プロローグ①
ストーリーの都合上、残酷描写がたびたびあります。
ミアは、フィネル帝国の外れにある森の奥で暮らす薬草師だった。
放っておくとくしゃくしゃになって広がってしまう金色の髪をざくっとまとめて括っており、自宅を囲む新緑のような緑色の目はいつも活発に輝いている。
彼女の両親は帝都で薬草の店を営んでいたが、諸事情により店は取り潰し処分を受けた。
時の皇帝は「薬草師など信用できない」という考えだったようで、ミアの実家の他にも多くの薬草店が閉店せざるを得なくなったという。
両親から薬草の見分け方を教わり、独自の調合方法を編み出していたミアは、帝都から離れた森の奥の一軒家で暮らしていた。小さな二階建ての家の周りは緑で囲まれており、傍らには澄んだ水を湛えた湖がある。
歩いて少しの距離のところには、小さな町があった。ミアは庭で作った薬草やそれから作った薬を町に卸し、生計を立てていた。
そんな彼女はある日、ぼろぼろな姿の少年を拾った。
「あなた、どこの子?」
ミアが尋ねると、うつ伏せで倒れていた少年はがばっと立ち上がり、ミアに向けてナイフを構えた。硬質な黒色の髪の隙間から見える灰色の目は目つきが悪く、じっとミアをにらみつけている。
ナイフを構える動作は、とてもなめらかだった。きっと、人間に凶器を向けることに慣れており、人を殺すことにも何のためらいもないのだろう。
ミアは少年の前にしゃがみ、フウフウと荒い息をつく彼を見つめた。
「私を殺すの?」
「……」
「でもね、私を殺しても何の意味もないわ。お金があるわけでもないし。……それよりあなた、お腹すいていない?」
「……」
少年は何も言わないが体は正直で、大きな音で空腹を訴えた。
少年が泥で汚れた頬をほんのり赤らめたのが分かり、ミアは微笑んで少年に手を差し出した。
「そろそろお昼ご飯の時間ね。こんなところで立ち話も何だし、いらっしゃい」
「……」
「ああ、それからその物騒なものは、しまっておいてね。それと、家の中ではおとなしくすること。暴れて調合途中の薬草の瓶を割ったりしたら、あなた、全身がかいかいになるわよ?」
ミアが言うが、少年はナイフの構えを解かない。だが、ミアが薬草の話題をしたらその灰色の目にほんの少し、輝きが生まれたのが分かった。
少年を気にせず、ミアは家に入った。そして、ちょうどいい感じに煮えたシチューの香りに鼻歌を歌いながら、木製のお玉で中身をかき混ぜる。
ことん、と音がしたので振り返ると、ナイフを懐にしまった少年が入り口に立っていた。
「シチュー、食べる?」
「……」
「それじゃあ、手を洗ってそこに座っていてね」
ミアが指示を出すと、少年はおとなしく瓶の水で手を洗い、椅子に座った。
こうして、ミアは物騒な少年――クレトと出会った。
クレトと出会ったとき、ミアは二十二歳だった。
自分よりずっと小さくて貧相な体つきのクレトは最初、六歳程度かと思った。だが後に、彼は当時既に十歳だったことが分かった。
クレトは言葉がしゃべれないのではなくて、ただしゃべらないだけだった。
最初の数日は警戒心の強い猫のようだったクレトも、毎日ミアの料理を食べてキッチンの隅で毛布にくるまって寝ていると、少しずつ打ち解けてくれた。
彼は行商夫妻の息子として帝都で生まれ育ったが、四歳の頃に両親が皇帝一家の馬車の前を横切ったとかで処刑されたという。両親によって逃がされたクレトはナイフを片手に、強盗や殺人をするようになった。
ある日、彼は商人の馬車を狙って幌の中に潜り込んだが、わずかに見えた商人の妻の横顔が亡き母にそっくりだった。
それを見ると、盗みができなくなり……馬車から降りたが道が分からず、ふらふらさまよった末にミアの家の前で行き倒れたそうだ。
ミアは彼に、ナイフではなくてペンを持たせ、文字の読み書きを教えた。人の殺し方ではなくて、薬草の見分け方を教えた。
クレトは賢い子だったようで、ミアが教えるものを次々に吸収していった。二年後にはつたないながらに自分とミアの名前を書けるようになり、簡単な暗算もできるようになった。
十分に食べて寝て運動するようになったクレトは、それまでの貧相な見目から一転してすくすく育ち、四年後にはミアよりも大きくなった。
「クレトもすっかり大きくなったわね。もうそろそろ成人の十六歳だし、独り立ちを考えてもいい頃かもしれないわ」
ある夕食の席でミアがそんなことを口にすると、クレトはむっと唇をとがらせた。体が大きくなり声も低くなったクレトだが、そんな仕草は子どもの頃から変わらない。
「俺は、ミアと一緒にいたい。まだミアから薬草について学び切れていないし、まだここにいたい」
「うーん……そう言ってくれるのは嬉しいけれどあなたも随分大きくなったし、この家だと手狭で不便でしょう? 娯楽もないし……せめて、町に行って一人暮らしするとかしたら?」
「でもそうしたら、ミアが一人になる。それは心配だ」
「大丈夫よ、町からここまで歩いて十分ほどじゃない。それに……ほら、あなたって町の女の子たちからも人気じゃない? そろそろ女の子たちとも交流したら?」
「しない。俺が話す女の子は、ミアだけでいい」
「私はとうの昔に、女の子を卒業したのだけれどね……」
ミアは苦笑した。
ミアはもう、二十六歳だ。これくらいの年なら結婚して子どもが二人くらい生まれていてもおかしくないのだが、あいにくミアは異性との縁に恵まれなかったようで、この年までずっと独り身だ。それに、何が何でも結婚したいという願望もない。
一方のクレトは、たくましい立派な少年に育った。一緒に買い出しに行ったときにもよく、町の女の子がクレトに熱いまなざしを注いでいるのを見ていた。
クレトは町に男の子の友だちはいるようだが、女の子とは口をきいたこともないそうだ。それはそれで将来が心配なのだが、クレトは「ミアがいるからいい」としか言わない。
このまま独り身でいるつもりのミアと違い、クレトにはまだまだいろいろな可能性がある。だから若いうちに多くの経験をさせたいのだが、当の本人のクレトはあまりいい顔をしなかった。
やれやれ、と思いながら肉の欠片入りのスープを飲んでいると、席を立ったクレトが空の皿を手に鍋の方に向かった。
「余り、ないのか?」
「あ、ごめん。もうないの」
「……そうか」
「私の分、あげるわ」
「いい。あんた、痩せすぎだ。もっと食わないと」
「たくさん食べるべきなのは、クレトの方よ。まだまだ育ち盛りなんだから、私のことは気にせずに食べなさい」
そう言って飲みかけのスープの皿を差し出すが、クレトは渋い顔をして突き返してきた。
「いらない。あんたの分を奪ってまで食べる気はない」
「気にしなくていいのに……」
だがクレトは一度言い出したら絶対に自分の主張を変えない頑固な子なので、ミアの方が折れて冷めたスープを匙ですくった。
クレトは早食いなので、いつも彼の方が先に食事を終える。そして、積み上げたままの食器や鍋などを手際よく洗ってくれた。
「いつもありがとう、クレト」
「俺があんたに世話になっているんだから、これくらいする。再来年になったら、ちゃんと働けるはずだから」
「そうね。クレトももうそんな歳になるのだものね」
拾ったときはガリガリに痩せたちびっ子だったのに、いつの間にかこんなに大きくなった。今は未成年なので正式に働けないけれど、彼は毎日町に行って日雇いの仕事をして小銭を稼いでいる。
せめて、彼が十六歳になって自立できるようになるまでは。
ミアが、彼の居場所を守ってあげたかった。