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配合

 私は、何を知ればいいの――


 昔からそっけなくて、いつも私なんか眼中になくて、好きな道を好きなように選んで進んでいく兄たちが羨ましかった。

 その背中に少しでも近付きたくて、兄たちが誇れる妹になりたくて、私が私を好きでいられるために頑張ってきたはずだった。

 でも、クラスや学年で少し突出したかと思えば親の威光だとか教育の水準が違うとか、遺伝だとか、そんな言葉の刃が私の背中を穿ち続けた。

 親は直接的な要因じゃない。私は塾すら許されず自室に幽閉されている。両親や兄たちに比べれば私はみにくいアヒルの子。

 それでも私は私の努力をしてきたはずだ。

 母の冷徹な視線と厳格な指導による全く楽しくもない座学に歯を食いしばって耐え続けている。兄たちに冗談半分の小言を言われながら興味のない話題の会話に相槌を打ち、いつだって優しくて、味方でいてくれたはずの父には大学受験期に母側に付かれ裏切られた。それでも、その立場を選択したこと自体を責めはしなかった。

 生きることは耐え忍ぶことだと自分に言い聞かせて生きてきた。

 なにもかも誰もかれもが自分に強制を与える敵なのだという思いが年々増し、大学受験が控える高校三年生の初夏、限界を迎えた。

 両親に呼ばれダイニングテーブルをはさんで向かい合う状況で、険しい顔つきの母の横、申し訳なさそうな父が、そっととある大学のパンフレットを差し出した。

 要は、ここに行けという事だった。

 あたまが、まっしろになった。



「ハルちゃん、そろそろ着くよ」

 強烈な吐き気を催す夢を見た。

 小刻みに揺れる視界と眠気で、早朝から車で移動中だったことを思い出す。

 舞さんと会話をしたあの日から三日経ち、遂に初のお手伝い。

 作業の内容は具体的に教えてもらっていないので、何をすればいいのかはさっぱりわからない。秋風さんのことだから無理難題ってことはないと思うのだけれど。

 眠気眼を擦りながら、車窓越しに街を見る。初夏の朝は、さっぱりとした空の青と、植え整えられている木々の緑が鮮やかに思う。こうして街を一望できるという事は、今まさに郊外の小高い丘を登りきる頃だという事だろう。

 長い坂道を一定の速度で走り続ける。

 快晴の空に向かっているようで、なんだかワクワクしてきた。

 今日はフィールドワークのような雰囲気を感じるので、持参したエナメルバッグから日焼け止めを取り出す。使い慣れた手のひらサイズのチューブを握って左手の甲に適量出し、それを右手で左腕に付けて伸ばしていく。揺れが小さいとはいえ車内だ。バランスを崩してどこか汚してはいけないな、と思い塗る量は控えめにして素早く塗り終える。

 唯一事前に説明があったのは動きやすい服装で、という事のみだったので、白い半袖ワイシャツに紺瑠璃色の夏用デニムを選択。靴は当然メッシュの効いたスポーツシューズだ。私は普段からシンプルな服装が好きなので、今日のような服装の日が多い。友達にはしばしば「男っぽい」とか言われるけど興味が無いのだから仕方がない。

 中高生の頃は母が唐突に買ってきたスカートやらワンピースを着させられることもあったけれど、しっくりこなくて(オシャレ優先ができなくて)すぐにクローゼットの肥やしになった。

 別に、見せたい相手も今はいないし。

「さて、到着だ。日焼け止めは塗り終わったかい?」

 簡素な駐車場に停車させた秋風さんはそう言いながらバックミラー越しに日焼け止めを仕舞っていた私を見てさすが、と呟いた。

 運転中、特に会話は無かったはずだけれど、どうやらチラチラと私の様子を確認はしていたようだ。日焼け止めは大丈夫か、ではなく塗り終わったか、と聞いたのがその証拠だろう。

 無駄のない効率的な会話ができてとても楽だな、なんて思いながら私もシートベルトを外して降車する。

 外に出て気付いたけれど、他に停車している車が無いにもかかわらず、運転席側が駐車場の端になるよう駐車していた。もしかして後部助手席側に座っていた私が扉を開けるのを気にしなくていいように場所を選んだのだろうか。

 ……さすがに考え過ぎだろう。

 心の中で苦笑しつつ、後部に積んでいた荷物を降ろすのを手伝う。

 写真家というのは自己紹介の際に把握していたので、この荷物も関連したものだろう。なんにせよ自分の荷物ではない以上慎重に扱うことをまず第一に考えて一つずつ台車に積んでいく。

「結構重い物が多いから、指を挟んだり腰やっちゃったりしないように気を付けてね」

「大丈夫です。店の荷物とか運んだりするのもしょっちゅうで、重たい物は慣れてますから!」

 これまでも日課のように飲料水やら氷やら食器、ゴミなどなど。様々な重い物を運んできた。いまさら数キロのカバン程度で慄きはしない。

 しかし改めて思うと、舞姫では雑用させられ過ぎていたのではないだろうか。

「頼もしいね。舞は絶対に手伝ってくれないからさ」

 ハハハ、と爽やかに笑う彼は、薄手の長袖ワイシャツにベージュのチノパン。

 日除けに白いキャップを被っていて、髪は相変わらずローポニーでまとめて腰まで伸びている。維持するのは大変だろうなぁ。

 なんて考えていると、彼はシャツの袖をまくり、一番大きいカバンをひょいと持ち上げて肩にかける。一瞬盛り上がった腕の筋肉にちょっとドキッとした。ああ、どんなに穏やかな雰囲気でもやっぱり男の人なんだなぁと思った。

 彼が手にした荷物が最後だったので、後部のドアを閉めて、鍵をかける。

「もう六時か……朝早くから力仕事でごめんね。目的の場所はここからちょっと登ったところだから、台車は僕が押すよ」

 すでに一番大きなカバンを背負っているにもかかわらず、彼は私が荷物を積んだ台車をスッと押し始めた。

 自分の手に持つだけになってしまったのが申し訳なくてオロオロしていた私に気付いたのか、気にしないでついてきてとフォローしてくれる。

 一瞬近くの自動販売機に寄ってから彼の背中を追いかける。

 高身長という事もあってか、ゆっくり歩いているようで一歩が大きい。私の三歩が彼の二歩くらいだろうか。男の人の背中というものをついつい観察してしまう。

 父の横に広く丸い背中とは違う。

 兄たちの若く細い背中とも違う。

 大きく、がっしりとしていて包容力のある雰囲気を感じる。誰かがそこを支えにするのが前提にあるような、ちょっとやそっとじゃびくともしない安心感。

 なぜか、胸の奥にある不安がわずかに和らぐような気がする。

 そこまで思って「イルカかみたいだな」なんて例えが浮かんだ時点で気が散っていることに気付き、大きく深呼吸して頭を切り替える。

 まだ、お手伝いと言えるようなことは何もしていないのだし、ここからだ。

 大きく踏み込んで、一定の速度で坂を上る秋風さんを駆け足で追い越す。

 ちらりと横目で見た彼はとても楽しげに微笑んでいた。

 そして、坂を登りきった先で私は息をのむ。

 背中を押すかのように、ごう、と一陣の風が吹き抜けた。

「特別なところに行かなくたって、素敵なところはいくらでも見つかるよ」

 彼の言葉に頷くのも忘れて、私はその景色に見入った。

 この丘には初めて来たはずだ。

 でも、こんなにも胸の奥がざわついている。

 若くみずみずしい葉が風に撫でられている。

 ひび割れた皮が目立つ幹はしっとりと水気を帯び、重厚な存在感を放つ。

 黒々とした木々の合間から見える街はまるでミニチュアのようで、まだ柔らかさを残す朝の陽がそれらを淡い色に塗り替えている。

 私は、この景色を知っている?

 漠然とそう感じた。

 この、なんでもない景色がとても愛おしく思えてしかたがなかった。

 なぜ――

「さぁ、仕事を始めよう」

 どのぐらい放心していたのか、わからない。

 車内で声をかけられたのと同じ調子で私は現実に引き戻された。

 彼は荷物を取り出して三脚の位置を探り始める。

 先ほどの余韻に浸る間もなく、私はフラフラとさまよう彼が放置した荷物をまとめ、適度な距離感を保ちながら追従する。

 一歩進んでは半歩下がり、二歩下がり、数歩進む。

 三脚の足を開いては閉じ、カメラを胸の前に持ったまま裸眼で街を眺めている。

 てっきりファインダー越しの景色から微調整するのだとばかり思いこんでいた私など気にも留めず、彼は真剣な眼差しで唐突に空を仰いだ。

「綺麗だ……」

 いや、撮れよ!

 と危うく口にしてしまいたくなるほど彼はのんきだった。

 この淡く美しい景色を撮るためにここに来たんじゃないのだろうか。

 彼が何を求めてここに来たのか。なぜ私を同行させたのかさっぱりわからない。

 訝しむ私を他所に、太陽はあっという間に上がってゆく。

 日差しが肌をジリジリと照らし始め出した頃、唐突に彼は寝転がって撮影を始めた。

「やったぁ」

 ゆるーく喜び、ゴロゴロ転がるこの人は、あっという間に全身葉にまみれた。

 せっかく綺麗な髪も、くしゃくしゃになって背中に張り付いている。

 でもそれを全く気にしないほど彼は満足げだった。

「ハルちゃんも、せっかくだしスマホとかで気ままに撮ってみなよ」

 荷物ありがと、と笑いながら彼は服をはたいて立ち上がる。

 プロの目の前でスマホ撮影なんて非常に気が乗らなかったし、彼の姿に面食らっていたところもあってしぶしぶという態度が隠し切れなかった。

 確かにこの景色は美しい。けれど、数刻前のようなあの感動はもう私の胸にはない。

 ふと、目の前の足元に咲く一輪の野花が目に留まった。

 それは本当に小さくて。でも、ちゃんと咲いていた。生きていた。

 カシャっと機械的な音が響く。こんな風に花を撮影するなんて初めてだ。

 すこしだけ、ドキドキした。

 振り返れば彼はカメラをカバンに仕舞い、目を閉じて風に耳を澄ませている。

 いや、だから撮影はどうしたんだ……

 二回目の心のツッコミに勢いはなく、もはや呆れに近かった。

 あまりにも気持ちよさそうな様子につられて私は大きく伸びた。

 すこし汗ばんだシャツが体に張り付く。

 風がシャツを凪いで、熱を奪っていく。

 店や大学、街の喧騒。あらゆる音が遠のいていくような錯覚に陥る。

 背中がスッと軽くなったような気さえする。

 大きく吸い、長く、深くため込んだ息を吐き出した。胸の中にたまっていた一切合切を吐き出すような思いだった。

 まるで懺悔でもしているかのような私の横で、幸せそうなあくびが聞こえる。

「遠くを見ようよ」

 大粒の汗が滲む彼は、私と同じように体を伸ばした。

 その様子で思い出して、私は駐車場で買ったスポーツドリンクを持参した保冷バッグから出して彼に渡す。嬉しそうに「ありがとう」と言ってそれを受け取ってくれたのを確認してから自分用の一本も手に取り、二人でそれぞれ喉に流し込む。

「で、それってどういう意味なんですか?」

 喉を鳴らして一口、また一口とドリンクを含んで、難しいことじゃないよと彼は言う。

「目の前のことに一生懸命になるのはもちろん大切なことだ。時々向き合わなきゃいけないことはあるからね。でも、近くばかり見ていたら進むことのできる違う道があることを見落としてしまうかもしれない。だから、たまには顔をあげて見渡してみるのさ」

 彼の比喩は、わかりやすい。

 自分の人生だから一生懸命悩むのは当然だけど、視野を狭めてはいけない。

 たまには羽を伸ばすのも、悪くない。

 真面目一辺倒ではうまくいかないことの方が、多いのかもしれない。

「大人ですね」

「まさか。僕ほど子供な大人はそういないよ」

 ケラケラ笑う彼を見ていると、「そうかも」と頷きたくなる。

 それから数分もしないうちに、元気になった太陽から逃げるように片付けをして駐車場へ撤退する。

 桜が散れば、油断ならない暑さばかりだ。

 車に乗り込んで一息ついた。

 陽に当たりわずかにかゆみを覚えた両腕が、丘の上で交わした言葉や景色から得た興奮、感動を思い出させてくれる。短い時間ではあったけれど、たくさんの初めてと経験を得られたのが楽しい。

「あっという間に八時。さて、今日のメインの仕事の前に朝ご飯を食べに行こう。なに食べたい?」

「うぅん……確か次の場所って駅の近くでしたよね。最近できたワッフルのお店がその辺りだったと思うので、ぜひとも行きたいです」

 彼の言葉通り、この丘での撮影は今日の仕事の内の一つでしかない。彼の朝食の誘いに対しては少し悩むそぶりを見せつつ最近流行っている(と学内で噂の)店を伝える。実は行きたい店はすでに見繕っておいた。

 スマートフォンで店を検索し、メニューを見てみると、厚みのある黄金色のワッフルの写真がすぐに表れた。

 その店の売りは、プレーンワッフルとサニーレタスをメインに据えたサラダにとろっとろのスクランブルエッグを添えられたワンプレートらしい。

 シートベルトを締めていた秋風さんにホームページのメニューを見せると、いいねと大きく頷いてくれた。

 途端、ぐぅ、と私のお腹が主張を強めた。

 車内という空間には逃げ場などなく、愉快そうに笑う彼の横で私は恥ずかしさを紛らわせるために少し乱暴にシートベルトを締めた。

「あっはっは。なんだか僕もお腹ぺこぺこになってきたよ」

 無邪気に笑う彼は私がそっぽ向いているのを気にもせず移動を開始する。

 どうか、こちらに視線が来ませんように。熱を帯びた耳まではさすがに隠せないから。

 結局彼の気ままで消極的な撮影に対してまともな手伝いは叶わなかったけれど、初日のたった数時間で得られたものは大きかっただろう。

 丘を下りきる頃には、不規則かつ小刻みに揺れる車内で私はジワジワと忍び寄る睡魔と戦っていた。

 なんとなく、今は眠るのが怖い。

 思い出したくないなにかを掘り返されるような気がする。

 この、楽しいひと時を根元から粉砕されてしまうような気がする。

 重たく視界を塞いでゆく瞼の裏で凍えるような寒気を感じながら、意識を手放した。



 いつからだったか。私が、小学校高学年になったころからだろうか。

「心配しなくていいわ。あなたが困らないよう、全力でフォローします」

 そんなことを言って、私の身の回りの世話だけでなく、あらゆる場面で私の行動に難癖付けるようになったのは。

 兄たちが母主導の自宅学習で大きな成果を出したことは、普段の彼らを見ていれば嫌というほど思い知らされる。そのはねっかえりというと兄らには悪いなぁと思うけど、私が何を言っても何をしても、周りは二言目には「彼らの妹だから、こんなものじゃないはずだ」と言ってくるようになってしまった。

 ずいぶんと好き勝手言ってくれる。

 学校の勉強なんてこれっぽっちも楽しくないし、体育などでは気合だの根性だの理に適っていない妄言を正義と押し付けられるし、個性より同調性を尊ぶ精神の温床に放り込まれているような吐き気しかない。

 学問を突き詰めるのは好きだけれど、学校という場所は嫌いだった。

 モラルレベルの低い同年代に囲まれ、普通にしているだけで兄を引き合いに出され、くだらない見栄のための出汁にされ、教員からはモンスターペアレントの子=「厄介」のレッテルを張られ、何をしても何を言われても疎まれる。

 私にあまり興味を示さない兄たちはどうでもいい。彼らは正しく努力し、正しく生きているだけだ。何も悪くない。

 だが、母は違う。二言目には「大丈夫、できる」と呪詛のように唱えてくる。自分の見栄のために私を使い、兄を使い、父をも使う。

 自慢は家族だと?

 ひとたび自宅に入ればまともな会話もしないし家事すら少しずつ私に押し付けてき始め、唐突に出かけては翌朝帰ってくるような貴女の口から出る言葉ではないよ。

 高校の入学式の保護者席で母がそう言っていたと聞いた時、怒りで気が狂いそうだった。

 これまで何度私が私を殺してきたと思っている。

 未成年という制約だけで親に飼育される怒りを押し殺してきたと思っている。

 私の姿を見ながら、その奥で完成形である兄たちを見ていたのを、私が知らないとでも思っているのだろうか。

 私の味方は、いつだって父だった。

 いつも朗らかで、私を見てくれる。兄たちと比較することなく私を客観的に評価してくれる。

 甘えれば極力応えてくれる。

 失敗すれば励ましてくれる。

 間違えれば叱ってくれる。

 どんなに苦しくても、辛くても、悲しくても、怒っていても、話を聞いてくれる。

 そんな父が、大好きだった。

 休日に色々なところに連れて行ってくれた。

 博物館や美術館、コンサート、個展、川、海、山等々……

 家では基本的に自室に閉じ籠るばかりだった私に、たくさんのものを見せてくれた。

 口では「知見を広めなさい」なんて言いながら、声色は対照的に優しかった。

 勉強が目的であれば悔しいけれど母が横に付く自宅学習の時間の方が、緊張感があって捗ることは認めなければならない。しかし、学問以外の勉強について理想的だったのは言うまでもなく父だったろう。

 縋りついていた。

 私を肯定してくれる存在……だった(・・・)

「――っ!?」

 電気ショックでも受けたかと思うような勢いと共に私の意識は覚醒した

 呼吸ができない いや、呼吸の仕方が思い出せない

 酸素が欲しい

 視界が揺れるいや、回っているいや、いったい何が――

「大丈夫、落ち着いて。ここには僕と君しかいない。君を阻む人はいない」

 どこからか声がしたかと思えば、ガサガサという煩わしい音と一緒に何かに口をふさがれる

 それは乱れたテンポで収縮と膨張を素早く繰り返す

「さぁ、ゆっくり……ゆっくりと息を吐いて、吐ききったらゆっくり吸って……」

 ゆっくりと言われたって、苦しい

 吸わないと酸素が足りなくて死んでしまいそう

 吸わなきゃ

 吸わないと

「大丈夫だよ。十分吸えてるよ。ハルちゃん」

 その声は数秒だか数分だか数時間だか、私の頭に響き続けた

 幾度も呼ばれ、ハルというのが私を指している愛称だと理解する頃には思考が追いついた。

 視界が回復してきた。

 口元に添えられていたのはビニール袋。ガサガサと煩わしい音を立てていたのは、私の荒い呼吸をこれが受けていたからだと知る。

 ダンゴムシのように丸めて固まっていた体を、少しずつ広げ、背筋を伸ばす。

 ビニール袋の動きが落ち着いたと見たのか、すぐに口元から外れ、心地よい空気が肺を見たし始めた。

 私でもわかった。今のは過呼吸だ。

 まだかすかに残る指先の痺れはその弊害だろう。

 いまさらながら今いる場所を確認するために眼球だけ動かしてみる。

 視界の左端に駅が見える。私は駐車場の止め石に腰を下ろしている。

 ギリギリ日陰だからまだ朝の肌寒さが残っている。

「落ち着いたかい、ハルちゃん」

 優しく響く声に顔を上げる。苦笑している秋風さんが横に停めていた車にロックをかけて私に手を差し出してくれる。ゆっくりと手を伸ばして、支えてもらいながら立ち上がる。

 すごく、心配をかけてしまった。

「あ、あの、すみま――」

「さて、お楽しみのワッフルだ。さっそくお店に入って腰を落ち着けようか」

 私が何を言う間もなく強引に手を引かれて、目の前のお店に突撃した。

 そうか、丘を出る時に話していた駅前のワッフル専門店の駐車場だったのか。

 店に入った途端、あまい香りが鼻孔をくすぐった。

 たまたまなのか、店の奥の角席に案内されてようやく楽な姿勢で座ることができた。

「モーニングセットふたつ、食後にコーヒーでお願いします」

 水を持ってきた店員さんにさっと注文を済ませた彼は、店員さんが離れるまで何食わぬ顔で水を飲んでいた。

「目がいつも通りの動きに戻っている。自分でグラスを持って水も飲めている。もう大丈夫だね」

 大きく息を吐いた秋風さんはにっこりとほほ笑んだ。

「君のことだからもう自覚できているだろうけど、ここに着いて起こそうとしたとき、君の過呼吸が始まった。ちょっと迷ったけど、ビニール袋を当てさせてもらったよ」

「あの、本当にありがとうございました……」

 どうして、と聞かないんですか。

 そんな質問は無駄だと直感した私はなんとか飲み込んだ。

 彼はそこまで踏み込むような人ではない。

「君のプライベートについて詮索する気はないよ。ただ、人間は自分の中に溜め込むのにも限度があるよ。食べる、寝る、好きなことに熱中する。そんなことをすればある程度は気が紛れるとはいえね」

 しんみりと言いながら、私が一瞬で飲み干した水のグラスに追加の水を注いでくれた。

 目が覚める直前に見ていた気がする夢はもう思い出せない。

 それでも、過呼吸を起こしてしまうほど強いストレスには心当たりが実はない。

 もちろん母は煩わしい。悩みの一つではあるものの、強烈なストレスを感じているわけではないはずだ。

 それ以外のストレスなんて、正直見当もつかない。

「お待たせしましたー」

 私が悶々とし始めたにも関わらず、彼は何も言わなかった。

 一方で現金な私のお腹は、沈黙を破って現れたワッフルのプレートを目にした途端自己主張を始めるのだった。先ほどまでの考え事は一瞬で霧散する。

 恥ずかしい音をまさか二度も秋風さんに聞かれることになるとは思わなかったけど、今は羞恥より食欲が勝る。「いただきます」を彼と唱和してさっそく一口ほおばる。

 あつあつでザクザクな表面が割れ、内側の生地が控えめな甘さと共に舌を滑ってゆく。

 目の前の彼と目が合い、満面の笑みをお互いに見せつける。

「美味しい!」

 噂に違わぬこのクオリティ。

 プレーンなのにこんなに甘くていいのか。他にフレーバーはチョコとかブルーベリーが推されているけど、未知数だ。手が出ない。太る。ゼッタイ。

 白い楕円の平皿に、シャキシャキのサニーレタスとスライスされた紫玉ねぎ、パプリカが、炒めてカリカリになったベーコンと和えてあり、すこしオリーブオイル(だと思う)がかかっている。

 正方形で小さいけど厚みのあるワッフルが二枚添えてあった(というのもすでに一枚はお腹の中だから)。

「噂に違わぬ幸せプレート……!!」

 息つく間もなく、ペロリと全て胃に収めた。

 とても満たされた。最高。これはしばらくハマるぞ。SNSで拡散される前にリピートしておかなくちゃ。

 椅子の背もたれに身体を預け、大きく息を吐く。正面で満足げに微笑む秋風さんは店員さんに食後のコーヒーを出してくれるようお願いしていたけれど気にしない。

 今だけはこの朝食の余韻に浸っていたかったから。

「コーヒーお持ちしました。こちら、よろしければお使いくださーい」

 目の前にカップとミルクが置かれる。

 真っ白なカップに注がれているそれは、淹れたてだった。

 喫茶店で長いことバイトしている身としては、見ればある程度濃さはわかるし、メジャーなものであれば香りで味の特色をある程度言い当てることもできる。舞さんの豆への意外なこだわりの賜物だ。

 すかさず手にして香りを嗅ぐと、どうやらコクは軽めのものらしい。ワッフルのような軽い触感のものに合わせるのが定石とは思うがちょっと面白みに欠ける。

 もしかしてモーニングセットだからなのかな……?

「気持ちはすっかりリセットできたみたいだね」

 私の表情がよほどご機嫌な様子に写ったのか、彼は安心したようにコーヒーを口に含んだ。

 そうだった。ワッフルの余韻に浸るより先に言うべきことがあった。

「それじゃ、そろそろ行こうか。よろしく頼むよ、助手くん」

 けれども彼は、またもや私に言葉を紡ぐ時間を与えずに席を立った。慌てて残りのコーヒーを飲み干して追いかける頃には、会計すら済まされていた。

 それ以降も、ことあるごとに私から何か伝えようとするタイミングで綺麗にかわし続けられてしまった。

 仕事や普通の会話では何事もなかったかのように振る舞われてしまう。

 私に言わせたくない、という気遣いだと解釈するべきなんだろうか。

 結局この日の手伝いは滞りなくやり遂げ、自宅の近くまで送ってくれた。

 帰りの車内では眠気に襲われることも無かった一方で居心地の悪い沈黙が首を絞める。

 私の忙しない感情の変遷などどこ吹く風、とでも言わんばかりに秋風さんは自分のペースを乱すことは無かった。

 顧客との対話をそつなくこなし、重たい機材を軽々と運び、被写体となる人への配慮も丁寧。なるほど、個人なのに仕事に困らない訳だと納得した。

 同時にこれまで私が経験してきたバイトという目線での仕事と、社会人として従事する仕事はまったく別のものなのだとも漠然とした感覚として得ることができた。

 今私が考え、向き合わなければならない壁の先に待つ、新しい道のイメージが、少しだけ見えた気がする。

 今日秋風さんに言えなかったことは、私が私の道をきちんと決めた時にちゃんと伝えよう。そのためにも私はしばらくの間彼に付き添い多くを見て、自分と向き合おう。

 説き伏せなければならない壁を破り、私の選んだ私だけの道を始めるために。

 たった一日とはいえ衝撃と発見の連続だった今日に、私は興奮していた。

 家路を急ぐ足が、自然と歩幅を広げていた。

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