』
『奥様っ!』
アイリスにはもう、声を出す体力もない。血を失って、意識すら朦朧としている。
二人とも助かるならそれに越したことはないけれど、今となってはもう無理だろうとアイリス自身悟っている。自分の弱い身体のせいで、子も守れないかもしれない。
子を授かった時から決めていた。愛しい子。子の為であればなんだってできる。
自分ではなく、子を救って。
そう伝えて欲しいと、昨夜自分も子を産んだばかりなのにいつも通り隣で世話をしてくれているライラの腕を力なく掴む。
幼い頃からずっと隣にいてくれた、アイリスにとって実の姉のような存在。彼女なら、アイリスの気持ちを汲み取ってくれるはず。そう信じて。
しかし。
『……マダム、魔力の流れを止めたら出血は止まりますか?』
『え?えぇ。それはそうですけれど、胎児にどんな影響が出るか……』
汗だくで憔悴しきっているアイリスの紫の瞳が大きく開かれる。
違う。そうではない。ライラにはわかっているはずなのに、どうして。
そう否定したいのに、首を振ることすらできず。無力な自分に嫌気がさしたように、その眦からまた涙がボロボロとこぼれ落ちた。
アイリスの懇願するような視線から逃れるように瞳を逸らして。ライラは己の特質魔法を行使するため、彼女の大きな腹に手をあてる。
『……公爵には、アイリス様が必要です』
『……イ、ラ……』
ライラの実家であるニーヴ子爵家の特質魔法は毒だ。しかし毒というのは使い方次第で薬にもなる。
『“死と再生を司る神よ、ライラ・エーピオスの魔力を贄に毒薬を精製し、流るる魔力を堰き止め給え”』
ライラは出来る限り胎児に影響が出ないように、通常よりも繊細な魔力コントロールでアイリスの出血を止めようとした。それは、己の魔力を使い果たし気を失ってしまうほどに。




