調温
私は、何がしたいの――
帰宅して玄関に母の紅のパンプスを見る。父の革靴は無かった。
靴を脱ぐのも忘れ、思わず喉が鳴る。この体の震えは武者震いか、恐怖か。
先日盗み聞きしてしまった母の想いの断片から察するに、私が真っ向から否定されるような事態にはならないと考えられる。けど、予想に反して真っ向から否定してくる可能性も否定できない。
否定におびえるという事は、私の意思が、考えがそれだけあやふやで決意が足りていないことを認めるという事と同じかもしれない。
母と対峙すべきは本当に今か。
どうにか靴を脱いで自分の部屋へ直行する一分足らずの間に何度その問いを心の中で繰り返しただろう。成功したらどうなる。失敗したらどうなる。どんな結果になるかさえ全くイメージができずにいる。
ならばどうすべきか。その答えは「決意する」だけと思う。
私はこうしたい。私はこうなりたい。
それを自分の中でしっかりと定めればきっと論理はあとから組みあがる。
じゃあ、私はなにをしたくて、どんな人になりたいのか。
ベッドに投げ捨てたバッグをじっと見つめる。お気に入りで長年使い続けてきたそれは色褪せてくたくたになっている。丈夫で、お気に入りだから使い続けた結果だ。
そんな重宝されるような人になりたいか。今は違う気がする。
何かに特化した特徴を持つ、いわゆる「プロフェッショナル」として技術を活かせる現場に参加していけるような人になりたいか。
プロフェッショナルとして何かに特化する考え方は悪くないと思う。でも、まずは一般的な価値観を身につけるべく特化の道を後回ししてもいいのではないかとも思う。一般的な会社勤めを知らないままでは立場や事情を理解あるいは共感できる相手が減ってしまうのではないだろうかという懸念があるからだ。
ではいろいろな人と会って契約を交わすための交渉や駆け引きを行ういわゆる営業的な職種はどうだろうか。
違う。それだけは私のやりたいことではないとはっきり断言できる。それに、実際に営業課で働いている方々には失礼な話だけれど私にとって面白くもなさそうな仕事なんて続くはずもない。
では接客はどうか。
……悪くはない。でも飲食店のホールスタッフのような仕事は社会人になってまで続けるような仕事なのだろうか。当然、様々な人と交流できる、誰かの憩いの時間の容易に貢献できるというようなやりがいやメリットはあるかもしれない。でもそれが私にとって「じゃあこれで生きていきます」と決断できるだけの決め手になり得るかと言われれば答えは否だ。
そこまで考えて、思考が拓けた。その衝撃に吹き飛ぶような勢いでカバンを追いかけるようにベッドに倒れこんだ。どっと疲れがにじみ出てき始める。
「馬鹿だ、私。なにもわかってなかった」
自分でも笑ってしまう。就職できればなんでもいいじゃないか、と思っていた数か月前の自分を張り倒したい。
ちょっと考えただけでもこれだけ自分の希望が思い浮かぶじゃないか。
今まで漠然と実感もないまま同じような自問自答を繰り返してきた。でも今の結論まで導きだせなかった。「自分が何になれるのか」「どうすれば内定を貰えるのか」なんて就職活動の結果しか考えていなかったからなのかもしれないと今なら思える。
全ては当然の結果だった。自分のことなんてろくに把握できていないのに内定のような結果ばかり欲しがる人より、自分がどうなりたくて、どうしていくことで目指すのかが少しでもイメージできている人の方が一緒に働きたいと思えるに決まっている。「私、自分が何ができるのかわかってないし、御社が何をしてる会社かよくわかってないですけど雇ってください」と言っているようなものじゃないか。間抜けを通り越してもはや愚かと言えるかもしれない。
私がこれまで失敗し続けてきた原因はようやく、なんとなくわかった。
問題はそれでもなお私は私の将来のヴィジョンが見えていないという事だ。私自身の目指すべきものが思い浮かばない。仮に思い付いたとしてもなんとなく「違う」と思ってしまう。それだけでも私は焦る。
これでは母に立ち向かうための剣が手に入らないからだ。
仮に母に私の意思を示したとして、賛同を得られなかったとしても少なくとも自分の中に「私自身を示した」という事実は実績として残り続ける。けれど示すべき意思が見えないのでは戦いの土俵に立つことすらできない。
ベッドに伏して、気が付けば二時間ほど経っていた。悶々とし続けて体がだるい。
思い出したようにスマホを手に取ると、母からショートメールで急用で出かける旨の連絡が来ていた。以前から忙しい時などは同様に連絡を貰うことがあったので驚きはしないものの、今回ばかりは(先日の盗み聞きがバレたとは思ってないけど)顔を合わせづらい思いがあったのかもしれない。
だけどちょうどよかった。これで気兼ねなくリビングを使うことができる。今更のように蘇る空腹を満たす為に台所にあるもので適当に夕飯を作ってしまおう。食事はさっさと済ませてシャワーを浴びよう。きっと食べてお湯を被っている間に濁った思考はクリアされるだろうし。
そう決めたらあとは行動あるのみ。私は勢いに任せて体を起こし部屋を飛び出した。
食事と入浴を一通り済ませてベッドに戻ったのは二十二時過ぎだった。
一つ長いため息を吐いて、考えを再びまとめにかかる。ここ最近になってようやく意識し始めた私の周りにいる人を思い返す。
甘味処「舞姫」のオーナーで多くのスタッフを指揮する舞さん。チームを運営することに長けていて、愛嬌のある人柄が特徴的だと思う。
自由気ままで感情に従ってシャッターを切る悠さん。舞さんとは対照的にマイペースではあるものの彼の感性は素人目で見ても癖が強い。マイペースな一方でクライアントに対する仕事の責任感はプロとしての矜持もあってか強い。
悠さんを通じて話ができたカメラマンさん達も、各々に自分の仕事に価値ややりがいを見出していた。いい笑顔を見せていた彼らを見ていると、専門的な分野で好きなことを追求していくのも悪くないかもしれないと思える。
状況に逆らわず進路を決めた千蔭。彼女は一言で言えば豪胆だ。同い年とは思えないくらい自分の置かれている状況を客観的に把握できているし、自分の選択一つで誰にどんな影響があるかなどを素早く計算できるうえ、その結果を是とすることができるほど合理的でもある。
母は自他に厳しく、客観的な評価と結果を尊ぶ。それが悪いとは言わない。客観的に見て評価されることは間違いなく良いことだ。でもそれは自己完結で留めてほしかった。
父は人柄こそ仏のような包容力があるけれど、その存在感は巌と形容できるかもしれない。市議というレベルではあるものの政界に生きる人だ。優しさだけではやっていけないのだろう。公私混同をしない真面目な人だ。
思えば他にも大勢思い浮かぶ。一人ひとり独自の価値観を持っていて、目標を目指しながら、悩みながら生活しているようだ。
改めて私自身何を望んでいるのか自問自答を再開する。
でも結局その日答えは見つからなかった。考えているうちに瞼が重くなり、私は眠気への抵抗をやめた。
日付がとうに変わり、街が寝静まった頃。
電気も消さず寝てしまった娘の部屋に入るのは少々気が引けたが、状況としては好都合だった。
源三は娘の机の上に渡しておきたい物だけを置いて、電気を消してそそくさと部屋を出る。
「いつだって答えは近くにあるものだよ、春奈」