25:公爵は書状を受け取る
カーン……カーン……
王城で鳴らされる夕刻を告げる鐘の音が、グランツ公爵家の執務室に響いた。
通常であればまだ王城にいるはずのシルトがこの部屋でこの鐘を聞くことは普段ない。
今日も朝からいつも通り王城に出仕していた。
近衛兵団に配属される新兵の剣術と魔法の実践訓練を終えて息を整えていた時、相手をしていた新兵たちよりも息の上がった己の側近が訓練場に走り込んできたのだ。
永く仕える側近がそのように慌てているところなど今まで見た事がなかった。
側近は一通の書状を握っていた。
その様子に不安を抱きながら書状に目を通したシルトは、己の目を疑った。
娘が、毒に冒されている?
それは、娘を押し付けるように送った先、旧友であるアドムのベスティエ辺境伯家からの書状だった。
封蝋に捺された家紋も、この書状が間違いなく本物であるということを証明している。
一度読んだだけでは信じられず、何度も読み返した。
けれど、何度読んでもそこには同じ内容が記されていた。
一体何故?十数日前に送り出した時は健康だったではないか。毒されている様子など微塵もなかった。
気が付かなかった?見落としていた?
確かに娘と過ごした時間はほとんどなかった。どう接したら良いのかわからなかったから。愛し方が、わからなかったから。
けれど、アイリスが命がけで産んだ子だ。彼女が毒されていいはずがない。心配でないはずがないのだ。
どんなに未熟な子供でも、己と愛する人とのただ一人の娘なのだから。
近衛兵団の団長に早退を告げてから邸に戻り、一刻も早くベスティエに向かうべく執事に準備を頼み、執務室で休職を願う書状を認めているところに、再度早馬が届いた。
今度もまた、ベスティエからの書状だった。昼前に娘の毒についての連絡が邸に届いたばかりで、日も置かずにもう一通?
嫌な予感がした。青褪めた顔で急いで内容を確認する。
けれど。そこに書かれていた内容は、未だに理解することができていない。
足の力が抜け、椅子から立ち上がる事ができない。
指先は冷え、微かに震えているかもしれない。
机上には二通の書状がシルトの手から離れた状態で散らばったままだ。
モイラは、己の娘ではなかった。
本当の娘は、エーピオス男爵の元で育てられた。
今ベスティエにいるのは、なぜか本当の娘で。
その子の瞳が毒に冒されていて、レースで遮光しなければまともに日常生活も送れず。
その毒はニーヴ子爵家の特質魔法による毒であると。
何よりも。
その子には真名が与えられていないという。
生まれてきたことへの祝福。望まれて生まれてきたという証。
アイリスは命がけで君を産んだのに。はじめから君を愛していたのに。
その愛情を知らず、十六年間も過ごしてしまったというのか。
何故そんな惨い事ができる?
そんなことをしでかした女をアイリスの後添えとして側に置いていた?
耐えられない。吐き気がする。怒りと憎しみと嫌悪感が渦巻いて、目の奥が熱い。握りしめ爪が食い込んだ手のひらと、噛みしめた唇が痛い。娘はもっと辛かっただろう。痛かっただろう。苦しかっただろう。
体内の魔力が暴走し、血液が沸騰しそうだ。鼻の中につうっと液体が通った感覚がしたと思えば、握りしめた拳にポタリと赤い液体がこぼれ落ちた。
「シルト様!」
駆け寄ってこようとする側近を片手を挙げて制して、もう片方の手の甲で鼻を拭った。
「……あの女は?」
「……書状は早馬で届きましたので、おそらくまだ数日は戻られないかと」
ゆらりと立ち上がって、窓の外を見やれば。
橙に輝く夕陽がちょうど街の向こうに沈み込んだ。
明かりを灯していない執務室は暗闇に飲まれて。シルトの蒼い瞳だけが冷たく浮かび上がる。
「そうか。では……手厚く迎えてやらねばな」
すぐにでもベスティエに駆け付けたい気持ちもあった。
会ったことのない娘に、会いたかった。
けれど。このままでは会えない。
アイリスにも、顔向けできない。
己は知らなければならない。
あの女が何をしたのか。自分の罪が何か。
アイリスを亡くしてから、目を閉じればいつでもそこに変わらない笑顔で彼女が微笑んでいた。
だから彼女が先に逝ってしまっても、生きていられたのに。
今はどうしても、彼女の表情は見えなかった。




