分離
私を、決めないで――
いかに面妖な出会いを得ようと、私の日常は揺らがない。
大学に行けば企業の説明会に行けだの、卒業論文の進捗は大丈夫かだのと周囲の人間は『みんなと同じ』を求めてくるばかり。
最初こそスタートダッシュを決めようと意気込んで馬鹿の一つ覚えのようにスケジュールを企業の説明会で埋め、真っ黒な手帳を見て満足することもあった。
けれど、それはもうやめた。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、というような考え方で取り組んではいけないとようやく思い出したからだった。
加えて、舞姫でのバイトに対するモチベーションが上がっていることもあった。
「最近気持ち悪いけど、どしたの?」
鼻歌を歌いながらテーブルセッティングやパフェの盛り付けなどをしていた私を、舞さんは不気味そうな目で見ながら小突いた。
そこまで音痴ではないし、パフェの盛り付けに関してはむしろ練度が上がっているはずなのだけれど。もしかしてよほど変な顔をしているのか私。
「悠が店に来てから、なんとなくテンション高い時間が増えた気がするのよね……もしかして? ねぇもしかして?」
呆れたような口調で、身振り手振りもわざとらしいけど、そういうのじゃないって事くらいはわかっているんじゃないかと思ってしまう。
というか、私がここでお世話になり始めた頃からこの人は全てお見通しなうえで演じているんじゃないだろうか。
今度は私の疑いの眼差しを感じ取ったのか、肩をすくめて奥に引っ込んでしまった。
綺麗に並べられたティーカップをタオルで磨きながら自分の内面に目を向けてみる。舞さんの指摘通りここでのバイトで最近テンションが高いとするのであれば、原因はやはり一つ。
癪だけど舞さんの言う通り、間違いなく秋風さんとの出会いだと思う。
この街で生まれ育った私とは違い、日本各地を見聞きしてきた彼の語る日本の姿や、彼自身の感性はとても興味を惹かれる。
日本各地の観光名所よりも、各地の商店街や公園、学校のような見慣れた場所にこそ人の在り方は現れる。人の在り方こそがその地に根付く歴史であり文化である。故にそういった場所で感じられる「美しいもの」は見た者の胸を打つそうだ。
世界のどんなに雄大な自然でも、どんなに華やかな景色でも、それだけでは人の経験に響かない。一方でいつもの街並みに、人は自分の記憶を投影する。
商店街の馴染みの店で買い物をしたときに少しおまけしてくれたこと。幼い頃に小ぢんまりとした公園のブランコで父に背中を押してもらったこと。学校の渡り廊下の先に広がる、夕焼けに染まる自分の住む街並みを目撃したこと。
それは観光で得られる思い出に全く劣らない大切な記憶。
美しいと思うということは、それがこれまでの経験が作り出した価値観に沿うものであったということだ。
彼の抱く写真家としての信条は、見てくれた人の人生に色を加える手伝いがしたい。ということだそうだ。
曰く、感動してくれたという事は、作品がその人のこれまでの記憶と何かしら共鳴するものがあったということ。もしくは、同じ「撮る側」の人間として感銘を受けたかのいずれかだという。
写真なんて、観て「綺麗だ」とか「いつか実際に行ってみたい」なんてことを思う程度で終わる印象でしかなかった。
当然、これまでに何度か父の付き添いで展示会等に足を運んだことはあるけれど、印象は変わらない。そのたびに父は困ったような笑みを浮かべてしまうだけだった。
だから、秋風さんのその話を先日聞いた時、小さくない衝撃を受けた。
当たり前になっているからこそ失いがちな観点だと思う。
大切なことは案外近くにいつも在るのかもしれない。
なんてことをふと思い浮かべながら、意識はすぐに来店した新しいお客さんへとシフトする。
「調子が良いと器用な子だね」
「基本的には何でも高水準でこなせる子よ。勉強はそこそこみたいだけど、頭の回転は速いし経験を行動に反映するのもほぼリアルタイム」
ただ感情にムラがあるのが目立つ、とも付け加えた舞さんと、苦笑する秋風さんの会話は私の耳には入らなかった。
その日閉店後の後片付けをしていた私は、舞さんに呼ばれてカウンター席に腰を下ろしていた。すでに他のバイトメンバーは帰ってしまっていたことで、店内の静寂が耳に痛い。
こんな機会はなかなか無いな、と思う。というかとても久しぶりの状況だろう。改めて店内を見渡せば、そこかしこにこの店の歴史が垣間見えてきた。
私がバイトを始めた頃はピカピカだったテーブルたちも端が捲れ、薄い疵も増えた。
窓際に並んでいる造花や時計たちも埃でうっすらと白んでいる。これは日々の掃除の意識が低下し始めている私たちの責任なので、近いうち掃除の方針を見直さねば。
カウンター席だって、場所によっては椅子の色が違っていて、誰かがよく座っているところは擦れて色を失いつつある。
床の木目も汚れや湿気、疵で昔のような美しいダークブラウンの輝きは褪せている。
逆にカウンターの奥の食器棚には、開店当初の数倍もの食器が犇めきあっている。
何でもかんでも大雑把に片づけている舞さんが収納に苦しんでいたのを思い出して、ちょっと可笑しい。舞さんに車を出してもらって、休日にホームセンターに収納グッズを探しに行ったり、他の喫茶店に偵察という名のお茶会に行ったり、気が付いたら関係のない店で私物の買い物を始めたりもしたっけ。
これまで普段気にしてこなかっただけに、店内の雰囲気もずいぶんとくたびれてきたような気がして、急に全てが愛おしく思えてきた。
最初は家にいる生き苦しさ(・・・・・)から逃げるための場所だった。すべて気に食わなくて、すべてが私に「なにか」を強いてくるような、体中を舐めまわすような気持ちの悪さしか感じられなかった家から一分一秒でも離れるための場所。
でも、ここで日々試行錯誤しながら積み上げてきた私の価値観を、舞さんは会話の度にいつもただ黙って聞いてくれて、「そんなもんよ」「とりあえずやってみれば正しいかどうかわかる」なんて言葉で肯定してくれてたっけ。
そんな救われるような時間も、もう長くはない。
舞さんが見守っていてくれる時間は、終わりが見えるところまで来ている。
「どーしたの。一人居残りがそんなに辛かった?」
センチメンタルな空気にほだされていた私を、本当にいつも通りの声色で舞さんが覚醒させる。私はそんなに辛そうな顔をしていたのだろうか。
長く、深く息を吐きながら私の隣に座った彼女は、私と同じように店内をぐるっと見渡した。そして小さく笑った。
「この店、改めて見るときったないわねぇ。ついこの間まで新品だったような気分なのにさ。ハルがバイト第一号で来てくれたのが懐かしいね」
少し疲れたような肩の落とし方を見せた彼女の言葉に頷きそうになった時、あの頃は本当にたどたどしくて可愛かった。なんて付け加えるのだから、あやうく仰け反るように転げ落ちてしまうところだった。
いやぁ、と頬を掻いてはみるものの、思い出すだけで顔から火が出そうだ。
はじまりは、今からだいたい六年前の春。
高校一年にもなって母にべったりくっつかれていたフラストレーションが溜まりに溜まっていた頃。最寄り駅前で開店を公告するビラ配りをしていた舞さんに声をかけられたのが始まりだった。
可愛い。好き。うちでバイトしてくれ。
初対面の相手にあるまじき態度で私をスカウトしてきたのだった。
でもその時の私は、先の通り母に粘着されていたのが嫌で仕方なかった。家の居心地の悪さを含め、バイトを始めれば数時間でも母(家)と離れられる時間が増えるではないかと考えた結果、さほど迷いもせずその場で承諾した。
結果だけ言えばそれは大正解だったのだけれど、バイトを始めるにあたり、両親への説明をしなければならなかった。
しかし、諸々の懸念は霧散することとなる。
兄たち同様、私が自分の意思で何かを始めるという事に対して父も母も一切ストップを出さなかった。むしろ「遂に」なんて言いそうな勢いで笑っていたのであった。
これにより非常に不本意な結果ではあるものの、私のバイト生活があっさり始まった。
最初の頃の私は、本当に酷かった。
バイト事体が初めての経験であり、かつ接客なんてこれまでサービスを享受する側の感覚でしか知らなかったこともあって、何をすればいいのかが曖昧過ぎたからだ。
意識していなければ、お客様の来店や退店の際の挨拶を忘れる。作業することにばかり気を取られ、お客様の呼びかけに空返事し、お会計の際には緊張で手が震え、少し忙しくなるだけでオーダーを間違え、より一層テンパって次に運ぼうとした珈琲が宙を舞う。あまりにも無残な私の働きぶりにも関わらず、舞さんは叱るのではなく、いつも真剣に諭してくれた。
相手は同じ人間なのだから、失敗したってそれが故意でなければ大抵何とかなる。
謝れというのなら頭を下げるのは私の仕事。何とかしろと言うのならなんとかするのも私の仕事。やってやれないことは無い。
舞さんはいつだってそう言ってニカッと笑うのだった。
一度だけ、そんな彼女が本気で私を叱ったことがある。
それは、私が舞姫でのバイトを始めて半年ほど経ち、よほどのことが無い限り大きなミスをしなくなったいわゆる「慣れ始め」の頃だった。
私の仕事ぶりに小さいがクレームが入ることが増えた。
内容は「一つ一つの動作で気が散る」というようなことだったらしい。
閉店後に舞さんと対面した時に見た、とても険しい表情に全身が緊張したのを今でもはっきりと覚えている。
「どうしてクレームを受けているかわかる?」
その時の私は、問題なく作業をこなせていると思っていた。事実、作業そのものに問題は何もなかった。問題は別にあった。
「ハル、この場所で大切なことってなにかな」
それまで私は、接客業というものを正しく理解できていなかったのだった。
悩む様子の私を見て舞さんはゆっくりと息を吐く。
「この店が提供しているのはドリンクと料理だけじゃないんだよ、ハル」
瞬時に、理解した。
言われれば気付く、当たり前という落とし穴。
ここは喫茶店という括りになる。私たちは、大前提としてお客さんがゆったりとくつろげる空間も合せて提供しているんだよ。と舞さんは続けた。
彼女がまだ本題を言葉にしないのは、きっと私がそれだけで理解できる人間であると買ってのことだろう。無論、その信用には応えられる。
私の作業には「ノイズ」が多かったんだ。
歩き方が雑だった。
食器の扱いが雑だった。
提供物の扱いが雑だった。
半端な気配りをばらまいていた。
そしてなにより、「たかがバイトだ」と仕事をなめていた。
私が思考を張り巡らせている様子を察知し、満足げに舞さんは頷いていた。
「やっぱり私、ハルのこと好きだよ」
彼女の言葉が、私の胸を強く打った。
私の全てを、正面から見てくれる。
私という個人を、肯定してくれる。
私のことを想って、叱ってくれる。
久しく失っていたように思う満ち足りたこの感覚に、目頭が熱くなるのを感じる。
嬉しいような、寂しいような、情けないような気持ちでいっぱいだ。
ごめんなさい、という言葉は紡がなかった。
謝罪すべき相手は舞さんじゃないから。
私がこれまで、無自覚に不快にさせてしまっていた来店した人みんなに対して伝えるべき言葉だったから。
でも、一度与えた不快感は拭うのに時間がかかるだろう。
もう二度と来ない、と思った人もいるだろう。
だから私がすべきことは決まっている。
「教えてください。優しい人になるためのヒントを」
舞さんはただ私を見てほほ笑むだけだった。
涙は最後まで零れなかった。
今、舞姫での思い出が走馬灯のように駆け抜けた。
あの日と似た立ち位置で、私は舞さんと向かい合っている。
私は、あの日からちゃんと成長出来ているだろうか。
目の前の恩師の信頼に応えられているだろうか。
胸を張って自慢するに値する人間に近付けただろうか。
愛おしそうにカウンターを撫でる彼女は、とても寂しそうに見える。
「この店、私の夢だったんだ。ずっとずっと胸に仕舞ってた憧れの塊」
珍しく、自分のことを口にした。
でもやっぱり、それ以上を語る気は無いらしい。
誤魔化すように深呼吸して、視線だけが私に寄る。
「最近さ、この店に来た頃みたいな顔する日が増えたんじゃない?」
返す言葉が、見つからなかった。
言葉こそ問いかけるようだが、その声色はもはや断定的だった。
私の沈黙を肯定と受け取った彼女は、顎に手を当てて考えるしぐさを見せた。
出会った頃から、この人の考えはまったく読めない。いつだって私の想像を簡単に超えてくる。理屈じゃない価値観に突き動かされて生きているように見える。
いったい何が、彼女をそうさせるんだろう。
彼女が持っていて、私が持っていないものはなんだろう。
深く思考の海に沈みそうになる私を他所に、しばらく悩んでいた舞さんはスッと顔を上げたかと思えば、私に向かって親指をグッと立てた。
「決めた。しばらくバイトに来なくていいよ」
「クビ、ですか」
ああん、と頭を抱えてのけ反ったこの人は、刻々と雰囲気や表情を変える。
いつだって忙しなくて、いつだって思い付きで動いて、いつだって楽しげだ。
そして首がもげるのではと心配になる勢いでかぶりを振っている。
「店に来る代わりに、悠の仕事を手伝ってほしい。今のハルにとって、きっと良い経験になるはずだから」
言い切った直後、数刻の沈黙が私たちを隔てた。
声色はいつも通りで、楽しげだった。けれど、私を見るその目は本気だ。
むしろ、それは決定事項だと目で語っている。
―― また、他人に決められた道を征くのか ――
そんな言葉が脳裏を過る。
誰とも言えない暗くて冷たい、濁った感情。
けれど、父でも母でも兄たちでもなく、だれでもない舞さんの『提案』だ。
どんな経緯でその提案を思い付いたのかはわからない。もしかしたら面白半分で新天地に放り込んでみようと思ったのかもしれない。はたまた、何か得られる打算の下秋風さんに私を託すのかもしれない。いずれにせよ可能性への想像が追いつかない。
ただ、こういったことを伝えられるかもしれないとは何となく察していた。
今日、店を閉めた後の片付けの時に私だけ残ってくれと声をかけられたのが全てを物語っていたはずだ。
普段臆することを知らない舞さんが、私の事情を、状況を知っているはずなのにあえて私を呼びだした。誰か居ては話しにくいのか、私への配慮なのか、人払いを望んだ。
相手にとって無視できない影響を生む何かがあると。
今の私にとって、影響が最も大きいとすれば、人間関係の変化以外にあり得ない。
結果、さっきの提案がもたらされた。
付き合いは決して短くはない。
舞姫の開店当初から二人三脚でここまで来たようにすら思う。お互いに足りない発想や経験を合わせて問題に立ち向かってきた。それはもはやただの雇用者と被雇用者の関係を超えているように思う。
私にとって姉のように慕ってきた人が、新天地へゆけと道を示してくれた。
それを口にする直前に見せた店を慈しむような、何かを手放す寂しさのような感傷に気付かないはずがない。
その瞬間をいくら取り繕っても、本音が見えてしまう。
思い出せば思い出すほど、もどかしい想いに駆られる。
静寂を纏った店内を見渡して、お互いの横顔を視界の端に映して。
きっと抱いた思いは同じだっただろう。
きっと、とてもさびしくなるなぁ、と。
あたりまえがあたりまえではなくなるのだから、それは恐らく自然なイメージ。
でも、遂に来たんだ。
お互いにお互いから巣立つ時が来たんだ。
だから、返す答えは決まっている。
「そっか……よくわからないですけど、私、やってみます!」
言ってから気付く。
答えは六年前、初めてのバイトを決めた時と同じ言葉だったという事に。
舞さんは、面食らったように左手で目元を隠して俯いた。一方で口角は上がり、肩が小刻みに震えている。
時間にして数十秒、体感にして数分。
すすり泣くような笑い方が収まった舞さんはようやく顔を上げた。
「じゃ、そういうことで。悠には伝えてあるから、明日は普段通り店に来て。そこで悠と合流したら後はあいつにに任せればいい」
それからはあっという間で、片付けが終わって店をあとにする。
もはやそれ以上の会話は不要、とでも言わんばかりの切り替え方。
それでいい。
きっとこの時私たちはそう思っていたに違いない。
ただ主に組む相手が舞さんから秋風さんに一時的に代わるだけだ。
舞姫にはこれまで通り顔を出せばいいだけだし、いずれは客として訪れるかもしれないのだから、今生の別れとも程遠い。
そう言い聞かせて、帰路に就く。
「頑張れ、春奈」
感情をこらえるのに必死だった私は、願いに似たそのエールを記憶に刻み込んだ。
舞姫が見えなくなる最初の曲がり角まで、振り返ることはしなかった。
それが、私の決意表明だと、舞さんはきっとわかってくれると信じて。