3話 足掻け
シオリは鬱蒼とした森の中でトカゲの化け物から全力で逃げていた。
追いつかれる。
すぐにそう思った。まだ走り出して足を地から二十回も離していない。
先ほどまでゼンマイもどきと格闘していた場所などとうに通り過ぎている。
暗闇の中、懸命に脚を動かす。既に二度もトカゲの化け物の荒い鼻息を耳で感じ取っていた。
真っ直ぐ走るだけでは敵わないと瞬時に思い直し短距離走の姿勢は止めた。
入り組んだ木々の間を通り抜けて、藪を飛び越える。
「なんなのあれ! こっわ! めっちゃ怖い!!」
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
シオリは必死に自分に言い聞かせ続ける。
胃袋の中でついさっき入れたたっぷりの水がタプンタプンと揺れる感覚に今日一番の後悔をしながら必死に逃げ続ける。
横腹も痛くなってきた。化け物に追い回される恐怖で、激しく涙が溢れて顔面はグチャグチャだ。鼻水まで垂らしている始末。
この有様をあの人が見たらどう思うだろうか。
激しく怒るか、はたまた呆れるか。ともかく確実に修行の内容が一層厳しくなってしまうだろうな。
シオリはそんな下らないことを考え始めていた。
走り出して三十秒も経っていないにも関わらず、ひ弱な身体は既に疲労困憊で息が上がっていた。
だが、生死に関わる状況で疲れなどを理由に立ち止まれない。あと三分は全力疾走ができる自信はあった。
十七歳という若さでそれはあまりに情けなさ過ぎるだろうが、仕様もない考えを始めた理由はそれではなかった。
何故なら、既に深夜の逃走劇も終わりが近付いているからだ。その終わりが近い理由とは。
「はっ……ひぃ、ひぃ、もう無理ぃ……!」
シオリが諦めかけていたからだ。思わず目線を背後に走らせてしまい、残酷な現状を見てしまった。
トカゲの化け物が増えている。二匹、三匹、まだ多くの影が見える。
――ダメだ!もう無理だ!どうしようもないよぉ!!あんな数に追い回されてたらすぐに捕まっちゃう!!
シオリの心の弱さが彼の寿命を猛烈な速度で縮めていく。
「うわああああーーー!!!!!」
シオリは柄にも無く叫ぶ。着実に死が眼前まで迫ってきている状況で、肺の空気を吐き切って息が切れるのも構わず。自殺行為に等しい愚行。
そして、その時はすぐに来た。
「ウジャアァー!!」
「っ!! あああ!! い……痛いい!!」
シオリの背中が破ける、トカゲの化け物に、牙を引っ掛けられたのだ。
繊維の切れ端と共に鮮血が散る。
背中が急激に熱くなり、ドクドクと脈打つような感覚が走り始める。
血を見たことなら何度もある。全て自分の物だったが。
ここまで出血した経験はない。
痛みのあまりもんどりうって転ぶ。
「あぁ……、う……おっぶっ、ヴオエエ……!」
背中に手を当ててべったりとこびり付いた、己が流した赤黒い血液を見て、途端に強烈な吐き気を覚えて胃袋の中身を大地へと返した。
――た、立つんだ……立たなきゃ……!
現実となった死を肌で感じ始めて、諦めかけていた心と身体が生きる気力で漲り出す。
だが何もかもが遅かった。最初から全力で走り続けていればよかったのだ。端から甘い期待などせず状況を厳しく見つめていればよかったのだ。そうすれば、そもそも、こんな事にはならなかったかもしれないのだ。
囲まれている。
いつの間にか空が白み木の葉の間から夜明けの光が差し込み始めていた。だから気付けたのかもしれない。
痛みに耐えながら何とか立ち上がり、ゆっくりと全体を見渡して姿が露わとなったトカゲの化け物の数を数え始めた。
六匹。周りを取り囲んでジッとシオリを見つめている
どのトカゲもたらふく食べそうだ。
シオリの立ち直りかけていた軟らかい心の芯がグニャリと折れた。
「い、いい、嫌だ……」
「死にたく……ない……」
「まだ、生きていたい!!」
声が大きく発せられる。
どうして訳もわからずこんな場所で死に果てなければならないのか。
そう文句を垂れるが、その嘆きを残酷な現実は聞き入れなかった。
シオリを囲むトカゲの化け物達はゆっくりと囲みを縮める。
頃合いを見計らったのか、一匹が突然踊り来る。
恐怖で身体を硬直させているシオリの脳裏に再びあの人が現れた。
これは無理だ、敵わないと思った時、既にお前の心は負けている。
だがしかしだ、我が弟子
私の不出来で可愛い弟子。
そう考えられる時点でお前はまだ死んでいないだろう、ならば死なないように努めるべきだ。
死ななければ、生きてさえいればどうとでもなる。
師匠はそう言う。
ですが、師匠。
もう死ぬことが自分にもわかっている時だって。
どうしても死ななければ終われない状況だってあるはずです。
……もうどうしようもない時はどうすればいいのですか……。
記憶の彼方で、靄のベールの向こう側で師匠が不敵に笑う。
足掻け、噛みつけ、苦しめ。存分に。
そう出来るようお前を鍛えたはずだがな。
痛みや苦しみを感じている間は、まだお前は死んでいないぞ。だから、命が終わるその刹那の間まで。
しぶとく生きろ。
トカゲの化け物が今まさに飛び掛らんと、その細い首にノコギリめいた牙を突き立てようとしていたその瞬間。
「おお、お、あ、おっ……オラアアアァァ!!」
有影シオリはただ生きる為に獣と化した。
眼前に迫る牙をすんでのところで回避して、トカゲの首に手を掛け組み付く。その勢いのままトカゲの化け物に跨った。
そして、化け物の首に腕を絡めて、有らん限りの力で締め上げる。
跨がられたトカゲの化け物は驚愕し硬直していた。
今まで背を向けて懸命に逃げていた軟らかく美味そうな格好の獲物が、その枝ほどに細い腕で決死の抵抗を繰り出してきたから?
そのちっぽけな身体で俊敏な動きを見せたから?どれも違う。
シオリが発した途轍もない気迫がトカゲの化け物を驚かせてその動きを一瞬止めたのだ。
爬虫類の小さな脳みそが、少年の身体が突然として化け物に変異したのだと錯覚した。
「オオオオオオオ!!!」
シオリの脚ほどもあるトカゲの太い首を、出来る限りの全力で締め上げようとする。
しかし、自分の細い腕ではトカゲの堅い鱗で覆われた首を圧迫することさえ叶わない。このままでは直に振り落とされてしまい無防備なとこを化け物の餌食にされてしまうだろう。
恐怖と生の渇望で我を忘れているシオリが、無意識で呼吸を整えて、小さく呟いた。
「スゥーッ……。……げん……」
シオリの脳が、刹那の長さで記憶を再生する。
脳裏に浮かんだのは、振るわれる怪力の木刀。自分を見下ろす誰かの笑み。
その瞬間、シオリのか細い腕が今までとは比べ物にならない腕力で化け物の首を絞め出した。
突然の圧迫感に化け物が苦しげに呻く。
「ガッ……! ゴヴォ!!」
今、この瞬間、一秒でも多く心の臓を止めない為に、シオリは腕に万力を込める。そして、込める力に一気に捻りを加えた。
ゴギッ。
化け物の視界が反転して、首が中ほどから真横に曲がる。
そのまま化け物は、呻き声も漏らさずシオリの胸の中で息絶えた。
「っ……はぁ! ああ!! なんて事を!」
命が失われる感触で今まで自棄気味であったシオリの感覚が正常な状態に戻る。
一体何が起こったのか、よくわからない。
だが、自分がトカゲの化け物の息の根を止めてしまったことだけは理解できた。
人生で一度も虫より大きな生き物を殺害したことのないシオリは腕の中でピクリとも動かない化け物を見て頭が真っ白になった。
今の今まで狩りの獲物と断じていた小鹿が小さな小さな、それでも自分達に匹敵する鋭い牙を剥いたのには周りの五匹も呆気に取られた。
だが、仲間を害されてしまった今、最早これを喰い殺すのに躊躇いは無い。全員で掛かろう。
無理に技を使ったせいで、とうとうシオリの肉体に限界が来る。
最早抵抗は無意味であった。
なけなしの勇気を振り絞って決死の攻勢に出たシオリだが、これ以上持たせることは不可能だった。
まさに今、命の灯火が一息で消える。
その時、自分に飛び掛ろうとしたトカゲの化け物が空中で何かに貫かれ、あらぬ方向に吹っ飛んだ。
「……ダ……! デア……ミ……!」
薄れる意識の中で誰かの声を微かに聞き取る。僕は助かったのだろうか。
だが疲労困憊と、命を奪ったショックで精神的に受けたダメージの大きいシオリには、これ以上意識を保つことは叶わなかった。
一日以上ぶりに自分以外の人間の声を聞いて緊張が途切れたシオリはそのまま意識を失った。