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絶刀のヴァレリーア  作者: ラーメン上のマチク
4章《救済の王、叛逆の使徒》
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109話 僕は――

 粗末な納屋のような家の中で、少女は球状の立体映像のような魔法陣を眺めていた。

 ホログラムには自分を示す青い光と、なにかを指すであろう赤い点だけ。

 それを見つめながら少女は独り言ちる。


「あの女の仕業としか考えられんが……」


 手には真新しい新聞らしきもの。見出しには『不落の壁落ちる』と書かれていた。流石は王都だ、情報の伝わり方が早い。

 事態は大事(おおごと)になりつつある。

 少女は溜息を吐いて、こんなことなら私が壊しておけばよかった、と思いながら今後のことを思案する。

 ここはひとつ国外逃亡か――いきなり最終案を浮かべた。少女を知る者は一人残らず、彼女がそういう性質の人物であることを知っている。

 また、少女が微塵も躊躇わないことも。

 この少女には、己が積み上げてきたあらゆるものが失われることに対しての執着心はない。およそ通常の人間に備わるであろう理性、願望、欲求はとうに捨てていた。

 正しきことを信じる、その最低限の善性だけを残して――。

 少女の心に強くあるのはただ一つ。この世にただ一人の自分を満たしてくれる存在。自分を人間足らしめてくれる人物だけ。

 だからこそ、この街で積み上げた功績と人脈を捨てることへの覚悟などする必要性すら無かった。

 魔法陣を見つめる少女の瞳が揺れる。


 対象の位置を示す赤い点が妙な動きを見せた。

「なんだこれは――」少女は椅子から立ち上がって呟いた。赤い点の動きが明らかに異様であったからだ。

 今まで一点から動きを見せなかったそれは突如として消失し、遥か遠くの位置に現れた。

 建築物の中に居たとは考えられない速度で――否、まるで瞬間移動でもしたかのようだ。

 それに思い当たる事があった少女はただならぬ気配を感じて戸口に向かう。

 もしも間違いでないのなら、手遅れにならぬ内に動くべきだと。そして、その脅威を排除したならば、それが恐らくもう二度と無い機会であると。


 あの女狐を殺したら、さてどこへ逃げるか――。


 既に先のことまで考え始めていた少女に、決めたことを行うのに一切の躊躇いはないだろう。

 少女を御せる可能性がある人物はこの世に一人だけ。その人間を生かすためならば、少女は何をも厭わないのだから。


 それが例え、人を殺めることであろうとも。











 雨が降っている。しとしとと降る冬の始めの雨は冷たかった。

 シオリは雨が嫌いだった。

 別に雨が降ると誰かが死ぬとか、トラウマものの思い出があるとかそんな大した理由があるわけではない。

 ただ、滴れる雫や濡れた髪が気になるし衣服がベタつけば鬱陶しいし靴の中に入り込まれたら堪らなくなってしまうからだ。

 そういう物理的な悩みが無ければ臭いは消してくれるし雨音が心地よいしでむしろ好きなほうなのだが、残念ながら今日は濡れてしまうので嫌いなのであった。

 その原因は目の前を歩く(おそらく適していない表現だが)少女にある。

 メリエル・イシュアーノ――彼女が絶刀で開く空間の裂け目を潜った先は上層区画の裏路地だった。

 夜の帳はとうに降りており、暗い裏路地は月明かりだけが頼りで、足元の覚束ないシオリは少女に手を引かれて歩いていた。


「あなたがなにを考えてるのか、当ててみせましょうか」


 メリエルは唐突にそんなことを言いながら振り向いて、


「『どうすればこの子から逃げられるかな』、『どうやって助けを呼ぼうか』、『彼女はなぜ僕を好いてるんだろ』」


「こんな所かしら」と微笑んだ。

 濡れる前髪に瞳を隠す彼女から視覚情報で感情を読み取れるのは唇だけだが、口角を上げすぎる独特の笑い方はまるで面を張り付けているようで、とてもでは無いが何を考えているかわからないし不気味なだけだ。

 シオリは肩を竦めて、できるだけ感情を読まれないよう冷たい口調で答えた。


「……一個だけ当たり」

「あら、ふふ。だいぶ外れちゃった。よければ教えてくださいな?」

「『雨が靴に入って気持ち悪いな』、『今日は晩御飯食べられなかったな』――そんな感じだよ」


 少女がキョトンとしたのが口元でわかった。


「もしかしてあなたには緊張感というものが無いのかしら? 分かっていないなら教えてあげるけれど、わたしは敵よ? ここまで来るのに善良な人を幾つも殺してきたし、必要とあらば、あなただって斬り捨てるのも厭わないんだから」


 足を止めてメリエルはまじまじと見つめてくる。

 それがまるで心の奥底まで観察されているようで、気味が悪くてシオリは目を伏せた。


「……余裕は感じられない。望みを持っているわけでもない。なのに何故あなたはおどけてみせるのかしら」


 何を言われても黙っているシオリの頰を、メリエルは突然両手で包んだ。


「――ああそういうこと」


 鼻頭がくっ付きそうなほど近づく少女の口元が、すんと冷えた無感情を呈す。


「自信がないのね、あなた」

「っ……」

「言葉にしなくてもわかるわ。あなたは自分がどうやってもこの状況が変えられないと思っている。わたしに勝てない、逃げることも叶わない。それは諦観ではなく悲観。目の前のことからただ目を背けているに過ぎない――」


 頰を包む手に力が入り、押し倒された。

 ばしゃり――水溜まりに体を投げ出したシオリが見上げるメリエルの姿から、なんの匂いも感じられない。

 雨で薄れているというのもあるだろうが、それだけではないと思えた。

 彼女から伝わる気配から、子供がオモチャに飽きたように自分への興味が失われた、そんな気さえした。


「それじゃダメでしょう」


 メリエルのいつもの甘く蕩けるような声色から、甘さが消えていた。

 人を人と思わない、屠殺場の豚を見るような目で少女が見下ろしていた。


「あなたは決して諦めちゃいけないの。決して逃げてはいけないわ。いついかなる時もあなたは困難に立ち向かい、泥の中でもがき苦しみ続けてもらわないと、わたしが困るの」


「でないとわたしは――」言いかけたメリエルは何かを思い出したかのように口を噤んで、またいつもの笑みに戻った。


「何でもないわ。まあ、あなたに逃げる意思が無いのなら、今はそれで構わないわ。お返しとして、気になっていることは幾らでも教えてあげる」


 手を取って助け起こしたメリエルは、シオリの手に頬擦りしながら提案する。

 気になっていること。言い知れない不安感でふわふわする頭の中で、シオリはいの一番に浮かんだ言葉を口にする。


「……君は調停者なの……?」


 メリエルはその質問には口では答えず、代わりに無言の笑みで答えた。それを見てシオリは意識が暗くなる。

 彼女が先ほど己を指して言った『均衡を保つ者』とは――すなわち〝調停者〟に相違ない。五千年前に封印されたとされる悪魔が、悪の道に走った転生者が、そして自分の剣の師匠が、この言葉に触れていた。

 かつてその言葉について問いかけた事がある。

 その一人であると確定していたその相手は、事もなげにこう答えた。


 〝あの悪魔のように人を滅ぼすのが正しいと考えるような奴がいるように、それを食い止めるのが正しい事だと考える人間もいる。そういう話だ〟


 ああ、師匠――。

 貴女も同じなのですか。

 僕の大切な人を狙い、さらに国を滅ぼそうと企てる奴らと一緒なのですか。

 わからない。

 物心ついた時から一緒に居て、ずっと信じていた人物から裏切られた気がして、シオリは立つべき足場を見失った気持ちになった。


「師匠……貴女はどうして……」

「ああ、リンネ・アルハイド。彼女もまた世を正すために剣を振るう同志――」


 ……メリエルは何かを呟いて、そしてまた笑った。


「そして彼女に鍛えられたあなたもまた、秩序をもたらす同志の一人となるの。志を共にしたわたしたちは戦友となり、盟友となり、真の家族となる――」


「……ちょっとまって」彼女の語りを遮った。

 シオリの言った、一つだけ当たっていたものがそれであった。


「なんで僕が仲間になる前提で話してるの?」

「――ふふ」


 なぜメリエルはそれほど自分を好いている?

 今まですれ違ったこともない。会ったことも話した事もないのに、なぜ彼女は自分を知っていて、最初から好感度がマックスなのか。

 その問いに対して少女は薄く笑い、親切なほど丁寧に教えてくれた。

 知らないことから、聞きたくないことまで。


「あなたはその為に産まれたのよ。世を正すため、変革をもたらすため、この世に生を受けたの」

「……違う。僕は有影シオリ、日本人の転生者だ。君らの仲間になんてならないし、言いなりになるつもりもない」

「さっき何でも言うこと聞くって聞いたけど?」

「うっ! それは……」


 ――しまった……結構きついや。勢いで言うんじゃなかった……。

 後で後悔しても遅いが、ああ言わなければサイト達が殺害されていたのも事実だろう。自分は最善の行動を取っただけだ。あとでなんとでもなる……はずだ。

 心中でいつもの能天気さを発揮していたシオリだったが、その気持ちは彼女の一言で打ち砕かれる。


「ああ、なんていじらしいの。()()()()()()()()()()()()()()()()()なんて」

「……えっ?」

「今まで一度でも不思議に思ったことはないの? もしそうならあなたは底抜けのお馬鹿さんね」

「ま、待って! 君は何を知ってるの!?」


「前にも言ったのを忘れたかしら。あなたのことなら何でも知ってる――」メリエルは口角を上げて、


「なぜあなたは神の加護を受けられていないの? なぜあなたは知識が与えられてないの?」


 そんなの簡単だ。自分が記憶喪失で、その部分の記憶が無いだけだ。

 そのはずだと、ずっと思っていた。

 なのに彼女はそれさえ見透かしたかのように次なる疑問をぶつけた。



「なぜあなたは、この世界の住人であるリンネ・アルハイドに育てられたの?」


 体から一切の力が抜ける感覚がした。気づいたら膝が地面をついていた。

 どうして師匠は違う世界にいたのか。どうして師匠は自分を育てていたのか。どうして師匠は自分が転生したタイミングで異世界に戻ってきたのか。

 それらは全てシオリにとって、ずっと目を背けていた謎そのものであった。

 だが、その疑問に対する答え合わせさえさせてくれないまま、メリエルは更に謎を叩きつけた。


「なぜあなたには両親がいないのかしら?」

「――――っ」


 頭が鈍る。

 何も考えたくなくて、シオリの本能は無意識に思考を拒絶していた。

 その先を考えたらきっと、自分が自分でなくなると感じていたから。


「やめて……」

「なぜあなたは短い期間で大陸語(エスノローグ)を話せるようになったの? なぜウルド=ラ=エディアはあなたを気に入ったの? なぜ高い魔力を持っているの?」


 しかしメリエルは畳み掛けるように続けてくる。

 考えなくても頭は彼女の声を認識する。耳を塞ぎたくてもメリエルに片手を抑えられていて、否応もなく受け止めさせられた。

 シオリの心の器はとうに溢れているというのに、決して止めてくれはしなかった。


「ふふ、うふふふふ。あなた、随分とわたしのことを調べたようね。ならわかるはずよ。全ての疑問は一つの言葉で解消できることを」

「やめてよ……」

「わたしを形作るは模造の命。人造人間(ビルド・ヒューア)であるわたしを、そうたらしめるのは――」

「やめろよ、やめろ、やめろ、やめろ――!」


 もう一方の手でシオリの口が抑えられた。

 少女の細腕とは思えないほど力強くて、どうしても振りほどけない。

 覗き込むメリエルの視線がぶつかるのがわかった。


「魂よ」


 目を瞑ってもどうしようもなかった。声は言葉として意識に入り込み、シオリの見ている世界が崩れていく。


「あなたが知っていることは、わたしがイシュアーノ家の成果そのものだという事。だけどそれは間違い。実はね、わたしは失敗作だったの」


「なぜかわかるかしら?」メリエルにそう問われても、喋れないシオリには答えようがない。

 そもそも思考が回らない状態では正解など当てられるはずもなかった。

 それが分かりきっているメリエルは答え合せするように言う。


「複写されたわたしの魂には、ある一つの欠陥があったのよ。わたしには――本体(オリジナル)の記憶が無かったの」

「……っ!! ん、んうううう!! んー!!」

「ふふ、可愛い。大人しく聴いていて」


 可愛らしく首を傾げるメリエル。おそらく前髪の奥でウインクでもしているのだろうが、シオリには彼女が恐ろしい悪魔のようにしか見えなかった。

 真実を告げる、悪魔のような悪鬼が。


「複写の過程で記憶が失われた複製品は、本来のメリエル・イシュアーノではなかった。それはわたしと言うナニカ。そうね、気軽にメリーさんとでも呼んで?」

「んぐううう!!」

「ふふ、じゃあここで一つ昔話をしましょう」


 聞きたくない、聞きたくない。聞かせてくれなくていい。お願いだからその先を喋らないでくれ。

 このままどこかに連れてってもいい。何をしたって文句は言わない。

 だから、そこからは話さないで――。


「十七年ほど前に、とある魂の複製を収められた人形がこの世に生を受けました。全ての期待と運命を背負い、一人の女性に連れられて違う世界に行った人形は立派に成長し、こうして帰ってきました。しかし、そんな人形には魂に本来宿るはずの、一切の前世の記憶がありませんでした」


「さてさて、その人形はいったい誰なのでしょう」口から離れた手が肩に置かれて、メリエルは本題に移った。

 その人形に付けられた名は本来、有影シオリという名でもない、シオリ・アルハイドでもない。


「あなたは、だあれ?」


 それは、シオリという自己が、人生が否定された瞬間であった。

 シオリは止め処なく涙を流す顔を手で覆いながら、地面に崩れ落ちた。

 嗚咽が漏れて呼吸が難しかった。動悸が激しくて心臓が馬鹿になった。

 胸の内に暗い感情がくだを巻いてぐちゃぐちゃだった。もはや地に足をつけている感覚も消えて、自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。


 ――ここはどこなのか、何故ここにいるのか。わからない。

 いや、その前の根本から――少年は最も大事なことを確認し忘れていた。

 己が空っぽの存在であることを知って、少年が絞り出したのは、ただただ疑問に疑問を重ねる言葉。


「僕は……誰……?」


 少年が呟いた言葉に、目の前にいるはずの少女は答えなかった。代わりに、狂った笑い声だけがこだました。


「うふ、ふ、ふふふふ、あはは、はははは!」

「誰なの、僕は……誰なの……」


 だれか答えて――。

 自己を見失った少年は壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。元来自意識が薄かった少年に、自力で存在を証明する手立てはなかった。

 ゆえに、その声は――。


「――シオリイイイイイィィ!!」


 天から響いた気高き少女の声が、少年が忘れてしまいそうだった存在を取り戻させた。


 右手を掴まれる感触が消えて、シオリは本格的に地に崩折れた。何かが雨溜まりを叩く音がした。

 見上げると、赤黒いドレスから覗く脚と、その向こうに金髪の男装の麗人がいた。


「シオリに何をした」

「なにを――? 不思議なことを聞くのね。わたしはただ真実を伝えただけ。自分が誰であるかをね」

「シオリはシオリだ。それ以外に何がある」


 メリエルの笑い声がする。

 ずっと頭の中でこだましていた笑い声はとうに消えていた。地を這いながら向ける焦点は、自分に背を向ける少女ではなく、ずっとシオリのことを見ながら話す少女に合っていた。

 彼女から目が離せない。

 この少女にはずっと前から、一目見た時から、男性だと思っていた時からなにか切ない感情を抱いていた気がする。


「なにも知らないくせに、なんでそんなに知った風な口が聞けるのかしら。貴女如きがこのお方の在り方を決められるわけがない。それを決められるのは、このわたしだけ」

「……そうだな。実を言うと、私はそいつの事を詳しく知っている訳ではない

「ふふ、そうでしょうね。そもそもあなたのような馬の骨がこのお方に擦り寄るのは身分不相応と言うもの。それがわかったなら――」


「だが――」侍然とした態度の少女は腕を組み、誇るように言った。


「一つだけ、お前が知らないことを知っている」

「……?」


 自分はずっと、その感情を糧にして生きていた。

 その想いが自分を生かし、それに殉じることが自己を正当化する唯一の手段であり、運命であると信じていた。

 ゆえに――。

 それは、己を見失ったシオリの在り方を決める一言であった。


「シオリが私を愛しているという事だ」


 それがこの世の理であると言わんばかりに自信に満ち溢れた言葉。シオリの身に力が宿り始めた。

 ――そうだ。思い出した。

 僕は有影シオリ。他には何もない。

 ただ弓神月子を愛しているだけの男だ。


「戯れ言ね。すぐに口もきけなくさせてあげる」

「やってみろ」


 シオリはゆっくり身を起こしながら、しっかりと二人を見据えた。まだ動悸がおかしくてうまく体が動かせないが、掛けられる言葉くらいはあるだろう。


「月子……ちゃん……!」

「……なんだ」


 無愛想な返事だったが、月子は心なしか嬉しそうだった。

 シオリはとりあえず、それで全て良しとした。


「助けて……」

「ああ、()()()()()


 月子は頼もしそうに返しながら腰の剣帯から十字架の剣を抜いた。

 それが戦いの合図であった。

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