包装
私は、選択する――
翌日。目が覚めたのは久しぶりのゼミで集合がかかっていた時間の一時間前だった。家から大学まで徒歩とローカル線合わせて約五十分。
「え、なんで私爆睡してたの……」
跳ね起きてクローゼットから目についた服を引きずり出して一気に着替える。バッグの中身は普段と変わらないはずなのでスマホと財布を机から取って、学生証も確認して部屋を出る。スマホを取った時に机から不要なレジュメやらなにやらドバドバと落ちたような気がしたけど気にする時間なんて無かった。そもそも私化粧すらできてない。行きの電車の待ち時間で何とかするしかない。やばい、朝から走りたくないけどやるしかない。
階段を駆け下りて一気に玄関に向かう私は、ちょうど母とすれ違ったけど幸か不幸か状況が気まずさを生まずに済んだ。というか私が一方的に無視した。
玄関を開け放ち、一気に飛び出す。
今日は快晴。いつも通り起きられていれば、のんびり空を眺めながら清々しく歩けたのに。
昼休みの始まりを告げるチャイムの音と共にゼミをあとにする。
何はともあれ、まず何か食べよう。実は結局十分ほど遅刻したのだけれど、教授が私用で三十分ほど遅れてきたので何食わぬ顔で出席できた。その代償というべきか、ゼミの他のメンバーには口留め料としてコンビニの唐揚げスティックを人数分用意する羽目になったんだけど。
「お疲れじゃん。なになに、久しぶりのゼミの日に限って寝坊したんだけど教授も遅れて来たから急ぎ損だったって顔だね望月クン」
「透視能力者かよ……」
学食で日替わりランチを平らげたタイミングで偶然千蔭が私を見つけて向かいの席に座った。手元は学食で今開催されている有名カレー屋とのコラボメニューのカレーだった。また新しいやつだ。
「春奈はねぇ、顔見ればだいたいわかるよ。遠めでもテンションの高低はわかるし、ちょっと風が吹けばその日の下着の色までわかる」
「最後のは私じゃないな? 誰と勘違いしてんの……」
私スカート穿かないもん。
というかもう千蔭にツッコミを入れるのも面倒だ。顔に出やすいというのは舞さんからも過去に何度も言われているので今更気にはしない。
なにより、千蔭がいつも通り話しかけてくれたのは実はありがたかった。
朝は慌てていたから気が紛れていたのだけれど、さっき食べながらまた自分のことについて悶々とし始めていたところだったからだ。常に思考を切り替えるスイッチは用意しておくに限る。大学にいる間はそれが千蔭になるということだ。
とはいえ今日はもうこれで帰宅するだけだ。遊ぶわけにもいかないので、さっさと撤収するつもりでいることを彼女に伝えると、彼女は呆れたように笑う。
「だいぶ苦しそうだけど……前も言ったよ。きっかけひとつでなんとかなる。失敗したら死ぬってわけでもないし。たまには休んだっていいんさ」
そうだね、なんて相槌で返して私は食事を再開した千蔭と別れて帰宅することにした。
私の周りにはすごい人、尊敬できる人ばっかりだ。日々気付かされて、教えられる。
そんな境遇にいられることは本当に感謝できる。
なんとしても、私の道を私の中から見出す。私を支えてくれる人たちに報いるためにも、それだけはやり遂げたいと思っている。
大きな悩みを抱えていると時間はあっという間に過ぎるもので、気が付けば最寄りの駅に着き、改札を出て帰路に就く。歩きながら自分の中を遡って考えていたけれど、記憶も追えて中学前半が限界だった。
中学最初や小学校時代なんてろくに思い出せない。せいぜい学校名や敷地内の景色や、担任の先生の名前や顔の輪郭程度が漠然と思い浮かぶ程度だ。
情けない結果に終わった記憶の掘り下げもやりきる前に家についてしまった。
駅前の本屋などに寄ったことで、もう夕方になっている。玄関の靴を眺めて父も母も珍しく揃っていることはすぐに分かった。
鉢合わせてしまう前に素早く靴を脱いで階段を上がりそそくさと自分の部屋へと逃げ込む。もう何年こんな帰り方をしているんだっけ。なんだか情けなくなった。
がっくりと肩を落としながらバッグとスマホをベッドに放り投げて、追いかけるように私もベッドにダイブする。
母と対峙するための論理もなく、父が誇れるほどの成果もなく、兄たちに一泡吹かせるほどの意外性もない。私にはまだ何もない。もはやこの虚無感が心地よくすら感じられそうだ。
でも、いつまでも楽な思考に引きずられるわけにもいかない。千蔭の言葉を思い出す。
きっかけひとつ。
私の中には今は何もない。でも、昔は何かあったはずなんだ。幼かった私を突き動かしたなにかを私は持っていたはずなんだ。
初めて悠さんのフィールドワークに同行した日、あの丘で感じたあの懐郷に似た胸の奥の疼きがぶり返す。
美しく儚い天と地のアシンメトリが、砕け散らかる心をさらに散らかすんだ。
あの光景をもう一度見たい。あの瞬間を。あの一瞬を誰かと共有したい。
私の、願いは……
空に手を伸ばす真似事で突き出していた腕から力を抜く。だらりとベッドの横に垂れた腕に目をやった。
ふと、今朝机から何かを落としていたことを思い出した。紙とかだったからどうでもいいレジュメかもしれない……いや、レジュメにしては紙が小さかったかな。はがきサイズくらいだった気がする。もっと小さかったかな?
そも、誰かからポストカードのようなものを贈られる心当たりはない。
就活の中で貰った誰かの名刺だったか。だとすれば落としたままは気が引ける。
精神に引きずられて鉛のように重い体を起こす。少しよろけながらも机に手をついて下を覗き込んだ。
普段から掃除して、物を置きっぱなしにしていなくて良かった。こういう時に机の下が埃まみれだったりすると覗き込むのも嫌だしその中から拾い上げた物も汚く見えてしまう。
拾い上げたのは、チョコレートの包装紙と一枚の写真。
「あ……あっ――!!」
悲鳴を上げてしまいそうなほどの衝撃が私の全身を硬直させた。
これまでの迷いや不安が嘘のように晴れていく。胸に燻っていた小さな火種が、今この瞬間にも燃え盛る。
暗闇の中に伸びていた私の道は、ようやく光を取り戻した。
それは、大自然をテーマに催されていた写真展に行った時に貰ったものだった。
手にしたそれを食い入るように見つめていると、あの日の事を鮮明に思い出す。
わたし、写真家になりたい!
子供の頃、憧れたのは花屋でもパティシエでもキャビンアテンダントでもなく、ましてや大手商社の営業マンや医者でもなかった。
親にくっついて見に行った大規模な写真展。数ある作品の中で、唯一心を奪われたのは、主催者である有名な写真家ではなく、そこに間借りする形で一枚だけ飾ってあった小さな写真。サイズは違うけどチョコと一緒に拾ったこの写真と同じものだった。
どこかの丘から見下ろしたであろう街の景色が、吸い込まれるような奥行きを持って私を呼んでいた。
タイトルは……そう「無限の刹那」だった。
当時の私にはさっぱり意味が分からなかったけれど、世界を天と地に裂くような眩い夕日の茜色が、強く、胸に焼き付いた。
天上の包容力を感じさせる茜の街が、なぜか遠い遠い理想郷のようで、至ることは出来ないだろうとさえ思わせた。
その時の私は、その感想を表現する言葉を知らなかったから、至れない憂いを「寂しい」と言って泣きじゃくったっけ。
しばらくして写真家という職業を知り、さらに成長して写真の意図を理解できた。
同時に自分が目指す表現の形をレンズ越しの世界に求めたくなっていった。レンズ越しの世界を、もっともっとたくさんの人に知ってほしいと強く願った。
「道理で、あの丘の光景にデジャヴを感じたわけだよ……」
いつの間に、私は私を失くしていたんだろう。
どうして今まで思い出さなかったんだろう。
私が持っていた無垢な目標は、こんなにも身近にあったはずなのに。
あの頃は父がいろんなところに連れて行ってくれて、皆で一緒に過ごして一緒に笑って疲れてぐっすり眠っていたのに。
私の願いは、夢は、昔からなにひとつ変わっていなかったんだ。
「そっか……そうだったよね、わたしは」
祈るように両膝をつき、両手で包装紙を包んで額に当てた。あの日のチョコに刻まれた記憶と願いと夢を引き継ぐような思いだった。
「全部、心にあったんだ」
額から顔へと腕を降ろして、組んだ手にそっと唇を押し当てた。
夢を忘れていた悲しみと、願いを思い出した喜びが瞳から零れて、頬を伝った。
呼吸さえ忘れていた。
身体が思い出したかのようにビクリと震え、大きく深呼吸する。
勢いそのままに私は包装紙と写真を握りしめたまま部屋を飛び出す。
階段を駆け降りてリビングにいる父を見た。
「どうしたんだい」
「思い出したの」
乱暴に階段を駆け下りた足音に驚いた様子もない父は、穏やかな声色で私の話を待ってくれていた。正直思考は全然纏まらないけど、伝えたい事を真っ直ぐに。ただそれだけを考えて息を吸い込んだ。
「私は、写真に関係する仕事をしたいの。その夢を、思い出したの」
声が震えてしまった。全身が熱を帯びてゾクゾクする。
ゆっくりと握り締めていた手を解いてチョコレートの包装紙と写真を見せると、父は一瞬驚いて目を開いた。そしてすぐに懐かしむように写真を受け取って見つめ始めた。
長いような、短いような沈黙が続く。
ぐしゃぐしゃになった髪も、脱げかけたズボンも気にならない。
私はただ父の言葉を待っていた。
願うのでもなく、信じるでもなく、確信を持って待っていた。
「そうか……『無限の刹那』を覚えているかい?」
私の父は、今も昔も変わらず夢を追う者の味方であるということを。
沈黙は破られ、私達は一瞬だけあの日に戻ったような気がした。
手にした感情を言い表すにふさわしい言葉を知らず泣きじゃくる私と、その反応を見て満足そうな笑みを浮かべながら頭を撫でてくれた父。
目の前の父は、私の記憶にあるあの時と同じ面持ちだった。ううん、父はあの頃となんら変わってなんかいなかった。優しくて、落ち着いていて、おおらかで兄さんたちや私が何かを始めようとすると無条件に応援してくれる。そんな父が大好きだった。
歪み、変わってしまっていたのは私の方だった。妬み嫉み、謂れのない中傷、根拠のない期待の押しつけ、成果の強制。自分の中に溜め込んでいた他人への憤怒が、他人ではなく両親に向かって暴発し続けていた。
父の言葉も、母の態度も、悪意のある解釈で自分の中に取り込んでしまっていた。自分で自分を悪循環の中に捕らえてしまっていた。
「今まで、良かれと思ってやってきた事だった。茜さんにも注意はしていたし、春奈なら自己解決できてしまうだろうと頼り過ぎていた。だが春奈を信じたが故に、逆に春奈の夢を塗り潰していたんだな」
握りしめたせいで入った写真のシワを伸ばしながら、父は微笑んだ。
春奈の言葉を聞いたのは、何年ぶりだったかな。
そう言いながらきれいに整えた写真を私の手に返してくれた。その手は大きくて、シワが増えて、ゴツゴツしてたけど、すごく暖かかった。
「ごめんなさい。私、最低だった。お父さんとお母さんにずっと八つ当たりして……」
目頭が熱くなり、一気に視界が歪み始める。申し訳なさばかりが先行して思うように言葉を続けられない。それでも父は私の言葉を待ってくれていた。
それは、父だけではなかった。
「謝るのは私も同じ。ごめんなさい、春奈」
母が、いつの間にか父の横に立っていた。父が不意打ちを咎める。
どうやら私がリビングに飛び込んでくる直前にキッチンに移動していて、出るタイミングを失っていたらしい。
母は私に深々と頭を下げて、申し訳なさげに目を背ける。その姿はさすがの私でもひどく哀しく思えるものだった。こんなに小さくなった母は初めて見る。
「私が貴女を想っている一方で貴女を信じてあげられてなかった。私自身が教育を甘く見ていた。三人目で緊張感が薄かったのかもしれない。大学受験の件は、私が春奈に依存していたのが原因だった」
母がなぜこんなにしおらしくなっているのかはさっぱり見当がつかないものの、私同様なにかきっかけがあったのかもしれない。その声色から察するに心底後悔しているのだろう。
そこに恐らく計算は無くて、きっとしばらくしたらぐったりと崩れ落ちるように椅子に腰を下ろすに違いない。
言いたいこと、思うことはたくさんあるのだけれど、一方で母のそんな姿は見たくないと思った。私の知る母はいつだって強く、圧倒的で、腹が立つほど正しい。
「正直、これまでされたことはまだ腹が立つよ。思い出すだけでイライラする。でも、認めたくないけど考え方が正しいのはお母さんだった」
まだ母の顔を直視はできない。一瞬視線を合わせるのが精一杯だ。
顔を上げられるようになるために、少しずつ変えていけるように、最初の一歩を踏み出すのは今しかなかった。
「私は私が良いと思ったものを広めていけるような仕事がしたいの。それが私の夢だったことを思い出した。さんざん悩んで見えなくなってた答えは、最初から持ってた。お母さんにとって無意味で無価値な仕事だとしても、無駄で非効率的な生き方だとしても、私にとって価値があるの」
そう。舞さんに導かれて、悠さんに拓かれて、千蔭に示されて、目の前の二人に見守られてここまで来た。私が選ぶべき道は、進みたい道は、経験や知識に埋もれて見えなくなっていただけだ。
ずっとずっと、自分の中にあった。
感動や憧れは色褪せない。
絶対の価値を持つ、自分の感性のまま手に入れた感情。まぎれもなく私の心。
「だから見てて。信じて。進み続けるから」
一瞬、母と目が合った。言葉通り、本当にわずかな時間だった。
彼女は何も言わなかった。頷きもせず、ため息も漏らさず、反応を示さなかった。
いてもいられず、私は踵を返してリビングをあとにして部屋へと向かう。
父も母も、私を止めはしなかった。
興奮冷めやらぬまま、自室でノートパソコンを使って就活を再開する。
何となく悠さんに相談しようという気がしなかったからだ。
それに私を信じる私が選ぶことに意味があると、そう思った。
私のイメージに近い会社を数件ピックアップして説明会の予約を入れる。
そこで満足感を得た私は、襲ってきた睡魔に逆らわず瞼を閉じた。
翌朝、朝食を摂ろうとリビングに出たところでキッチンにいた母に遭遇した。
数秒の沈黙が、逆に私を奮い立たせた。
「……おはよ」
「!」
自宅であいさつするのは何年ぶりだったっけ。
母が息をのむのが雰囲気で分かったけど、やっぱりまだ顔を上げきることができなくて表情までは見えなかった。
「もうできるから、座りなさい」
そそくさとキッチンに消えてゆく母は、トースターに手をかけながらいつもの調子で着席を促す。
いつもは自分の分は自分で作れと言わんばかりにスルーされていたのに。
座った私の前に出されたプレートには、朝の甘味を好まない母にしてはこれまた珍しく私の好きな黒豆ヨーグルトの小鉢が乗せられていた。覚えてたんだ、私の好み。
母は何も言わなかった。