過去から現在へ③
――今から三十年前、帝都にはびこる疫病を滅したことでクレトは帝城に呼ばれ、時の皇帝より褒美を与えられることになった。
だが、クレトは特に何も望まなかった。そもそもクレトは薬を配って説明しただけで、寝る間も惜しんで薬を作ったのはミアの方だ。それに、自分の両親を処刑した皇帝からもらうものなんてないと思っていた。
だから彼は、「褒美は全て、ミアにあげてください」と言った。そして客室に移動したのだが――そこに、皇女ソフィアがやってきた。
関心もなかったので彼女の話は適当に流したのだが、最後に彼女は「わたくし、あなたをお慕いしております。わたくしと結婚してくださいませんか?」ととんでもないことを言ってクレトを驚かせた。
もちろん、クレトは断った。本音は、「おまえなんかと結婚したくない」だったがそれが無礼なのは分かっていたので、「俺のようなみすぼらしい者が皇女殿下の婿なんて、恐れ多いです」という方面で断ったが。
だが皇女は食い下がり、「あなたがいいのです」「それとも他に、好きな人でもいるのですか?」と尋ねてきた。
クレトは、養い親であるミアのことを心から愛していた。
十四歳くらいの頃から既に異性として意識していたし、たとえ十二歳年上だろうと構わないから結婚して、夫婦としてあの森の奥の家で一緒に暮らしたいと思っていた。
一刻も早くこの女から逃げたかったクレトは……まだ若くて、未熟だった。
だから彼はミアの名は出さないが、「年上だが、優しくて素敵な憧れの人がいるから」と言い訳をしてしまった。
早くミアと合流して、こんな場所をおさらばして家に帰りたい。
ミアのことは異性として本気で愛しているが、たとえ彼女と結ばれなくても……もう一緒には暮らせなくても、構わない。幸い、あの町と森の奥にある家との距離はしれたものだ。
これからも彼女を遠くから見守りながら暮らしていくことだけが、クレトの願いだった。
だがいざクレトの客室に来たミアは――今にも泣きそうな顔で暴言を吐いてきた。クレトにとって辛かったのは、彼女の指摘がいちいち的確だったことだ。
……クレトは彼女の言うとおり、思春期の頃からミアの胸や尻ばかりを見ていた。触れたい、と思って手を伸ばしたことも何度もある。実行したことはなかったが、寝込みを襲えば唇くらいなら奪えそうだ……と企んだこともあった。
それを、「気持ち悪い」と言われて――ショックだったが、ミアにそう思われるようなことをした自分がいけないのだと分かっていた。
ごめん、と謝りたい。
もう二度とミアの嫌がることはしないから、家に押しかけたり自分の気持ちを押しつけたりもしないから……行かないでほしい。
そう願ったのに兵士に行く手を阻止されて、ミアは去ってしまった。
クレトは自分の愚かさに泣いたが――そうしていると、やけににこやかな皇女がやってきた。
『あの女が、あなたにひどいことを言ったと聞いたわ。……辛いでしょう。わたくしでよければ、話を聞くわ』
そう言って迫ってくる皇女は美しい少女だったが……クレトには、獲物に喰らいかからんとする獣にしか見えなかった。
彼女は救国の英雄ともてはやされるクレトを婿にして、自分が女帝となった際のマスコットにしたいだけなのだ。だからこうして、傷心のクレトに迫ってきて――
……そこでやっと彼にも、事の次第が分かった。
質問を重ねても、皇女は「さあ?」「あの女が勝手にしたことでしょう?」とほざくばかりだったので、とうとうクレトは胸からナイフ――成人祝いにミアからもらったものだ――を抜いて皇女に突きつけた。
皇女の悲鳴ですぐさま、兵士がなだれ込んできた。
だが……ミアに拾われてからはきれいなものばかりに触れてきたクレトだが、その奥底にはナイフ一つで立ち回ってきた幼少期の感覚がしっかり残っていた。
襲いかかる兵士たちを次々に倒し、部屋は真っ赤な血に染まった。そして彼は返り血まみれのナイフを皇女の胸に突きつけ、「ミアに何をした、言え」と脅した。
ガクガク震える皇女が言うに……彼女はミアを脅迫して、故郷に帰る前に殺すよう指示した、ということだった。
皇女を殴って気絶させたクレトは窓を蹴破り、ナイフ一本で追っ手を倒しながらミアの後を追った。
そうして彼は夜が明けた頃、帝都郊外の雑木林でミアの遺体を発見した。
ミアは首を切られ体もズタズタに切り裂かれており、彼女の血を吸った地面まで黒く変色していた。
クレトはミアの遺体を抱きしめ、慟哭した。ミア、ミア、と呼んでも血にまみれた骸は何も言わない。
きれいだった緑色の目は恐怖で見開かれており、それが痛ましくてクレトは彼女のまぶたを閉じさせようとしたが、もう硬直が始まっているようでできなかった。
クレトはミアの遺体を抱えて、家まで帰った。途中、すれ違った旅人たちは凄惨な死体を抱えるクレトを見て悲鳴を上げていたようだが、気にならない。
そうしてやっと森の奥にある家に帰ってきたクレトは、ミアの遺体をできる限りきれいにしてから埋葬した。
きれいな石を見つけたのでそれを墓石代わりにして、ミアの墓の前でクレトはしばらくの間ぼうっとしていた。
夜が訪れ、朝になっても彼はそこにいた。だんだん腹が減り疲れてきたが、動かなかった。
やがて彼はミアの眠る土の上に寝そべるような形で倒れ、目を閉ざした。
そうしてミアが名前や扱い方を教えてくれた薬草たちの香りに包まれているうちに……クレトの意識は、遠のいていった。
「……そうして俺は、クレトとしての生涯を終えた」
皇帝が説明を終えてもしばらく、タリサは何も言えなかった。
てっきり、クレトはミアのことを憎んでいると思っていたのに。
あんな暴言を吐いて出て行った女なのだから、恨んでいると思っていたのに。
(クレトは……最後まで私を慕ってくれた……)
ぽた、と目尻からこぼれた涙が、テーブルクロスに落下する。
皇帝はタリサの涙を見るとぎょっとして、「あ、ええと……ハンカチハンカチ……」とシャツの胸元から上質そうなハンカチを引っ張り出して、タリサの手に握らせた。
「す、すまない。怖がらせてしまったな……」
「ううん……違う。違うの」
ハンカチを握りしめたタリサは、相手が皇帝だということも忘れて思わず、ミアの頃の口調で言っていた。
「私……あなたに憎まれていると思っていたの。それなのに、あなたは私を追って、探して……家に連れて帰ってくれていたのね……」
「……ああ。あそこならあんたもゆっくり眠れると思って……」
「ありがとう……でも、ごめんなさい、クレト。私、私さえいなくなればあなただけでも生き延びられると思っていて、それで……」
「うん、分かっているよ、ミア。優しいあんたがあんなことをするわけないと思っていたし……実際に、そんな優しいあんたを追い詰めていたのは俺だ」
「いいえ、クレトは……」
「俺なんだよ。……本当にミアのことが大好きだったけれど、悲しませたいわけじゃなかった。それなのに俺は……俺が浅はかだったから、ミアを巻き込んでしまった。俺だって、ミアだけは故郷に帰らせてやりたかった……!」
皇帝がクレトの頃と同じ口調で言うので、すんっと鼻をすすったタリサはハンカチで目元を拭った。
「いいの、その気持ちだけで嬉しいわ。……でも、あなたは……どういうことか、ソフィア皇女の息子として生まれ変わったのね……?」
「ああ。俺も……まさか、世界で一番憎い女の息子として転生するなんて、思ってもいなかった。だがこれも、前世で多くの人を殺めた俺に対して神が与えた罰だったのかもしれないな」
皇帝は、苦く笑った。