9話 勉強しよう
僕、有影シオリがヒュルックの街に着いてから、三ヶ月が経過していた。
今、僕はこの世界、ムンダスで最もポピュラーな言語、大陸語の勉強をしながら、ドルタスさんの紹介で、ドルタスさん行き付けの大衆酒場で皿洗いの仕事をして生活していた。
この世界で僕は、シオリ・アルハイドと名乗って生きている。アルハイドとは元々は師匠が悪ふざけで苗字の有影をもじって影の部分を英語に変えただけの稚拙なあだ名だったが、有影よりはこっちの方が呼びやすいようなので元は自分で言い出した手前、僕もそれに納得して自分から名乗っている。
別の世界で生きていた僕には身分を証明する物が全く無かったので、とりあえずセリエさんの勧めで冒険者ギルドで発行した、簡潔に名前と年齢だけを記載した証明書を使っている。一応、僕は冒険者という身分になるがまだ一度も冒険者としての活動はしていない。
なんと、セリエさんは実は王国の公的機関である王家騎士団に所属していて、この街を担当する中隊の団長を勤めており、ドルタスさんはその副官だと言う。今はこの街に腰を下ろしているが、二人は古くからの付き合いで、いつもセットで各地の戦場を飛び回ったりして活躍していたそうだ。
安宿に居を構える僕の元にセリエさんは多忙にも関わらずちょくちょく顔を出しては僕の言語の勉強に付き合ってくれる。彼女が日本語を少し扱えるのが功を奏してか、僕は三ヶ月と言う短い期間で大陸語の会話が可能になってきていた。文字も単語程度なら大体は読める。もう酒場の先輩に言葉が通じないせいで怒られることも少なくなった。
この世界に来る前に飲食店のバイトをしていた経験があるとは言え、未来とは全く環境が違うせいで殆どが初めての経験に右往左往して落ち着きの無い僕は何度も怒られては挫けそうになったが、ドルタスさんがほぼ毎日僕の様子を見に仕事の合間に顔を出しては労いの言葉を掛けてくれるおかげで、僕はその度に元気付けられて頑張ることが出来た。ドルタスさんの名前は有名なようで彼が懇意にしている僕を意地の悪い先輩が無茶な指示を出すことも少ない。
何故か二人はやたらと僕に気を掛けてくれる。派遣帰りの途中で偶然拾っただけの見ず知らずの僕を。街に着けばそこでサヨナラのはずだったのに、生活に必要な知識と仕事を与え、遠くから暖かく見守り、時には勉強に付き合い、時には励まして、文化や環境の違いに挫けそうになる度に僕が折れないよう影から支えてくれている。
二人にはとても感謝している。本当なら僕が一人でこの街まで辿り着いたとしても、何をしていいかもわからず、言葉も通じず、この世界の常識など無い僕を雇ってくれる場所など無くてすぐに飢え死にするか、街の外で野垂れ死んでいたはずだ。いや、そもそもあの森で化け物に食い殺されて朽ち果てていたはずだったのだ。それを二人が助け導いてくれたおかげで、僕は今も生きることが出来ている。二人には返し切れない程の大恩が出来てしまった。
どうやってこの恩を返していけばいいか分からないが、取り敢えず今は頑張って生きて、死なないことで少しずつ二人に恩を返すだけだ。今はそれで少し返してもそれ以上に大きな恩が出来るだけだが。
さあ、今日も頑張って勉強してお仕事をこなして二人に恩を返そう。
1
「アルハイド! アルハイドォ! ちょっとゴミ出してこい!」
「はぁーい! 今行きまーす!」
時は夕刻。街灯に火が灯り、仕事帰りの人やこれから仕事の人、特に何もすることも無いがブラブラと歩く人で道の人通りも多くなってくる時間帯。
今日もシオリは酒場の皿洗いと雑用に精を出していた。最近は少しずつお客さんに出す料理の作り方も教わっていて、調理場の一ポジションに付けられる日も遠くは無い。
調理場の意地の悪い先輩が大声でシオリに指示を出す。この先輩は言動が少しアレで女癖も悪く品性も下劣だが、仕事は出来るので調理場の責任者としての立場を任されている。調理場の新人が育つ前に辞めていく理由は大体がこの先輩のせいだが、シオリは仕事を失ってドルタスの面子を潰すのが嫌なのであえて何も言わずに従っている。
シオリは調理場のゴミ箱に溜まった残飯を袋に纏めて裏口のゴミ捨て場へと持っていく。裏口を出たところで、シオリはゴミ捨て場に誰かが居ることに気付いた。
そこでシオリと同じくらいの年頃の少年がゴミ捨て場の残飯を漁っていた。シオリは気の毒に思いながらもこういう手合いは無視することに決めていたので黙って新しいご飯をゴミ捨て場に放る。
その少年は、そこで漸くシオリの存在に気付いて声を上げた。
「あっ、ありが……いや違う! これは……アレだ! ここを調べれば特別なアイテムがあると言う噂を聞いてでだな!」
「いえ、大丈夫です。慣れてるんで、気にしないでくださ……ん?」
そこでシオリは、この少年が日本語で喋っている事に気付く。この人は――。
間違いない。僕と同じ日本人だ。この人は、この世界で初めて出会った僕と同じ人種だ。
「あの、貴方、もしかして別の世界の日本とかからやってきた人です……?」
「んなっ、日本語、わかるのか!? お前も同じなのか!?」
「ええまあ、一応……、僕は有影シオリ。貴方は?」
その人物は、相手が自分と同じ出身の者だと知り嬉しそうに笑って、輝く金髪を振り乱し謎のポーズを取りながら叫んだ。
「ハーッハッハ!! 良くぞ、良くぞ聞いてくれた! 聞かれたならば答えてみせよう! 俺の名は!!」
「鉄の!!」
「男!!」
「ギルバァーーーット!!!!!」
「…………はい?」
シオリは、キメ顔で歯をキラリと輝かせるこの少年が何を言ったのか一瞬理解できず聞き返すように声を出してしまった。
ポーズを取った姿勢のまま、変人が楽しそうに同じ口上を繰り返した。
「ハッハッハ! 分からなかったか? ではもう一度言ってやろう! 俺の名は! 鉄の! 男! グィルバーート!!」
「……はぁ、分かりました……。それで、その鉄男さんはここで何を?」
「変な略し方をするな! 俺の名は鉄の男ギルバートだ!」
シオリは軽く頭痛を覚えて手に頭を付けて考える。どうしよう。この人ちょっとおかしい。そもそも鉄の男とは一体?
「それで、そのギルバートさんはここで何を?」
「うむ、同郷の好みだ。素直に答えてやろう! ……実は金が無くてな、これだけはやりたくなかったのだが、最後の手段を取って残飯に手を付けていたのだ……」
元気に笑うように喋るギルバートは、快活な声を唐突に落として今にも死にそうな雰囲気で言う。ゼンマイもどきを頬張っていた時のシオリに負けずとも劣らない表情をしている。シオリは急にこの少年が哀れに思えてきた。
「う、うわあ……気の毒に……」
「う、うむ……。頼む! 今回は見逃してくれ! 騎士団に突き出すとかはやめてくれ! もう『またか』という顔で応対されるのは嫌なのだ!」
どうもそういう経験が何回かあったらしく、ギルバートは騎士団の下りを強調するように訴える。流石に気の毒になってきたシオリは、今回ばかりはこの浮浪者一歩手前の変人に救いの手を差し伸べた。
「……正面から入って奥の席で座って待っててください。もう少ししたら上がりなんで、僕の奢りで何か適当に作って持ってきますんで」
「おおお!! 本当か! お前は良いヤツだなぁ!! ありがとう恩に着る!」
「……はぁ、今回だけですよ?」
「うむ! では頼むぞ!」
ギルバートはそう言い残して凄まじい勢いで裏手の路地から飛び出ていく。シオリはそれを何ともいえない表情で見送った。
――この世界に住む日本人ってみんなあんな風にキャラクターが濃いのかな……?きっついなぁ……。
そう思っていると裏手の入り口から先輩の声が響いてくる。
「アルハイドォー! いつまでやってんだー! 早く皿洗えー!」
「あっ、やっば! はぁーい!! 今行きまぁーす!!」
突然の変人との邂逅で忘れていた本来の役割を思い出してシオリは慌てて調理場に戻った。
3
「う、ううむ……! むぐっ! 美味い、美味いぞぉ!」
「……新人が作った物で悪いですけどね」
「はぐっ、う、うむ! いや、そんなことはないぞ! 空腹は、最高のスパイス、だと言うからな! むぐっ!」
「まあ、美味しく食べてくれるならいいですかね……」
仕事帰りの客が酒宴を繰り広げる酒場の奥の小さなテーブル席に、仕事から上がったばかりのシオリと、シオリが作った料理を頬張るギルバートが座っていた。
「ふぅ……、いや大変美味であった。礼を言うぞ。シオリよ」
「お粗末さまでした」
シオリの出した料理を完食してギルバートは大変満足した様子で、やたらと尊大な口調でシオリに感謝の意を述べる。先ほどの会話からこれはそういうキャラクターなのだと認識したシオリは、特に気にもせず改めてギルバートに質問する。
「ところで、ギルバートさんは日本人ですよね? 今までどうしてたんですか?」
「そんなに畏まらなくてよい。シオリよ、俺達はもう既に、友人同士ではないか!」
「……まだ友達になったわけじゃ……。まあ、いいか。ギルバート君は、今までどうしてたの?」
そう聞かれてギルバートは、少し暗い顔をしながらぽつりぽつりと話し出す。
「うむ……。俺はお前と同じ転生者でな。俺がこの世界に来たのはもう半月も前のことだ。その前に、まあ色々あってな、女神に導かれて、気付いたらこの街の外で倒れていたのだ。それでこの街で冒険者でもやって第二の人生を始めようと思ったのだが、何故か誰も仲間に加えてくれなくてな。俺が選んだ能力は性質上一人では殆ど何も出来ない故、別の仕事で生計を立てようと思ったが、同じように何処に行っても何故かすぐに辞めさせられてな……。何とか食い繋いできたのだが、とうとう金が無くなりもう二日も何も食っていなかったのだ。そして遂に限界が来てこうして残飯を漁るまでに至ったのだ」
「そっかぁ、可哀想に……。ん……? 女神? 能力? それは一体何なの?」
まあ、そうだろうなと思いながらうんうんと頷きながら聞いていたが、言葉の端々に聞き慣れない単語が同じ日本人の口から飛び出してきているのに気付いて、シオリは思わず聞き返した。ギルバートは、それが不思議な様子で言葉を返す。
「知らないのか? 転生者は転生する前に、女神に会って何かしらの能力を授かってからこの世界に来るのだぞ。ギルドで何人か転生者を見たが、俺以外の者も大抵はそうだった筈だが……」
「えっ、ちょっと待ってなにも知らない」
「…………嘘だろ?」
「ほんとほんと。気付いたらこの世界に居たけど、僕はなにも知らされてないよ」
それを聞いたギルバートは、急に真剣な表情を見せてシオリに問う。
「……言語の加護は? 最低限の常識はどうした? 女神に何も教えられず、この世界に来たのか?」
「三ヶ月ほど前からこの世界に居るけど、女神様とやらには会ってないよ。言葉や常識もこの街に来てから覚えたんだよ。能力って言うのも何にもないし」
「お、おかしい! 俺達転生者は皆初めからこの世界の言語と相互変換されるようになっているはずだ! お前も女神から特別な力を授かっているはずだぞ!」
ここまで来てシオリも漸く気付いた。ギルバートとの根本から外れている相違点に。ギルバートも呆然とした顔でシオリを見つめている。両者は、互いに同じ言葉を漏らした。
「嘘だろ?」
「嘘でしょ?」
「おーう、シオリ、こんな所に居たか! おっ! そいつは何だ、友達か!? 良かったなぁお前! ……どうしたシオリ?」
仕事帰りのドルタスが酒場に入るなりシオリの姿を見つけて近寄り声を掛けるが反応がない。ドルタスは何があったのかわからず困惑した様子で、黙りこくるシオリとギルバートを交互に見ていた。