5話 思い知ろう
1
やがて夜が来た。日が沈み始めたのでシオリ達を乗せる竜車は近くの大きな川がある所まで進めてそこで野営の準備を始めた。
ようやく兜を脱いで茶色の短髪と無精髭の仏頂面を外界に晒したドルタスが焚き木を組み始める。
「……」
「おー……」
準備と言っても手頃な大きさの石で竃を組み予め竜車に積んである薪で火を炊くくらいの物だったが、野営など初めてのシオリはドルタスが火を起こす様子をウキウキとした様子で物珍しげに眺めていた。
「……ダーヤ? ヨリ・ラソル?」
「えっ!? あー、えっと……その……」
当然何を言われたか理解できてない様子のシオリを見て、いつの間にか幾匹かの川魚を獲って戻ってきていたセリエが助け舟を出してくれる。
「メズラしいのか、と、イってる」
「あ、なるほど! いえ、ちょっと前まで本物の火を見る機会がそんなに無かったので……」
「……? アルハイドの、国は遅れてる、のか?」
自分の故郷の文明レベルがあらぬ誤解を受けそうだったので、シオリは慌てて弁明を始める。
「そうじゃなくて! 詳しく説明できないんですが、僕の居たとこは文明が発達していたので、日常で火を使ったりする必要が無かったんです! だから、こうして野営したり、火を起こしたりしてるのが新鮮で……」
「アルハイド、セケン知らず、ナンダな」
「ええぇぇ……!」
思ってもないことを言われて硬直するシオリを尻目に、セリエがドルタスに説明し始める。すぐに納得した様子のドルタスがシオリを少し哀れむような目で見始める。
「……フィオレム」
「ガンバレ、イってる」
「もう! ……それでいいです……」
とは言え、シオリが世間知らず、というのは当たらずと言えども遠からずであった。実際にシオリはこの世界について何にも知らないのだ。時代、文化、歴史、地理、日常生活、常識から何まで全て。
シオリはずっとこの世界を非常に高度な作りのバーチャルゲームだと思い込んでいたが、流石に薄々と気付き始めていた。「この世界は何かがおかしい」と。
リアル過ぎるのだ。腹も減れば喉も渇く。飲食によって腹が満たされ乾きも癒される。そんなのは当たり前のことだ。他のゲームでも当然やっていることだった。しかし法律で定められてVRに痛覚を感じるシステムなどは存在しなかった。
この世界で目覚める前から負っていた腹部の傷跡、化け物から受けた背中の傷、それらが未だにジクジクと疼く感覚がシオリの甘い予感のメッキを徐々に剥がしていく。
大丈夫。心配ないさ。きっと明日には現実に戻れて、何事も無く学校へ通えるさ。
そう言い聞かせるようにシオリは心の中で反芻する。
不安が顔に出ていたのか、見兼ねたようにドルタスがシオリに語り掛ける。
「……ウェダン・リネ・コントロ」
「サカナ焼いてみるか、と言ってる」
「えっ! 本当ですか! やりますやります!」
初めての体験を前にシオリの暗い気分が裏返る。
シオリの初心な反応にずっと仏頂面のままだったドルタスは少し頬を緩めた。
2
この世界で初めて食べた料理は格別だった。と言っても、丸焼きにした川魚に塩を振ってそのまま齧り付くだけだったが、色んなことがあって忘れていたが、悪戦苦闘の末に食したゼンマイもどきは吐いてしまい結局丸二日も何も胃袋に収められていなかったシオリには最高の食事となった。
そのまま齧り付くなんて高度な文明人にはちょっと野蛮ではないか、などとは思わなかった。この世界に来てから一週間と経っていないが既に数え切れないほどに未知の体験をした上、空腹のあまりゼンマイもどきに生で齧り付いた前例もあってかシオリには何の抵抗も感じなかった。ドルタスに差し出された焦げ目が付いてパリパリに焼けた二匹目を受け取って美味しそうに齧り付いた。
ドルタスの口数も少しずつ増えてきていた。セリエのたどたどしく口足らずな通訳入りだったが、最初に比べればずっと気楽に接してくれているのを感じた。
それが少し嬉しくて、シオリもドルタスの少々口下手な語りに頑張って応じる。ドルタスもそれをわかってか、口元を綻ばせながらシオリに語り掛けていた。
明日も早くから移動するということで交代で見張りをしながら就寝することにした。
「いつも二人でやっているからアルハイドは大丈夫だ」と言ってくれたが、世話になりっぱなしのシオリは旅の道連れに加えてくれた礼を少しでも返したくて自分もやると申し出た。
どう見ても明らかに旅の経験など全く無いとわかるシオリに無理をさせないよう、最初に数時間だけやらせて後はセリエ達二人に任せるという条件で見張りの番をさせてくれることになった。
澄み渡った空を星星が彩り月が煌々と地上を包み込むように優しく照らす。どこまでも続く一本の洋々と流れる大河と地平線の彼方まで広がる丘が涼しい夜風を運んで頬を撫でた。
現代にはとっくに存在することの無い景観をシオリは飽きることなく眺める。
素晴らしいな。美しいなぁ。この世界はどこまでも、どこまで行ってもこれに勝るとも劣らない美しさなんだろうなぁ。見てみたいなぁ。どこまでも歩いて行って色んな景色を見てみたいなぁ。
感慨深くそう考えながら、シオリは景色を堪能し続ける。
セリエとドルタスは竜車のすぐ横でブランケットを羽織って寝ている。、二人とも鎧を纏ったままで、利き手の届く位置に武器を置いてある。
セリエがこの辺りの地理に詳しいようで、大河に沿ってもう半日も進めば街道に面した村があると晩飯の間に教えてくれた。村に着いたら、一度宿を取ってもう一夜明かしてから、そのまま街道に沿って進み更に半日でヒュルックの街に着く予定だと言う。
街に着いたら、それからどうしよう。未だに届かない現代からのメッセージ、帰る当てもないし、誰かに頼る当てもない。早く帰りたい……。
「考えるだけじゃしょうがない……よね」
そう一人ごちる。慰めるように自分に掛けた言葉を、考える程に募る不安ごと、夜風が拭い去っていく。
今だけは、今だけは何もかも忘れて二人への恩を返そう。そう思って見張りの役割をこなす為に、意識の焦点を遠大な景観から周囲の景色へと切り替える。
その時、シオリの視界に捉えた。少し遠くの丘の上で動く無数の影。
地形がなだらかだったから、月の光が照らしてくれていたおかげで気付けた。シオリでも。
ああ、気付かなければ、見なければよかった。そうであれば、もしかしたら、自分の見間違いだけで済んだかもしれないのに。
そんな弱気がシオリの心を蝕む。しかし、現実はそんなに甘くはないようだ。
その無数の影は、少しずつ竜車とシオリ達を川に追い込むように、取り囲むように広がっていくのがわかった。
ずっと追われていたのだ。
気付けなかった。もう逃げ切った。もう安心だと思い込んでいたから。
最も警戒が甘い人間が夜番をする、最も襲い易いこの瞬間を待っていたのだ。
それは、茶色の体表は硬い鱗で覆われ、後脚が見せる走りは人間の足より圧倒的に素早く、前に構えた前脚はか弱い少年の肉を豆腐のように断つ。無数のネコ目のような鋭い眼光が真っ直ぐに獲物達を捉え、その命を刈り取るまで決して離すことはない。
両の手で数え切れない数のガーラスがシオリ達を見ている。
もうのんびりしてはいられない。シオリは叫んだ。
3
「せ、セリエさん、ドルタスさん! ガーラスが! ガーラスの群れが!」
「ワージ!?」
「ガーラッソ・デジル!」
シオリの叫びに瞬時に飛び起きて武器を握る二人。
ドルタスが兜を被り、両手に握るのは二振りの、鉄製の棒に大きな棘が沢山付いたこれまた大きな鉄球が丈夫な鎖で繋がれている凶悪そうな武器だ。セリエは背中に背負える程の大きな野太刀のような武器で、長い刀身に丁寧に巻かれている布を慣れた手付きで取り払っている。
「あそこから、あそこまで、広がって……取り囲まれて……!」
「……っ! コナリア!」
シオリが指で示す場所を見てドルタスが悪態のような言葉を吐く。
「アルハイド! アナタ、火をもて、竜車イって、ウゴクな!」
セリエがシオリに言う。
「で、でも……」
「ゲダン!」
「イけ! はやく!」
「……っ! はい……!」
ドルタスとセリエに強い言葉で押されて、シオリは竜車の陰に隠れる。
二人は火を目いっぱいに炊いて竜車を背にして立ちはだかる。
シオリは……。
自分には何もできない。そう思った。無力感に苛まれながらも、仕方ないとも思った。何も無いのだ。何も持っていないからだ。
僕には戦える術など何も無いのだと。自分に言い訳をしながら体を恐怖の悪寒で震わせる。
もうこそこそと隠れるようにする必要も無いと感じたのか、包囲網を調え終えたガーラス達が速度を早めて網を縮め出す。
「……ムン・トーン・ガット、ウェア?」
「イェーヤ」
「ヴァレリー・クァン」
「……イェー。アン・シャレ、ビー・ツェッド・ドラフ?」
「ウェッダ。……ゲル!」
ガーラス達が一度に距離を詰めてきた。もはや目と鼻の先までその距離は縮まる。
いつの間にかセリエの姿が掻き消えている。
一番槍を決めたガーラスがドルタスに飛び掛かった。竜車の陰から見ていたシオリは「もうダメだ」と思った。
「聖者の掌!」
その時、ドルタスの鎧に付いている小さな盾のような部品が光を発した。光は瞬時にドルタスの前方を覆うように形を変える。
ガーラスが振り下ろした爪がその光に激突すると、ガーラスの猛攻はそこで弾かれるように止まってしまった。
「ガリエレ!」
その隙を逃さずドルタスが右腕を思い切り振るう。
動きを止められたガーラスの首をドルタスの凶悪な鉄球がへし折った。シオリの目にはドルタスの攻撃を受けたガーラスの身体が地面から離れて浮き上がったように見えた。倒れ伏したガーラスはピクリとも動かない。
「な、なんなのあれ!」
陰で見ていたシオリは思わず叫んだ。
ドルタスは、ただの鎧の部品だと思われていた小さな部品は護符のようなものであり。鎧の各所に装着されていた。胸に、肩に、背中に、篭手に、膝に。
四匹のガーラスに囲まれたドルタスが、四方向からの攻撃に応じた部分の部品から光の盾を発して正確に凌ぎながら一匹ずつ叩き潰す。全ての死角を封じたかのように立ち回るその姿はさながら歩く要塞のように思えた。
両手に武器を持ち、武具から発せられる光の盾で敵の攻撃を防ぎながら叩き潰すのがドルタスの戦闘スタイルであった。
いつの間にか姿が消え失せていたセリエの姿を、シオリが目の端に捉えた。
黒髪を靡かせながらセリエは長大な刀身を振るい、ガーラスを一薙ぎで斬り裂く。ドルタスに反してセリエの装備には何の加護も付与されていないが、セリエには身長ほどもある刀身を軽々と振るいながら戦い続けられる身体能力と持久力、そして技術を備えていた。敵に取り囲まれないよう死地を風のように駆け回り、的確に化け物の急所を狙い撫でるように斬り捨てていく。
シオリ達の今夜の寝場所は最早小さな戦場さながらの有様と化していた。
ドルタスが一身に敵を集め、丁寧に命を摘み取り、その余りをセリエが戦場を駆け巡って攪乱しつつ、かまいたちのように化け物の群れを斬り抜ける。
呆気に取られながら見ているシオリには、若干一方的な戦いに見えた。三分と経たずにガーラスの群れは半数程まで数を減らしていた。
この二人にはガーラスなど物の敵では無いのだ。そう思ってシオリは安堵する。これなら、この二人なら確実に勝利を収められる。
竜車の陰から見つめるシオリの恐怖も少しずつ薄れ始め震えが止まろうかという、その時、
空が降ってきた。
否、
空から巨大な何かが小さな戦場に降り立った。
「あ、あ……、あれは、ドラゴン……?」
「っ!! ゾルアジス!」
セリエが驚愕に叫ぶ。急に現れた、この招かれざる参戦者の名は、ゾルアジス。
大陸の言葉で、真紅の竜と呼ばれるそれは、人の身では到底敵わない、本当の意味での化け物だった。
異世界語はクソ適当に考えてます。だってかっちょいい造語のルビ振りたいもん。気にしちゃダメ。