24:サナーレ侯爵の治癒魔法
◇
『お兄様、私、本当にお嫁に行くのね。信じられる?シルト様、私を愛していらっしゃるのですって!
私の身体が弱くても良いと仰ったの。後継が望めないかもしれないって、正直にお話したわ。それでも良いんだって。私が側にいればそれだけで幸せなのだって!
……でもね、お兄様。私、シルト様の御子が欲しいわ。
だって。きっと私、シルト様より先に逝くもの。この弱い身体ではずっと側にはいられない。
私が先に逝った時、二人の間に子がいれば……きっと私がいなくてもシルト様は幸せでいられるはず。そうでしょう?』
本人に言ったら怒られてしまいそうだし恥ずかしいから言えないけれど、と。妹はそう言って小さく笑って、輿入れ先へと嫁いでいった。
嫁いでから十年間。他家に嫁いだ妹に会うのは社交シーズンに行われる夜会の時くらいだったが、いつ会っても彼女は幸せそうにしていた。
特に、最後に会った妹は。
『お兄様、ついに念願が叶ったのよ。本当は半分くらい諦めかけていたの。でもこの子は私の元に来てくれた。ねぇ、お兄様もお義姉様の懐妊がわかった時、こんな素敵な気持ちだったのよね?
……シルト様は心配性で、少し喧嘩をしてしまったわ。ふふっ、大丈夫よ。解っているから。お兄様は心配なさらないで。
私、絶対この子を守るわ。何があっても、必ず。
不思議ね。シルト様の為に子を産みたいと思っていたのに、今ではこの子が私の中心なの。これが母親というものなのかしら?あ、シルト様には秘密よ?』
そう言って彼女は目立ち始めていた腹を優しく撫ぜて、母親の顔をして微笑んだ。
◇
用意された部屋に入り、薄暗い中で少女の目許にかかったレースを外す。あらわれた素顔は暗がりでもわかるほど、ひどく懐かしい妹の顔によく似ていた。
妹が守りたかった命が目の前にある。
本来ならば公爵家の一人娘として何不自由なく大切に育てられるはずだった少女。
それなのに、真名も与えられず。瞳を毒に冒されて苦しんだ。これまでの彼女の苦労を思うと胸が締め付けられる。妹が知ったら、どんなに悲しむことだろうか。
しかし。今己がすべきことは同情ではなく、治癒だ。その為に昼夜馬を駆り、此処へやってきたのだから。
「目を開けてくれるかい?」
「……はい」
伏せられていた瞳がゆっくりと開かれる。
そこにあったのは、妹の紫色の瞳ともグランツ公爵の蒼い瞳とも異なる、紺青が揺らめく瞳だった。
自信がなさそうに身を縮ませて立ち、こちらを見つめているようで、焦点の合わない不自然な視線。不安げに寄せられて下がった眉。
その愁いすべてを断ち切りたい。意を決し、魔力を集中させる。
「ごめんね。少し眩しいと思うけれど、頑張って開けたままでいてほしい」
「かしこまりました」
彼女がしっかりと頷いたのを確認して、呪文を紡ぐ。
「“生命を司る母なる女神よ、クラティオ・サナーレの魔力を糧に子を癒し瞳を冒す毒を浄め給え”」
体内の魔力を治癒の力に変換し、指先に集める。
光の粒子が淡く輝いて、彼女は眩しさに目を眇めた。どうにか薄く開いたままの瞳に向けて魔法を行使してゆく。しかし。
「……くっ」
彼女は苦し気に息を詰め、眉を寄せ、唇を噛んだ。
眩しさに目を閉じるのは反射だ。根性でどうにかなるものではない。通常であれば問題のない光量でも、彼女にとっては太陽を直接目に入れている状態と変わらないのだろう。
魔法の発動を止め、強張った彼女の肩を軽くたたいた。
「一度休憩しよう。目を閉じて大丈夫だ」
「……っ!……は、はい……」
彼女の瞳は十六年もの長い時間毒に冒され定着してしまっていた。魔力の流れを阻害する性質もあり治癒の魔法がうまくはたらかず時間がかかりそうだ。
それには彼女が眩しさを我慢し目を開けたままでいる必要がある。それは彼女にとって苦痛の時間になるだろう。どうしたものか。
「クラティオ殿、どうです?」
傍らで見守っていたセントラが彼女の背を慰めるように撫ぜながら問う。
「……難しいな。外から治癒するためには彼女に苦痛を強いることになりそうだ」
「うまく目を開けたままでいられず、申し訳ございません……次は必ず!」
「彼女の瞳は毒の影響で瞳孔がうまく調節できず光を直視できません。内部から治すことが出来れば苦痛は減るのでは?」
彼女を挟んでセントラと逆側に立つセントラにそっくりの青年――おそらく辺境伯嫡男であるロクト・ベスティエが、意気込む彼女を心配してか、口を挟んだ。
彼の言う通り、彼女自身が自ら治癒できれば理想ではある。
「そうだな……君は人への治癒魔法は成功したことがないんだったね?」
「はい……畏れながら、セントラ様に私の特質魔法について詳しく解説していただき、自身を治癒できないかと試してまいりましたが、どうにも勝手がわからず……申し訳ございません」
「謝ることはないよ。今、実際に治癒魔法を受けてみてどうだった?」
彼女は少し思案してから、ひとつ頷く。
「基本は私が行使する特質魔法と同じ性質だと感じました。違うのは、受け取り側の問題なのでしょうか?植物は大地から栄養を吸い上げる要領で私の魔法も吸収してくれますが、私の瞳がそれを拒んでいた……私の行使する魔法が根本的には治癒なのだと頭では理解していたつもりでしたが、草木にしか効果がないものだという長年の思い込みが邪魔をしていたのかもしれません」
「ふむ。元々君の瞳を冒す毒は魔力の流れを阻害する性質を持っているからね。余計に反発は強いはずだ。おそらく……魔力が流れるとひどく痛むのでは?」
彼女は頷くことを躊躇ったが、曇る表情がそれを肯定していた。
「その痛みを身体が憶えていて拒絶反応が強く出たのかもしれない」
「……なるほど」
「さっきはどうだった?痛みはあったかな?」
「あ……いいえ、眩しさで目を閉じてしまいそうになるのに抗うことが大変だっただけで、まったく痛みはありませんでした」
「そうか、よかった!治癒の魔法は、患部を魔力で包んで留めて癒すイメージなんだ。魔力を流すわけではないから痛みは伴わなかったんだね。……どう?出来そうかな?」
「……はい!先ほどの感覚……サナーレ卿、ご教授感謝いたします。試させていただきます!」
何かを掴んだ様子で力強く頷いた彼女が握った手を、辺境伯令息がさり気ない動作で掬い上げた。
「俺の魔力を使ってくれますよね?」
姪に笑顔で微笑む様は、何とも言えない圧を感じる。
「……ねぇ、こんな事あまり言いたくないんだけど、君ちょっと気持ち悪いよ?」
そう不快そうに片眉を上げたのは、セントラだった。
「失礼な。一体どこが気持ち悪いというのです?」
「彼女の体内に取り込まれる魔力は自分のものでありたいとかいう独占欲だろう?君はまだ婚約者ですらないことを自覚し自重すべきだ」
「母上はそんな風に邪推したんですか?嫌だなぁ。母上こそ、そんな邪な考えがあるなら彼女に魔力を渡したりしないでくださいね。気持ち悪いので」
「あ、あの……」
何なんだ。この母子は。間に挟まれ姪が困っているではないか。
「彼女は私の姪だよ。血筋的にも私の魔力を譲渡するのがいいだろう」
あんな言い争いをする母子の魔力が姪の中に入るのは何となく、いや割と、いいや途轍もなく、嫌だ。
「クラティオ殿!『魔法』は遺伝が関係しますが『魔力』と血筋には何の因果関係もないことは学術的に証明されています!貴方がアイリスを溺愛していたことは重々承知ですけれど、彼女は未来の義娘ですよ!ここは将来の良好な義母娘関係を築いてゆく第一歩として私の魔力を譲渡すべきだと主張します!」
「ほら、聞きましたか?聞きましたよね?母上は彼女を義娘と認めていますよね?要するに、実質すでに彼女は俺の嫁、ということに他なりません。もちろん彼女の気持ちが一番大切なので無理強いするつもりはありませんよ。心が決まるまでいつまででも待ちます。が!将来的に夫婦になるなら俺の魔力を譲渡するのが道理でしょう?」
「二人の主張はわかった。でもそれって、どちらも『将来』そうなる可能性があるという話だろう?『今』彼女は私の姪だよ。これこそが『事実』じゃないかな?」
クラティオの言葉は紛れもない正論のはずだが。見た目も中身もそっくりな母子は引き下がろうとはしなかった。
「君は誰の魔力を受け取りたい?」
「そんな風に聞いたら答えづらいでしょうが」
「そうだね。彼女に選ばせるのは酷だ。誰を選んでも角が立つ。ここは……辺境伯に決めていただきましょう!」
全員の視線が辺境伯に集まる。
自分に振られるとは予想していなかっただろう辺境伯は大いに狼狽え、周りをキョロキョロと見回すが、皆顔を逸らし関わり合いになりたくないと表明しており、傍らの執事は少し呆れたように軽く首を振った。
「なんで、俺が……」
アドムは非常に困った。妻を選べば息子が怒り、息子を選べば妻が拗ねる。ゲストであるサナーレ侯爵を選ぶのが丸い気がしたが、妻と息子の逆恨みが彼に向かうのも申し訳ない。
……ここは!
「……キャシー!」
「はい、旦那様」
「おまえが彼女の専属侍女だ。彼女に魔力を渡してくれるか?」
「ちょっと!」「父上!」「ベスティエ卿!」口々に不満の声があがるが、アドムはそれを意に介さず話を進める。
「……私でよろしいのなら、是非。私の魔力をお渡ししたく存じます」
キャサリンは跪いて主命を拝した。
「君も、キャシーの魔力で構わないか?」
「キャシー……本当に、良いのかしら?魔法の行使がうまくいく保証もなくて、もしうまくいったとしてもどれほどの時間がかかってしまうかもわからないわ」
「本望です。こうしてお嬢様に尽くせる機会をくださり、感謝いたします」
「……ありがとう。貴女に助けが必要な時は、必ず私に手伝わせてね」
「よし!話はまとまったな!」
彼女が侍女の手を取り立ち上がらせて。手を取り合ったまま見つめ合う二人の間には穏やかな空気が流れていた。
二人の間に何があったのかは知るところではないが、きっと辺境伯はそれを知っていて、指名することにしたのだろう。
さすがは王国の英雄。豪快で粗野に見えても、家族や部下の事を良く見ている。
先程まで言い合っていた母子も納得した表情で二人を見守っていた。
「……まぁ、私は君の妻だからね。夫唱婦随。意義はないよ」
「……彼女が望んでいることです。文句などありません」
「私も、ホストの決定に従います」
「ロクト様、セントラ様、サナーレ卿、皆さまのお心遣いに心より感謝いたします。私は、果報者ですね」
そう言って嬉しそうにはにかむ姪は、尋常ではなく可愛かった。
この子の伯父として近くで成長を見守る時間もろくになく、嫁に行ってしまうかもしれないなんて。なんと切ないのだろう。
……心底、この可愛い姪をさらってしまう二人ではなく侍女が選ばれたことに安堵し、ほっと息を吐いたのだった。




