男爵令嬢タリサ③
タリサは、振り返った。もう一つ風が吹き、緩く結っているタリサの茶色の髪を優しく撫でていく。
いつの間にかタリサの背後に、一人の男が立っていた。
高位貴族が式典の際に着るような豪奢なジャケットとスラックスの上に、立て襟のマントを着ている。体つきはがっしりとしており、タリサより頭一つ分以上背が高いだろう。いたずらな風がなびかせる髪は柔らかな金色で、少し長めの前髪の隙間から灰色の目がのぞいていた。
タリサより二つほど年上の、見目麗しい青年。
その姿は、初めて見るはず――なのに。
『ミア』
記憶の中にいる、限りない愛おしさを含めて自分の名を呼んでくる呼んでくる少年。
見た目は似ていないはずなのに――似るはずもないのに、その灰色の目だけは同じだった。
(そんな)
嘘だ、何かの間違いだ、と胸の奥が騒ぐが――気がつけばタリサは、唇を開いて呼んでいた。
「クレト?」と。
とたん、男はぐっと喉を鳴らせると大股数歩でタリサの目の前までやってきて……問答無用で抱きしめてきた。
「ミア! ああ、やっぱりあんたか! ……会いたかった!」
「クレト……? 嘘、そんな……」
「嘘じゃない。俺は……俺の前世は、クレトだ。あんたに育てられたクレトだよ」
「……でも、その、あなたは――」
もつれそうになる舌を一生懸命動かして、タリサは言葉を紡ごうとしたが……。
「……ああ、陛下! なぜここに来られたのですか!」
「もうすぐ令息令嬢たちへの、挨拶の時間でしょう! 秘密の庭園にいらっしゃるのは後にして……あれ?」
彼の背後からいくつもの足音が近づいてきたため、タリサは我に返り――そして今の状況が分かり、ざっと頭から冷水をぶっ掛けられたような気持ちになった。
「っ……離して!」
「おっと……」
どんっと胸を突き飛ばすと、男はあっさり離れてくれた。これだけがっしりした体なのに簡単に離れたのできっと、彼の方がタリサを抱きしめる力を弱めてくれたからだろう。
彼の背後には、立派な服を着た騎士たちの姿が。巡回兵士とは似ても似つかない服装にいかにも良家のお坊ちゃんという見目の彼らは、近衛騎士団員だ。
つまり。
近衛騎士団に「陛下」と呼ばれ追いかけられている、この男は――
「……皇帝、陛下……? クレト、皇帝になったの……?」
「ああ、まあ、今世はそうだな。だが、ミア。俺は……」
「……しっ」
「し?」
「失礼しましたーっ!」
何か言いかけた男を遮り、裏返った声を上げたタリサは全力で彼らのもとから逃げた。
(嘘嘘嘘!? なんで、どういうことなの!?)
火事場の馬鹿力を発揮してかつてない速度で庭園を走りながら、タリサは大きなショックを受けていた。
(「残虐皇帝」が、クレトの生まれ変わりなんて…………!?)
皇帝のもとから逃げたタリサはしばらくの間、城の陰で丸くなって息を整えた。幸い追っ手は来なかったようなので暗がりでうじうじして時間を潰した後、辺りをきょろきょろ見ながら弟たちの控え室に戻る。
既に皇帝との挨拶は終わっていたようで安心したが、「途中で陛下がすごい速さでどこかに行く姿を見た」と城の者たちが噂しているのが聞こえて、ぎくっとした。
しかも、何も知らないサウロが無邪気にその人に、「皇帝陛下はどうなさったのですか?」と問うたところ、官僚らしいその人は丁寧に教えてくれた。
「いやなんでも、あなたたちの挨拶が始まるまで執務室で休憩されていた陛下が、窓の外を見るなり部屋を飛び出してしまわれたそうなのですよ」
「え、そうなんですか? 僕、きちんと陛下にご挨拶できたのですが」
「ええ、近衛兵が急いで連れ戻されたようです。しかし、どうにもぼんやりとされたご様子で。何かあったのでしょうか……」
(はい、前世の養い親である私と再会してしまったのです!)
心の中だけで叫んだタリサは弟を引きずって馬車に乗るなり、すぐさま発車させた。
弟はまだ帝都散策をしたそうだったがタリサの顔色が悪いと分かり、「遊ぶのはまた今度にします」と言ってくれた。優しい弟に、タリサは心からの感謝を述べた。
(クレトも生まれ変わっていたなんて……しかも今世は、皇帝陛下……)
馬車に揺られながら、タリサは頭痛がしてきた頭を叩いた。
何の運命のいたずらなのか、クレトは「残虐皇帝」に生まれ変わっていた。ということは、彼はかつて自分に求婚したソフィア皇女の息子として生まれ――だが彼女からの愛情を受けられずに育ったのだ。
(ということはクレトも、あまり長生きできなかったのね。……もしかして彼が十八歳になった日に女帝を殺したのは……前世が関係している?)
帝位を継げる十八歳になったその日に女帝を殺して皇位継承者だった異父弟をも幽閉するというのは、随分急だったと皆も噂していたが――もしそこに、過去のクレトとしての記憶が関係していたら?
(それに、クレトは絶対……私のことを、憎んでいるわよね……?)
ぞわり、と鳥肌の浮かぶ腕をさする。
皇女に脅されたからとはいえ、ミアはクレトに暴言を吐いた。年頃の少年なのだから仕方のないことなのにその数々を挙げ連ね、「気持ち悪い」とひどい言葉を吐いて彼を泣かせ、悲しませた。
だから、タリサの姿として再会したミアのことをクレトが憎むのも仕方のないことだ。そして彼は現在、皇帝フェリクスだ。
皇帝の命令ならば、「あの男爵家の娘は皇帝に対して失礼なことをしたから、処刑する」となっても誰も逆らえない。
(でも……あのときの陛下は、嬉しそうな顔をしていた……?)
弟が出してくれたブランケットをありがたく受け取り、それにくるまりながらタリサは考える。
タリサは、クレトから憎まれても仕方がないと思っていた。だが、あの庭園で再会した皇帝フェリクスはタリサを強く抱きしめ、「会いたかった」と囁いてきた。
(……憎いから、転生した姿で会えたら恨み言の一つでもぶつけたかった、とか……?)
その可能性は絶対にない、とは言い切れないのが悲しいところだ。
あのとき名乗りはしなかったが、城門で身体検査をされた際に名前などを控えられている。だから、その気になればタリサの素性は簡単に分かるだろう。
(陛下に見つからないことを祈るわ……!)
もし見つかって不敬罪で捕まったとしても、両親や弟は無関係であると全力で訴えなければならない。無論、そのまま見逃されるのが一番だが。
……しかし、タリサの願いもむなしく。
ふらふらしながら男爵領の屋敷に帰ったタリサだがその三日後には、「皇帝陛下が男爵令嬢をお招きになっています」という立派な書簡が届き、両親を驚かせタリサは目を剥いて悲鳴を上げてしまったのだった。