焙炒
私は、どうしたいのだろう――
ほろ苦い香りに包まれながら、小ぶりなミルクレープをカウンター席へと運ぶ。
お客さんの邪魔にならないよう意識して足音を抑える歩法も、最小限の物音で食器を扱う所作も、今ではすっかり身についた。
連日の強風で季節感を失った桜の青々としている様子が、窓越しに窺える。あと半月もすればやってくる大型連休に世間は浮足立っている。とはいえそれだけで日々の生活に変化が生まれるなんて言うことは無い。毎年のことながらちょっと残念だ。
私のバイト先であるここ「甘味処 舞姫」は、今日もいつもと変わらない静けさを保っている。
ここは甘味処として看板を出しているが、正直、甘味処としての和のテイストは薄く、舞姫の要素も無い。ここに来る度になぜ命名時に誰も突っ込まなかったのだろうか。などと考えていたりする。
「毎年毎年、就職難とはここ最近の学生は努力が足りとらん。そうは思わんか……おっとっと、春奈ちゃんも学生だったっけか」
ミルクレープを置いたタイミングで読んでいた新聞を閉じた常連の山路さんが、その静寂を破る。
私にとってタイムリーな話題だっただけに正直触れてほしくない部分だった。苦笑しつつ舌打ちを我慢するのが精一杯でなんだか情けなくなる。けれど私の唇は意に反して言葉を紡ぐ。
「仕事を選り好みするから就職活動で失敗するってことですよね。それ、偏見だと思います。むしろ若いうちに多くの業界業種を見て、自分の身の置き方について考える大切な時間です。選択することを許さないのは可能性を否定することと同じだと思います」
言い放って直後、ハッとして口を手で覆った。苛立ちを抑える方にばかり意識が向いてしまい、うっかり「軽率に人に意見する」という悪癖が出てしまったことにすぐ気付いたからだ。
一瞬ポカンとしていた山路さんだったが、気付けば頭をポリポリ掻きつついつものニカッとした笑顔を見せていた。私の(お客様に対する)軽率な発言を不快に思わなかったのだろうか。
けれど山路さんは楽しそうに、それでいて今度は苦々しい笑みを見せた。
「春奈ちゃんは思ったことを真っ直ぐにぶつけてくれるから、つい意地悪したくなるね。でもそれは深読みだよ。私は仕事を選り好みすることについてはむしろ大いに取り組んで欲しいと思っている。問題は自分の希望や目標に対して努力しきれずに終わってしまうことだ、と言いたかったのさ」
その表情に、なんだか胸が締め付けられるような、舌を噛み切りたくなるような衝動を覚えた。
『問題は自分の希望や目標に対して努力しきれずに終わってしまうことだ』
ふと、今の言葉が頭の中で響く。
私は、私自身のことについて本当に自己理解ができているのかな。
私は、胸を張って「全力で取り組んでいます」と言えるのかな。
私は店員の立場として再度謝ってからテーブルを離れた。
それからは特に言及は無くて、私も言葉が見つからないまま時間が経過する。
いつものようにまばらなお客さん。
常連と井戸畑会議を展開する店長。
流行で会話の花を咲かせるバイト仲間。
その中で私は、独りだった。
「ハル、そろそろ上がっていいわよ」
店長の舞さんが人懐っこい笑顔で時計を指差しながら私を呼んだ。
舞さんは人の名前を覚えるのが苦手らしく、基本的には相手をあだ名で呼ぶ。
私の場合、春奈だからハル。
時計を見ると、確かに終わる時間の十分前だ。このあとは家に帰って母という家庭教師との勉強が待っている。
すぐに片付けをして、ロッカールームで着替えを済ます。荷物を持って出ようとした矢先、また舞さんが顔を出した。
「明日いつもの時間にシフト入ってるよね? あたしの古い知り合いが来るから、来た時にあたしが留守にしてたらその間相手してやってー」
いつだって唐突に現れては伝えたいことだけまくし立てて去ってゆく。
あの人はもやは嵐だ。
けれど、彼女の言動が意味不明であることは毎度のことなので特に気にならない。
でも、その予定が後の私に大きな影響を与えるきっかけとなることなど、この時は思いもしなかった。
☆ ☆ ☆
家に帰るのは憂鬱だ。
帰っても労われることは無いし、勉強を強いる無言のプレッシャーが家の中に満ちている気がしてならない。酸素の供給を許さない水槽に投げ込まれる魚みたいだ。
勉強が嫌いというわけではない。勉強が苦手というわけではもっとない。
ただ単純に自分の行動に対して強制的な介入を受けるのがたまらなく嫌なんだ。
勉強は言われなくてもやるし、成績だってテストの点数だけ見れば学部で上位には入っている。
特筆するほど優れているわけではないけれど、恥ずかしくて人に言えないような振る舞いはしていないというのに何が不満なんだろうか。どうしていつも私の努力を否定するところから会話が始まるんだろうか。
「予習復習はやってあるでしょうね」
愚問だ。毎日毎日小馬鹿にしたような母の口調も、視線で詰られるのも腹が立つ。
そのくせ、就職活動で企業を調べたり、大学で行っている合同説明会などに参加して至った結論は「座学はほとんど意味が無い」だった。
採用担当者はその人の学歴ではなく人を見ている。その人がどこまで自分で考えて行動を起こせる思考力、行動力、決断力を持っているのか。
その人がどれほど柔軟な思考でもって周囲の人間とコミュニケーションを図れるのか。
その人がどれほど自分自身について理解できているのか。
高学歴が有利とよく聞く。けれど結局のところそれらが身についている学生というのが必然的に高学歴の学生に多いという統計的な話だ。中学高校の頃から自分のやりたいことや目標が決まっていて、そのために努力することの大切さを知っている。成功するための行動力と試行錯誤を継続する忍耐を持っているのであれば学問的な知識量等は実はあまり意味が無いと思う。
母のみならず、家族全体に対しての嫌悪感を燻らせながら母作のテストを消化する。
政治家がそんなに偉いのか。
医者がそんなに偉いのか。
大企業の優良営業マンがそんなに偉いのか。
目の前にいる元医者の母は能面のような無表情さでテキストを読み進める。
直接医者になれ、政治家になれ、エリートになれと言われたことはない。言われたところで私の今の力では叶いもしない。でも地元のベテラン市議会議員である父、元医者の母、現役医師の兄、エリート営業マンの二番目の兄と家族なのかと思うたびに私の存在価値が、私の未来がすでに決められているのではないかという恐怖を覚える。
でも、私には夢も目標も明確なものは何も無い。ただ新しいことを学ぶのが好きという一点で勉強をしていただけに過ぎない。家族に対して誇れる志なんて無い。
だから自分の行く先さえ見えず、就職活動でも明確な方針が固まらない。
私は、何がしたいんだろう。
「春奈? あなた顔色が悪いわ。調子が悪いなら言いなさい。言っておきますがバイト後で疲れているのは理由に――」
「バイトは関係ない。私のバイトに対しては口出ししないって約束くらい守って」
反射的にピシャリと言い放った私の顔はよほど不機嫌だったのか、それ以降母は何も言わず授業を続けた。
あの店でのバイトは、私が私でいられる貴重な場所だ。外野にとやかく言われる筋合いはない。
それがたとえ、独りでしかいられない場所だとしても。
「……休憩がてら、話を変えましょうか。何をやってみたいのか少しは決まったの?」
先ほどから私の様子がやはり気になるらしく、母は少し息を吐いてペンを置き眼鏡を外した。母は仕事以外では眼鏡を外す習慣がある。ある意味「本当に休憩よ」と言われているようなものだった。
でも、その話題はやめて欲しかった。
「まだ決められてない。でも、やることはちゃんとやってるし、成績だって――」
つい声が大きくなった私を母は手で制した。
珍しく、彼女は苦笑している。
「ただどんな状態なのか気になっただけよ。貴女がやるべきことをきちんとこなしていることはわかっています。就職活動は人生の中で最初に訪れる大きな課題。やるからには自分が納得できるようにやってほしいと思っています。悩むのも自由。だけど、時間は有限よ。いつか必ず訪れる決断の時に迷わないように、うんざりするほど悩んでうんざりするほど疲れなさい」
ギョッとした。
ふいに見せた穏やかな目をした母を私は、初めて見たような気がしたからだ。
冷静で、冷徹で、厳格で、無感動な人だとずっと思ってきた。
課される課題を判定して、客観的な評価を私に下し次の課題を与えてくる人だった。
私の要求を理屈でねじ伏せ、泣きも笑いも怒りもしない人だった。
こんななんでもない日に、母に対する印象が揺らぐなんて想像もしていなかった。
私が唖然としていることに気付いたのか、母は咳払いをしながら眼鏡をかけた。
「今日はもうおしまいにしておきましょう。明日、テキストの次ページから始めますから予習をしておくように」
私に何も言うタイミングを与えること無く、母はそそくさと部屋から去っていった。
「え、なに、なんだったの……」
☆ ☆ ☆
「いらっしゃいませー」
翌日、なんとなく気合が入らないままの私は、舞姫でいつものようにバイトに勤しんでいる。そんな私に喝を入れてやるとでも言いたげにまた店の扉は開いた。
気の抜けた挨拶をしつつも入り口に立ったままの男性客をカウンターに案内したのだけれど、彼がついてこないことに気が付いた。意外とアンティーク物が多いうちの店は、内装に見惚れて足を止める客も時々いる為、ついてこないことは珍しくはなかった。
「お客様、どうなさいました?」
よく見れば長身で、長い髪を一束にまとめている穏やか(気弱そう)な男性だが、なにやら店内で誰かを探しているらしい。
そこで昨日帰り際に舞さんからの伝言を思い出した。
「もしかして、舞さんの知人の方でしょうか」
すると(話が通っているのだと)合点がいったように彼はニッコリと微笑んで頷いた。
「知人というか、幼馴染なんですよ。先日近所に越してきたのがバレて、挨拶に来いと呼びつけられましてね。まさか喫茶店を営んでいるとは思いませんでしたが」
ですよねー。と心の中で同意しつつ、とりあえずカウンターに案内する旨を伝える。
舞さんは自身の予想通り、今インテリア雑貨の営業マンと打ち合わせに出て席を外している。
どうやらこの男性にも不在の旨は事前に伝えていたらしく、スッと腰を下ろした。
「もしかして、君がハル……さん?」
珈琲を差し出した際に、呼び止められた。
まぁわざわざ伝言を頼んだくらいだし、私のことを伝えていてもおかしくはない。
彼の言葉を肯定すると、また柔らかく笑んだ。
「ここの看板娘だって聞かされていたからね。なるほど、舞が気に入るのがわかる」
とても穏やかで優しく、それでいて低く響く彼の声に、引き込まれそうになる。
それにしても『看板娘』とはずいぶん私を買っているのか、はたまたバイト歴最長をからかって酒の肴にするつもりなのか……。しかし、舞さんが気に入るとは――
「それってどういう意味でしょう?」
「ふふ。舞曰く、雨に濡れて震える迷子の可愛い子猫ちゃん、だそうだ」
今度は困ったような顔で彼が答えを口にする。ゆるくハの字に開いた眉は、「なんじゃそりゃ」というまるで私の感想を代弁しているかのようだった。
その例えは不快ではないのだけれど、褒められているわけでもないと思われる。
一息ついた彼の追加注文を取り、淹れたての珈琲を再び運びに行く頃には、彼はすっかり店内の雰囲気に馴染んでいて、初めて来店したとは思えないほど自然な佇まいを醸し出していた。
この人はいったい何者なのだろう。
基本的に思考がお花畑の舞さんの幼馴染というのだから、さぞしっかりしているのかと思えば、会話を重ねるうちに、私ですら知っている流行に疎く、日々の過ごし方に法則性が薄く、定職に就いている様子もない。
自分が何者になりたいのかわからないまま、ただ安定した仕事に就いて日々を消化していく将来を得るのだろうと漠然と思い浮かべてこの頃を過ごしている私と比べると、雲泥の差と思える。
社会の常識(という名の押しつけがましい固定概念)に囚われず、日々己の直感や感覚に従ってその日暮らしをしているその様子に、少し胸が軋んだ。
仕事を忘れて彼との会話に花を咲かせ、矢継ぎ早に質問を繰り出す私の様子が何よりも『私』を物語っているというのに。
「ハル、戻ったよ……って、悠、あんたもう来てたの」
勢いよく開いた入り口から入ってきたのは、ちょうど話にあった舞さん本人だった。
いつも通りぱあっと明るい笑顔だったが、私の正面にいた彼を見た途端、呆れたような笑顔に変わった。
「呼びつけておいて平気で人を待たせるスタンスは相変わらずじゃないか、舞」
軽口を叩きあう二人に完全に置いて行かれたので、思い出したように仕事に戻ろうとしたとき、彼女が私を呼び留めた。
「ハルのことだから、話に夢中でまだこいつの名前も聞いてないでしょ。自己紹介から始めよっか。悠、お願い」
「そういえばそうだね。改めて、僕は秋風悠。気付けば趣味が仕事になった、フリーのカメラマンだ」
二人に指摘されて、自分が自己紹介もしていなかったことにいまさら気付かされた。
うっかりしていた自分に対する恥ずかしさと、失礼を気にせず会話を続けてくれた秋風さんへの申し訳なさ、当然のように私のフォローをしてくれる舞さんへのありがたみなどから、耳が熱を持ち始めているのを感じる。
「失礼しました! 私、望月春奈です。一応、大学四年で就活中です」
穏やかにほほ笑む彼を前に、照れくさくなって頬を掻いた。
それが、秋風さんとの出会いだった。