混合
私は、どうすれば――
視界に写るものにピンときたらシャッターを切る。
その感性を継承してしまうのにそう時間はかからなかった。
大型連休前に何度か悠さんの仕事に同行させてもらっているうちに、ようやく彼の基本方針を垣間見ることができた。
そも、彼は撮りたいものしか撮らず依頼は顧客のためにと割り切っている。そして自然が好きなようだ。
時間に縛られることはあまり好きではないのか、約束事が無い日は時計類を身につけたりしない。さすがにスマホは身につけているのだけれども。
あと、食事にもこだわりは無いらしい。
好きなものはこれと言って無く、嫌いや苦手も本人曰く無い。確かに度々食事を一緒にする時があるのだけれど、基本的に目立った反応もなく済ませている印象だ。
彼が頬を緩ませるのは、自分の感性を刺激するものを見た時。
あとは、特定の人と時間を過ごしているくらいだろう。その特定の人というのはまぁ舞さんくらいなのだけれど。
そして今日も、午後の仕事が終わり、悠さんに自宅付近まで送ってもらっている。
「いやぁ、今日は疲れたね」
「何の前触れもなく家族喧嘩が始まりましたからね……気を遣って息子さんが解放してくれなかったらと思うとため息しか出ませんよ」
さすがにちょっとうんざりした様子の悠さんと声色が合う。
今日のクライアントは家族写真を希望されていた。この手の依頼は以前から頻度は低いものの無いわけではないらしい。いつも通りの支度をしてフラッとお宅にお邪魔して撮影を開始した。が、開始して間もなく、写真のイメージ確認をしてもらうために内容をまず見てもらおうと提示したところで、クライアントの両親で撮影位置やらなにやら意見が食い違い始め、娘さんをも巻き込んで言い合いの喧嘩が始まってしまった。
おろおろするしかなかった私の横で、涼しい顔の悠さんはそれすら眺めていた。
数分して収束する気配がないなぁ、と思った矢先にクライアントである息子さんが私たちに頭を下げ、頭を冷やして後日改めて撮影をお願いしたいとの申し出があった。
追加料金は支払いますから、と申し出る息子さんに悠さんは首を振った。いつも通り軽やかに「最後まで撮って、満足してもらえるまでが一つの仕事ですから」と笑う。
今日撮影した分はイメージの助けになれば、とサンプルとして渡してしまった。
申し訳なさそうに深々と頭を下げた息子さんにご挨拶を済ませた私たちは撤収して今に至る。
「でもあの試し撮り分まで渡して良かったんですか? 場合によっては実はあれで満足してキャンセルで、とかなりませんか?」
ありえないとは思えない。とはいえ見たところあれが演技で、実は写真をふんだくる気でいたというストーリーは無いと思っている。でも、喧嘩が収まり冷静になって写真を見たところでご家族が満足してしまう可能性はあるのではないだろうか。それでは悠さんが損をしてしまう。
私のその心配を当然彼は私の言葉で正確に受け取ったようだ。
「ないない。ハルちゃんにはあえて見せずに渡したんだけど、あのテスト分は誰も全く笑ってなかった。威厳のあるご家庭というわけでもなかった。そんな彼らが自分たちじゃなくて、僕らのようなプロに依頼するような家族写真だよ。全員で写って思い出にしたいという願いの結果である写真に笑顔が無い写真で満足するなんて絶対にありえない。そんなのは、息子さんが許さない」
明るい目的のための写真なら、結果もついてこなければ意味が無い、と彼は言う。
珍しく彼の声は低く、とても真剣な重さを感じられた。
「それにね、僕は『思い出になる家族写真を』という依頼を受けたんだ。今日のあれがその依頼を満たしていないのだから、まだ仕事は終わってない。追加料金を、という提案は論外だ」
私が言わずにいたもう一つの疑問を見透かしたかのように彼はその一言を付け加えた。
何でもかんでも儲かればそれでよい、なんて考えは駄目だと言われたように思う。
というかこの人、損益勘定できてないというか無視している。感性と人情で生きているのではなかろうか。
「ところでさ、少しは見えてきたのかい?」
不意に、彼は私をチラリと見た。
その視線から察するに、今の問いが私の進路のことを指しているのではないかとぼんやり思えた。
私はすぐに言葉を返すことができなかった。
質問に面食らっていたわけじゃない。そもそもそれを見つけるきっかけとして悠さんに付くよう舞さんに促され、私がそれを受け入れた結果が今だ。
初日から大いに面食らい、今日にいたるまでのおよそ三週間。日々学ぶことは多い。
そのうえで考える。
どこかに就職して普通に働くのも良い。それはそれで無難な選択だ。
自分で会社を立ち上げたり、自営業で店を構えるのは現実的ではない。資本も信用も人脈も何もかもが無い。
あるいは、アーティスティックな活動で生きていくこと。これは可能性としてはありだ、と今は思える。
以前までの自分なら安定していない恐怖で真っ先に切り捨てるだろう。他にも、両親がそれを認めない可能性に臆したかもしれない。
でも悠さんを通じて同業の人達とも言葉を交わす機会があった。
彼らは一様に楽しそうで、自分の仕事あるいは自分自身に対して誇りをもっていた。
――俺は誰かの感動に一役買っている。
――私は誰かの思い出の手伝いができている。
――僕は自分の目標に着実に進み続けている。
彼らが眩しく見えていた。
だから、決めかねていた。他の道がまだあるんじゃないかと思えてしまっている。
「普通に、どこかに就職しようかと思っているのは相変わらずですけど、写真に関連した仕事も良いかなーってちょっと思ってます」
だから、まだそんなことしか言えなかった。
でも、悠さんはフフッとかすかに笑う。それは私の言葉に対して面白くてとか馬鹿にしたような意味は無くて、ただ嬉しそうで。
「良いね。とりあえずどこかの会社に就職っていうのは確定ってことで、あとは業界と業種さえ定まれば問題なしだ」
「その業界と業種っていうのがもうずいぶんと定まっていないんですけどね……」
そう。結局ここしばらくの経験を経て得られたのは、相変わらず最初から自分で考えていた普通に就職するという選択が現実味を帯びた実感だけだった。
それからはまたとりとめのない会話をしつつ、次の仕事の内容について確認をしたりした。その間に私の家の近くに到着して、降りる支度をする。
「そうだ、ハルちゃんにこれをおすそ分けしておくよ」
停車後、車から降りた私に悠さんはカバンに入れていた保冷袋から取り出したものを渡してくれた。それは一口大の小さな包み。
「僕が直近で参加した展覧会の時に配られてたチョコだよ。結構な量が余ったからって渡されてさ。せっかくだから舞姫で配ろうと思ってまずは君に」
これで悠さんが同年代か近しい人であれば、私は思わずキュンとしただろう。
若くスマートな悠さんだが、さすがに四十路相手に私の中の乙女は反応しない。
いっそ「自分で食べないってことは苦手?」とか考えるくらいには図太くなった。
以前ならすぐ謙遜や遠慮で貰わなかったら相手に気を遣わせていただろうし。
短くお礼を言ってカバンにしまう。溶けたらちょっとやだなぁ。
舞姫に戻るべく走り出した悠さんの車を見届けて私も帰宅した。
時刻は二十時。
お風呂、食事が一通り終わって自室でなんとなく写真家やら雑誌やらのワードで検索をかけた結果をスマホで眺めていた。
そろそろ今日の分の勉強のために母が部屋をノックしてくる頃だ。と思った矢先予定通りノックの音が響いた。
今日は何の小言を言われるのか。内心うんざりしていた私は、眼鏡を持たず、困ったような顔をした母がそろりと部屋に入ってくる姿を見た。
「な――」
何事か。
終始キレッキレで、見られただけで背筋が伸びるような重圧を放ち、指摘に対して言い訳を放てば正論で論破しにかかり、過保護な範囲で人のプライベートを詮索しては言わなくていいことまでポロッと口にしてしまい場の雰囲気を最悪にするその権化たる母が、今日は見る影もない。
というかさっき食卓で会った時と雰囲気が全く違う。誰だ、と言わざるを得ない。
「今日は話をさせてちょうだい」
背中から滲み出る冷や汗が止まらない。何か致命的なミスをやらかしたか(そんなものに心当たりは微塵もない)。
普段の勉強はとりあえず実施している。それは日々顔を合わせているからわかっているはずだ。
心当たりがあるとすればもはや就活の話題しか思い浮かばないが、まさかここに至って「ここに就職しなさい」なんて言い出さないだろうな? そんなことを言われたら最後、私は本気で――
「今晩から、貴女に対する私の家庭教師はおしまいにします」
「……」
私はどれくらいの間固まっていたのだろうか。
一瞬で時間感覚も思考能力も意識までもが吹き飛んだように思えた。
「じゃあ次は私に何を要求するわけ」
だから、とっさに出た言葉も警戒心むき出しだった。
次に面食らったのはどうやら母のようだった。ギョッとした様子を見せたかと思えば、こめかみに中指を当てて長くため息をつく。それをしたいのは私の方だ。
だが母は私とは違い、その反応が十数秒も続いた。
仕方がないじゃないか。これまで母にどれだけの要求を突き付けられ続けてきたか、それは本人が一番わかっているはずだ。この人は私に何かさせていないと気が済まないのだろう。兄たちと違い、優秀であるわけではない私が許せないのだろう。
だから自分の思い描く理想を私で再現させるために口うるさく言うのだ。
これまで馬鹿みたいに無駄な勉強ばかりさせられ続けてきたんだ。どうせ次もろくな要求はしてこないだろう。
「ごめんなさい……」
けれども、私の予想の遥か斜め上を行く反応がまたも私の言葉を奪う。
座ったばかりなのに、母はそれだけ言うとすぐに私の部屋を立ち去った。
その背中に、私の知る母の強さは欠片も感じられなかった。
呆然と母を見送って数分、ふと思い出したように私は明日の準備のためにカバンを開き、必要なものを詰め込む。その時、今日の帰りに悠さんから貰った小包を見つけて取り出した。たしかチョコだと言っていた気がする。
白い折り紙のような紙に包まれていたそれをはがすと、今度はチョコレート本来の包みが現れた。銀紙に包まれ、天面には細かく描かれた薔薇のような華のイラストが付いている。
それを、私はとても懐かしく思い、すぐに確信に変わった。
私は、この包みを知っている。
私は、この包みを過去に一度貰っている。
悠さんはこれを「直近で参加した展覧会の時に配られてたチョコ」と言っていた。
という事は、私は過去にどこかの展覧会でこれを貰った?
見覚えがあるのははっきりとわかる。けれど、それをいつどこで貰ったのかがまるで思い出せない。まだまだ記憶が漠然としたままで、展覧会というキーワードしか手元に無い。
数刻考え、父なら何か知っているかもしれないと考えた私は、おそらくリビングにいるであろう父に確認することにした。
大学受験以降、露骨に会話を避けてきた手前、かなり都合の良い態度ではあるがこればかりは気になるので確かめるしかない。
父が知らぬというのなら恐らくこれはデジャヴなのだろう。けれど、知っているというのならば私は過去に強い衝撃を受けているはずだ。それを確かめられるのなら父に話しかけることくらいはやってやる。
そう思いチョコを持って部屋を出る。家は二階建てで私の個室からリビングまでは階段を下りて移動しなければならない。
空調で室内の温度はだいたい一定に保たれているものの、季節柄チョコがべた付く可能性があることに気付いたのでとりあえず中身は口に放り込んだ。うん、意外と美味しい。というかこの季節にそもそもチョコ配ってるのか。と思ったのは悠さんには内緒。
素早く廊下を通り階段を下りる。
降りて廊下の先、煌々と見えるリビングの光から、父がいると思い近付くと話声が聞こえた。反射的に足音を消し(舞姫での経験の賜物)、そっとリビングの入り口で足を止める。声を聞くに、父と母だった。
「こうなるってことくらい、君ならわかっていると思っていたんだけどね……」
「そう……ね……」
二人とも声に覇気がない。むしろ父の方は悲しみすら感じられる。
対して母は、さっき私の部屋を去った時以上に声に力が無かった。
「僕は言ったはずだよ。君に似た正義や誠と違って、あの子は私に似ている。勉学より感性に鋭敏なんだ。でも心は君と同じくらい強いけど脆い。そんなあの子に十年以上プレッシャーを与え続ける教育を続ければ、君はあの子にとって絶対の敵になると」
母の返事はしばらくなかった。
私も同じく、動けなかった。これ以上は駄目だ。今すぐ立ち去らなければならない。頭の中の中で冷静に判断できているのに、体が言うことを聞いてくれない。
父の言葉が、頭の中で嫌に響く。
「そんな関係は誰も幸せにならないじゃないか。君が春奈のことをどれだけ想っていても、もう言葉じゃ届かない。君の真意があの子に届いたとしても、これまで積み上げてきた感情は簡単に君を許容したりできないだろう」
「自覚はあったのよ……でも私は、どこで――」
間違えたの
そう言葉が続くような気がした。かすかに聞こえるすすり泣く声が、胸の奥を掻きむしる。全身の身の毛がよだつ。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
先ほど母が私の部屋を出ていったんだから、リビングで二人が会話している可能性なんてちょっと考えれば簡単に想像できたはずだ。
ああ、迂闊に降りてこなければよかった。
こんな形で人の想いを知りたくなかった。
父も母も、何を考えているのかわからない。
私のことを憂いていたという父。ではなぜ大学受験の時に私に学校を指定してきたのだろう。私がすでに志望校を伝えたうえで潰しにかかったではないか。
私を心配しているという母。ではなぜ私を信じてくれないのか。
何を信じればいいのか、わからなくなってきた。二人して実は今私がここにいるのがわかっていて、私に新たにプレッシャーをかけようという魂胆なのだろうか。
わけがわからない。
私はただそこにいたくない一心で足音を殺し、震える足で懸命に部屋へ戻る。
舞さんに会いたい。
悠さんに会いたい。
視界が歪み始めた。
ブラックアウトしそうな感覚の中、両手を廊下の壁に添えてなんとか自分の部屋に辿り着き、ベッドがある方へ倒れこむ。そこで私の意識は途絶えた。
茜さんにかける言葉を整理するために、トイレに行こうと部屋を出て気付く。
足元に転がっていたのは、一枚の銀紙……チョコの包みだろうか。
なぜこんなところに。
拾い上げたそれを見て、息をのんだ。
繊細な薔薇のパッケージ。それは春奈が幼い頃に連れて行った写真家が集う展覧会で配られていたものと同じだ。確か製造元も展覧会の主催もまだ健在で、つい最近も同じものが配布されていたように思う。
それがここに落ちていたという事。
その事実が示す誰かの痕跡に気付き、望月源三はひどく顔をしかめた。