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19:『モイラ』




 意を決して、ホールに足を進めてゆく。

 足音を立てないように歩いているつもりだが、静まり返ったホールにはヒールの音が響いてしまう。


 カツ、カツ、カツと踵が鳴るたび、ドク、ドク、ドクと心音が大きくなる。


「呼び出してすまないな」


 そこで待っていたのは、ベスティエの領主であるアドム・ベスティエ辺境伯だ。

 その隣には、黒髪の少し小柄な美青年がターコイズブルーの瞳を細めて嬉しそうに微笑んでいる。


「紹介しよう。妻のセントラだ」

「あぁ、やっと会えたね……!私はセントラ・ベスティエ。君の未来の義母さ!」


 アドムと、両親の傍らに控えたロクトが呆れた様子でセントラを見ている。

 今にも駆け寄ってきたそうなセントラの腕を捕まえながら、アドムは続けた。


「そしてこれがもうすでに色々やらかしている我が愚息、ロクトだ」

「改めまして。ベスティエ辺境伯後継、ロクトです。これからも末永く、よろしくお願いいたします」


 ひどい紹介をされながらも意に介さず、その母そっくりの美しい顔に極上の笑みを載せて首を垂れる。


 さて。ここだ。また嘘をつかねばならないことに気が滅入る。しかし、やりはじめたのなら最期までやりきらねばならない。


「……私は。グランツ公爵家より参りました、シルト・グランツが一子『モイラ』を名乗らせていただきます」

「何故君が『モイラ・グランツ』を名乗る?」


 ドクンッ


 その言葉に、心臓が大きな音を立て、時が止まってしまったかのような静寂が襲う。


 その声は夫人であるセントラのものだった。怒気は感じない。そこにあったのは単純な疑問だと感じられた。


 セントラは知っているということだ。ここにいる『モイラ』が、モイラではないことを。


 会ったことがあるのかもしれない。それなら別人だと一目瞭然だろう。ならどうして母は自分をこの家に送り込んだのだ。


 静まり返ったホールの背後から、ヒールの音が耳に響いた。それとは反対方向から空気の動く気配がする。


「チェーニ!キャサリン!何をしている!」


 声を上げたのはロクトで、その声には怒りが滲んでいた。


 主家の後継に名を呼ばれた彼らはあと一歩で『モイラ』に届く距離で跪いている。


「……お嬢様の返答次第では拘束させていただきたく」

「気でも触れたか」

「この方は、『モイラ・グランツ公爵令嬢』ではあられますまい」


 筆頭執事も、気付いていた。それでもベスティエ領に恩返しできる時間を与えてくれていたのか。ありがたい。


「モイラ・グランツ公爵令嬢ではない……何を当たり前のことを?」

「奥様は初めからご存知だったのですか?」

「当然だろう?『モイラ』はあの女の娘の名なのだから」


 セントラの言葉の意味を測りかねて、答えを紡ぐことができない。


「母上、前グランツ公爵夫人を『あの女』などと呼称するのは不敬では」

「君まで何を言っているんだい?私がアイリスをそのように呼ぶわけないじゃないか。

 私が言ってるのは、あの浅ましくもたかが子爵令嬢で男爵家の寡婦でありながら自分の主の夫である公爵の後添えに入り込んだ、名すら呼びたくないあの女のことだよ」


 それは明らかに母ライラの事で。どうしてここで母の話が出てくるのだろうか。


 ホールにいるセントラ以外の全ての人に同じ疑問が浮かんでおり、彼女は呆れたようにアドムに向き直った。


「まさかとは思うけれど、ロクトと婚姻を結ぶ予定なのは、『モイラ』ではないだろうね?」

「シルトの娘は『モイラ』嬢しかいないが」

「私が婚姻を承諾したのは『モイラ』ではなく、アイリスの娘であるグランツの嫡子だよ!」

「だから、アイリス夫人の娘であるグランツの嫡子がここにいる『モイラ』嬢だ!」

「はぁ?」


 会話が噛み合っていない。それはここにいる誰しもが感じていた。


「いいかい?『モイラ』という名は、生前アイリスがあの女の名である『ライラ』に、あの女にはもったいない夫の『ミーテ』から頭文字(イニシャル)をとった、あの女の娘に与えた真名(祝福)だ。

 きっと女の子が産まれるはずだからもう名を刺繍したおくるみを用意しているの!と、アイリス本人から手紙で聞いていたから間違いない。部屋に保管してあるからね」


 溜息を吐いて説明を始めたセントラの言葉に衝撃が走る。



 ……それなら。私の名は、本当は『モイラ』だったということになる。

 私に与えられたはずの真名。それが、別の子に与えられていた。


 どうして。なんで。あの子はすべて持っているのに。

 ドレスも、アクセサリーも、私には何も残っていない。そんなもの何もいらないから。


 名だけは、欲しかった。生まれてきたことへの祝福。ここに存在していいのだという証。


 それを何故、あの子が。


「しかし、シルトとアイリス夫人の子は『モイラ』という名であることは間違いない。俺もシルト本人から何度も聞いているし、一緒に届いた婚姻証明書にも『モイラ』の名が記されているんだ」


 妻の勢いにおされながらも、アドムは自身の正当性を訴えた。

 セントラは眉を寄せ、跪いたままのチェーニに問いかける。


「間違いないのかい?」

「はい。グランツ公爵家の嫡子はモイラお嬢様お一人。他に御子はいらっしゃいません」

「それじゃあ手違いが起こってしまったのかな……いや、すまないね。君の真名は息子と婚姻を結んで真に私の娘となった時に心を込めた真名を授けるから期待して待っていてほしい」


 セントラは当たり前のように優しく微笑んでくれるけれど。『モイラ』にはその資格はない。


 ここが潮時だ。


「申し訳、ございません」


 その場に跪き、頭を下げる。

 周囲は騒めいて、ロクトが駆け寄ってこようとするが、そのまま言葉を続けた。


「私は、グランツ公爵家の者ではございません」

「そんな……!」


 背後から、エリザベスの驚愕の声が聞こえる。騙していて、ごめんなさい。




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