過去から現在へ④
フィネル帝国の第一皇子として生を享けたフェリクスは、物心ついた頃から母に嫌われていた。
原因は、そもそも女帝とその婿が政略結婚だったことだ。女帝には他に愛する男――後に恋人となる――がいたが身分が低かったため彼との結婚は叶わず、代わりに高位貴族の好きでもない男をあてがわれたという。
そんな愛のない結婚の末にできた息子だったけれど父はフェリクスに優しくて、母から冷遇される分も愛情を与えてくれた。
父親がいなければ、フェリクスはもっと早くに心を病み……死を選んでいたかもしれない。
女帝は目障りな夫とフェリクスを離宮に押しやると、かねてからの恋人を帝城に迎えた。ガスパルというその男は下級貴族だが見目麗しく、彼を帝城に招いて半年もせずに女帝は懐妊して、第二皇子セリオを産んだ。
女帝は愛するガスパルにそっくりなセリオを溺愛して、まだその目が開かないうちに彼を次期皇帝に指名した。皇太子の指名権は皇帝にあったので、誰も女帝の決定に異を唱えることはできなかったのだ。
フェリクスと父が離宮で寂しく過ごす傍ら、帝城は女帝やガスパルに取り入ろうとする者たちであふれかえった。元々浪費癖のあった二人は散財を続け、地方から税を巻き上げて自分たちの豪遊に宛てていた。よい君主とは言えなかったが、誰も彼らに逆らえなかった。
そうして――フェリクスが十歳の時に、唯一の肉親と言っていい父が死んだ。一応病死ということになっているが、父はワインを飲んで吐血したことをフェリクスは知っていた。
夫が死んだため、さしもの女帝も離宮にやってきた。そして柱の陰にフェリクスがいるのにも気づかずに、夫の眠る棺桶の前で――大笑いした。
「これで、邪魔な男がいなくなったわ」と言って。
その瞬間。
フェリクスは急に、前世の記憶を取り戻した。
それは、クレトという少年として生まれ、養母ミアに愛されて成長し、十六歳で死んだ記憶。
彼は、理解した。
今、夫の棺の前で大笑いしているあの女こそ、前世の自分の最愛を奪った憎き敵だと。
クレトを手に入れたいがためだけにミアを追い詰めて殺させ、そのクレトが豹変したため急ぎ真実をねじ曲げ――「疫病から国を救ったのは薬草師ミアである」「彼女は全ての名誉を辞退し、慎ましく故郷に帰った」とすることで、皇家にとって都合の悪い部分を抹消したのだということを。
彼は、帝位簒奪を狙った。
その際に邪魔になるのは、女帝とその恋人、それから皇太子である自分の異父弟の三人。
彼は十八歳になるまで、ひたすら耐え忍んだ。
クレトだった前世の感覚を借りながら剣術を磨き、疎まれながらも書物を読んで帝王学を身につけ、己の国のことを学んだ。
そして……待ちに待った十八歳の誕生会の日、彼はつまらなそうな顔の母から剣を受け取ると、それでまず女帝の胸を貫いた。
仰向けに倒れる母の耳元に唇を寄せて、囁く。
「ミアの気持ち、分かりましたか?」と。
女帝はそこで、自分の息子がクレトの生まれ変わりであると気づいたようだ。「そんな」とか「馬鹿な」とうめく彼女をにこりともせずに見下ろし、クレトは母の体を切り刻んだ。
ミアは、もっと辛くて苦しい思いをした。
あんな寂しい場所で襲われて、切り刻まれて、絶望の中で死んでいった。
だから、ここで自分が復讐を果たす。
ミアと同じように全身を切り刻み、その骸を壊してやる。
最後に女帝の首を刎ねたフェリクスは――かつてないほどすがすがしい気持ちだった。
ミアだけでなく、前世の両親や今世の父親の敵も討てた。クレトだった頃にやりたかったことは全て、終えられた。
……だが、これで全てが終わったわけではない。
彼は血にまみれた玉座に座って母の遺骸を蹴飛ばし、自らが即位することを宣言した。
逆らう者の首を刎ね、母の恋人を追放した。
異父弟は――本当はさくっと殺すつもりだったが、母を殺されても泣いておびえるしかできない弟を見るとさすがに、かわいそうになってきた。だから弟は一生幽閉させるにとどめた。
そうして、彼は疲弊した帝国を変えるべく奔走した。
もうクレトのような子どもを作らせないために養護院を開き教育機関を整え、税制度を見直して地方の者も安定した生活を送れるようにした。女帝派の者は容赦なく追放したが、自分に付く者は比較的寛容な態度で受け入れた。
全ては、ミアへの贖罪だった。
愛する人はもういないが、せめて生まれ変わったこの姿でできることをしたい。
もう、クレトやミアのような悲惨な思いをする者が帝国に生まれなくなるよう、手を尽くした。
当然そんな彼には求婚者が殺到したが、全て断った。そして、昔から協力してくれていた従弟のエミディオを次期皇帝に指名して、彼が十八歳になったら絶対に帝位を譲ると宣言した。
エミディオは優しくて優秀な子だったし、彼も従兄から帝位を受け継ぎよい国を作ることを強く望んでいた。それに……もしフェリクスが皇帝であり続けるならいずれ、妃や跡継ぎが必要になる。
彼は転生してもなお、ミアだけに愛情を捧げていた。彼女以外の女性と添い遂げることも――ましてや子どもを作ることも、絶対に無理だった。
だから、「皇帝はしばらくすれば譲位するのだから、妃を持つ必要がない」と皆に知らしめることにした。
五年間奔走した結果、国は少しずつ立ち直っている。今では十六歳のエミディオも優秀な右腕として活躍しているから、二年後に彼に帝位を譲ってもきっとスムーズに物事が引き継がれるだろう。
帝位を退いたら、ミアに祈りを捧げながら一人でゆっくり余生を過ごしたい。
そう思っていた彼は……先日、窓の外から聞き覚えのある鼻歌を耳にしたことで、タリサがミアの生まれ変わりであることを知ったのだった。
「あの歌は、ミアのオリジナルだと言っていた。あれをなめらかに歌えるのは、ミアだけ。……だから、十二歳の祝いを述べる予定の子どもたちには申し訳ないと思いつつも、あんたを逃がすわけにはいかなくて……急いで追いかけた」
フェリクスの話が終わる頃には、ティーポットは空になっていた。
タリサは何も言えず、フェリクスを見つめていた。
(クレトは、皇帝陛下として生まれ変わった。そして彼は……自分がやりたいと思っていたことを全て成し遂げた)
全ては、恋い慕う女性――ミアのために。
「……私は本当に、何も知らなかったのね」
「あんたの責任じゃない。むしろ……思い出さなかった方が、あんたはただの男爵令嬢として幸せに過ごせたかもしれなかっただろう」
「それも、あなたの責任じゃないわ」
ただ現実から逃げるだけだったタリサと違い、フェリクスは味方が少ない中でも必死に戦ってきたのだ。
そうして母親を手に掛け、「残虐皇帝」と呼ばれるに至っても……見事帝国を復活させたし、彼の誠実な人柄と真摯な態度から多くの人に慕われている。
(やっと、私も真実を知ることができたのね……)
すっきりするような逆に胸に重いしこりが残ったような、微妙な気持ちだ。
タリサが黙ってケーキを食べていると、しばらくの間そんな彼女を静かに見守っていたフェリクスが咳払いをした。
「ええと……それでだな、ミア――いや、タリサ嬢。俺は転生した結果、現在二十三歳になった」
「そのようですね」
彼が自分をミアではなくてタリサとして扱ってきたのでタリサも態度を改めると、フェリクスは妙にそわそわしながら言葉を続けた。
「それで……ええと。確かあなたは、二十歳だったか?」
「はい、今年の夏に二十歳になりました」
「そ、そうか。どうやら俺たちは今世では、わりと年が近いようだな」
「……ですね」
なんだか、嫌な予感がする。
ケーキ用のフォークを皿に置いたタリサが口を開いたその瞬間、いきなりフェリクスは席を立った。男らしくも端整な顔は赤く染まっており、どことなく子どもの頃のクレトを彷彿とさせた。
「タリサ嬢!」
「え、はい」
「どうか……俺と、結婚してください!」
「……いや、それは無理です」
即答できた自分は偉いと、タリサは思った。




