165話 七界破天《新世界》
かつて『永世剣聖』と〝通り名〟の二つの称号を授り、畏敬の念を以て『唯一無二の剣士』と称えられた者が居た。
その剣士は、後に世界全体に宣戦を布告、そして実際にそれを実行し、後一歩の所で、姿を消した。それから何十年もの時が過ぎても、かの剣士が再び世に現れ、今度こそ世界を破壊し尽くすであろうと信じている者は数多く存在する。そんな剣士の異名は、枚挙に暇がない。
曰く、世界を三度破壊した者。
曰く、『真紅の竜』から恐怖の代名詞を奪った者。
曰く、憎悪を纏う者。
曰く、神に恐れられし者。
曰く、最も神殺しに近き破天。
剣士の名は――ルテン・アルハイド。
だがシオリは、彼女が既に故人であるということを、当事者で無いながらも知っていた。
何故なら彼女は、リンネ・アルハイドの手で殺されたからだ。リンネが自らの手で殺めたと、本人の口からそう言っていたのを確かに記憶していた。あの人が言うのだから、本当の事なのだろうと、そう認識していた。
だが彼女は……ルテン・アルハイドは、リンネの姉弟子は、目の前に確かに生きて、立っていた。
ぼろぼろに擦り切れた燻んだ色の花をあしらった紫色の羽織と、背中には鞘が無く、布で巻かれただけの使い込まれた一振りの野太刀、後ろで一つに束ねられた、足元まで伸びる牡丹色の鮮やかな髪。
そんな姿で、止まった時間の中で、二本の足で地面を踏み、呼吸もしている。
しかも、お互い初対面なのにいきなり罵倒までしてきた。
「あ、あなたは……なんで生きてるんですか?」
思い切って一番気になることを訊ねると、ルテンは、暫く無反応だったが……ゆっくりと首を傾けて、口をポカンと開けた。
「…………私は……この通り……生きているが……そんな事も……わからないのか……? おまえは……馬鹿か……?」
その口振りは、何を当たり前の事を聞いているんだ、と、いう風であった。また罵倒までしてきた。何故だかこちらのほうがおかしな質問をしている気持ちになってしまう。
「いや……えと……あなたは世間的には死んでるって事になってるんですが……と言うか、おか……リンネ師匠が、自分の手であなたを殺したと言ってましたし」
「…………ほう……リンネが……そう言ったのか……」
シオリは知っている事を簡潔に話した。すると、彼女はとんでもない事を言い出した。
「…………私は……リンネとは……戦ってない……」
「え」
「…………殺し合おうと……考えた事も……無い……私は……リンネを……愛している……大好きだ……食べてしまいたいくらい……戦うなど……ありえない……おまえは……嘘吐きなのか……?」
「め……め、滅相もない。本当の事ですっ」
どういう事なのか分からない。リンネと戦ってないとは一体。まるで分からない。
だが、それに、そもそもの話だ、なぜ彼女はこの世界の中を動けているのか。どうして今、この局面で突然現れたのか。分からない事だ、聞きたい事が山ほどある。
幸い、この世界に居る間は出血も止まっているようだ。少なくとも今すぐ失血死する心配は無い。途轍もなく緩慢な喋り方さえ気にしなければいい。時間はたっぷりある。
そう思い、ゆっくり話を聞いていこうと考えていたシオリだったが、
「…………それより……リンネ師匠と……言ったな……おまえはリンネの……弟子なのか……」
「え、はい。そうですが……?」
その質問に頷いて肯定すると――突如として世界が揺れた。
誇張ではない、本当に揺れている。ちょっとした地震などと言う生優しいものではない。その原因が、目の前にいる彼女だとすぐに分かった。
「え、あ……うあ……」
「…………嘘吐きめ……このような雑魚に……右目と利き腕を……斬り落とされるような……ぽんこつが……あまつさえ……私の前で……リンネの弟子を騙るなど……」
なんという、威圧感――空気が重い、両肩に岩が乗っているようだ。周囲の景色が沈み、世界そのものまで彼女に屈している。
ぼんやりとした印象だった女性が、今や威厳すら感じられる剣士の風格を漂わせていた。
気付くと、シオリの身体がぶるぶると震え、足が後方へ後退っていた。魂が、彼女の前に在る事を拒否している。
なのに、彼女の周囲にある空気に引き寄せられているみたいに、距離が少しずつ狭まっている。後ろに一本に束ねた、足元まである牡丹色の髪が、静止した時の中で、風に揺れるように棚引いていた。まるで彼女に向かって、得体の知れない巨大な力の奔流が渦巻いているようだった。
「…………万死に値する……!!」
シオリがその全容さえ掴めぬ気配を、『敵意』だと認識したのは、十歩以上ある距離から――ルテンに斬られてから、であった。
斬られた事さえすぐには解らなかった。なにか目に見えぬ大きなものが身体を通り過ぎて、それが『斬撃』であると遅れて気付いた。なのに、シオリがずっと見ていたにも関わらず、彼女はその場から微動だにせず、斬る瞬間も見せなかった。
こう表現するのもおかしな話だが……ルテンは、斬り終わってから、背中の柄に手を掛けていた。彼女は刀身さえ見せていない。あたかも未来から斬ったかのような、『異次元』の速さ。
斬られた事も解らぬうちに斬り殺された実感がシオリの内に湧いて、ドッと汗が噴き出た。ぞわぞわと悪寒が身を駆け巡り、あまりの気分の悪さに吐きそうだ。
「…………今のを……躱したのか……すごい……」
だが、シオリは死んでいなかった。いいや、確かに斬り殺された。今頃シオリの胴と首が泣き別れしているハズなのに、まだこうして生きて立っている。
「なまいきだ……褒美を取らす……」
「い、いや、待っ――!!」
その事にルテンも首を傾げて、また斬り付けてきた。
また、さっきと同じだ。ゆっくりと手が運ばれて、柄に触れる前から、凄まじい斬撃が飛んでくる。その間も、ずっとシオリは恐怖に五体を強張らせ、一歩も動けなかった。
神の設計した物理法則を嘲笑うかのような異次元の剣術が、何度もシオリの矮小な肉体を斬り刻んだ。――見えない見えない見えない、何も見えない。化け物だ。本当にお母さんはこんな化け物に勝ったの。嘘でしょ。絶対嘘だ。こんなの人間が勝てるわけない。
恐ろしい、あまりに恐ろしい。
これが、一つ一つが天災に勝る武力を誇るとされる、破天の一角に並び立つ究極の生命体。
これが人の身で《七界破天》と呼ばれた剣士。
これが――唯一無二の剣士、《新世界》の実力。
心が壊れぬよう『夢幻泡影』で何とか強く意識だけは保っていたが、心よりも先に肉体が、生命を脅かされ続ける現状に耐えかね、シオリはその場に膝から崩れ落ちた。
「…………おかしい……変だ……とうに斬り捨てている筈……ちょっと本気出しているのに……うん……変だ……変すぎる……おかしいな……」
今のが、全力ではなかった。その事実を脳が認識して、心臓が鼓動を止めそうになる。
蹲るシオリのすぐ前に巨大な気配が現れ、彼女が肉薄してきた事を知った。顔をあげると、ルテンの無表情の顔が目の前にあった。
シオリの顔に、彼女の恐ろしく皮の分厚い無骨な手が添えられる。その手が、頬に触れて――頭を通過した。
「…………そうか……本当に……私は死んでいたのか……」
そう呟いたルテンの表情には、感じ入ったような色は一切無かった。
「…………この……止まった時間が……原因ではない……よく見れば街並みも……ちょっと違う……私は確かに……遥か昔に……息絶えた……リンネに……殺された……リンネが私を……越えた……うれしいな……喜ばしいことだ……」
ルテンがその事をようやく認め、シオリも自分で思っていたことなのに、その事実に心底ホッとしていた。彼女が死んでいてくれて本当に良かった。
こんな人の姿をした化け物が、もし今現在まで生きていたら、今頃世界は滅茶苦茶になっていたに違いない。それほどまでにルテン・アルハイドという存在は強大である事を、シオリは身を以て知ったのだ。
兎にも角にも、死人だったおかげで命は助かった。
しかしその直後、ルテンに受けた恐ろしさと、助かった安堵のあまり、メリエルに右腕と右目をやられようと弱音の一つも吐かなかったシオリが、ルテンの前で子供のように泣き始めてしまった。
「うっ……ひぐ……うぇぇ……」
「…………なんで泣くの……」
「ご、めんな……ざ……ごわがっだ……こわかっだんでずぅぅ〜〜……っ」
ルテンが、微かに眉を潜ませて言った。
「見苦しい……黙れ……」
すぐさま秘術で恐怖を消してシオリは、すん……と泣き止んだ。
「…………リンネのぽんこつ弟子……改めて……名乗ろう……私は……ルテン……アルハイド……【破界】と……『永世剣聖』と呼ばれる……この世で一等賞の……最強……無敵の……超剣士……頭が高い……崇め奉れ……」
ずっと蹲ったままの姿勢だったシオリは、とりあえず地に頭を擦り付けた。
「は……ははー……?」
「…………うん……よろしい……素直でけっこう……塵の割に……だが……」
結果的に言うと、ルテン・アルハイドが死人である事は大きな間違いであった。
正確には、今目の前にいるルテンには死んだ記憶が無く、また死ぬような経緯に至る心当たりも無い。
そんな彼女の最後の記憶は、『筒の中に入るところ』で終わっていたと言う。
「それって、もしかして……マニマルス・イシュアーノの筒、ですか?」
シオリがそう問うと、ルテンは頷きもせず、ゆっくりとした口調で答える。
「…………そう……あの糞の御業だ……私とリンネは……五十年に一度……その筒に入っていた……素っ裸で……」
「最後の情報要ります?」
「…………塵が……想像するな……穢らわしいぞ……」
「もうやだこの人!! あ、ごめんなさい!!」
この人の言動はよくわからないのだけれど、つまり、要するにだ。彼女はメリエル・イシュアーノの元になった魂なのだ。
メリエルが産まれる150年前に、ルテンが、おそらく培養槽のような役割を果たす筒の中に入った際、マニマルスの手で細胞を取られ魂を複写された。
その細胞から生成されたクローンの肉体に複写した魂を詰め込んで出来たのが、メリエル・イシュアーノという事になる。全て単なる憶測だが、そういう体で行くことにする。
そして、ルテンが意識を持って現界したキッカケは恐らく――シオリがメリエルを斬ったことだ原因だ。自分は確かに、『無尽剣』で斬りつけた。
その時、『斬った相手を背負う』という効果が発動し、魂が背負われる事を受け入れ、魂の一部がシオリに宿った。シオリが今見ているルテンの姿は、霊的なものを認識できる左目を通して見たものなのだろう。
もちろん表層意識から現れた自我だけの存在なので、ものに触れる事も、他の者に認識される事もない。
たぶん、きっと、そんな流れだと思う。
このルテン・アルハイドの記憶や人格は150年前の時点であり、本人からすれば、世界に宣戦布告した事実やリンネに倒された末路も他人事だ。
「…………そう……私は斬られた感覚で目覚め……その事を受け入れた……そして……私を斬る程のえげつない腕前……どれほどの相手かと思えば……まさか……こんな塵だとは……あまつさえ……リンネの弟子を騙る……罪深い生き物……」
「いえ、弟子なのはほんとですってば……」
「…………では……リンネの一番好きなものを……言ってみろ……」
「え、うーん……一緒に住んでた頃は饅頭をよく食べてましたから……たぶん饅頭です」
ルテンは、リンネの話をする時だけ、目に光が宿る。今もまた光が灯り、けれども無表情で、鼻で笑ってきた。
「…………馬鹿め……マンジュウなど知らんが……違う……正解は……私だ……」
その口振りはなにやら物凄い自信に満ち溢れていた。
「そうですか……」
「…………まあ……あの糞の事も……知っていた……リンネの《理の剣》も使っている……一応……ちょっとだけ……信じてやろう……感謝するがいい……」
「え、はい……ありがとうございます……」
シオリはなんだか、彼女の会話に付き合っているだけで疲れていた。かなり言葉に気を遣わなければならないのが、とてもゆっくり話す月子と会話しているかのようだ。相手が月子なら疲れなど感じないシオリだが、彼女は月子では無かった。
そろそろ、メリエルとの戦いに戻らなければいけない。シオリはその断りを入れようとして、
「…………〈絶刀〉を……使う事を……禁ずる……」
見透かされていたかのように、ルテンはとんでもない釘を刺してきた。
「え!? で、でもアレを使わないと、あの子には……」
「…………星界ノ型……リンネが自ら……おまえのような塵の為に……こしらえた技……それを使わずして……おさめた勝利に……何の意味がある……」
シオリの魂に同化している事を認知したからか、ルテンは少し前の記憶を遡って言及してきた。
「…………そもそも……その型は……基本中の基本を……抑えた程度のもの……そのままでは……虫の一匹も殺せぬ……」
「そ、そうですっ。今のままじゃ勝てないから、〈絶刀〉を使わないと……!」
「…………塵が……まだ分からんのか……嘆かわしい……弟子がこれでは……リンネが……可哀想だ……」
シオリはそう言われて、少し頭に来た。お母さんは関係ない、そう叫び出したい気持ちだった。その開きかけた口が噤み、頭が後ろに退がった。
ルテン・アルハイドが、柄に手を掛けていたからである。
「…………おまえは……このままでは……必ずリンネを失望させる……だから……ここで朽ち果てたとして……その程度の女だった言う事だ……」
ルテンが初めて、刀身を見せた。根から先までが黒い刀であった。
「考え……自らの手で……乗り越える事叶わくば……すぱっと死ね……」
黒刀が、空を切った。その瞬間、シオリには、世界が割れたように見えた。その割れ目に向かって、気圧差で空気が移動するかのように突風が流れ込み、世界の淡い青色が姿を取り戻していく。
「ま、待ってください――!」
「…………おまえも女なら……底力を見せてみろ……」
「い、いや、ちょっと!」
世界の修正力と共に消え行くルテンの姿に手を伸ばし、シオリは叫んだ。
「僕は女の子じゃないですよおぉぉー!!」
だが、その時には世界は時の流れを取り戻し、再び雨が降り始めていた。雷鳴が響き、大橋の下で河がごうごうと流れる。
その手を伸ばす先で、メリエルが、首を傾げていた。
「突然何を言っているのかしら……?」




