僕の声、いつかの唄
僕の声、いつかの唄
厚い雲に覆われた空。
こんな日に目を瞑ると君の歌が聞こえるような気がする。
軽やかな歌声はまだ未熟でたどたどしい。けれどどこか切なさを訴えている。そんな歌声だった。
僕たちがまだ黒と赤のリュックを背負っていた頃、近くのピアノ教室に通っていた。
彼女はその中でも一番うまかった。
物心がつく頃にはピアノに触れて、もうすぐ卒業するという頃にはいろんなコンクールで賞をもらうほどの腕前に成長していた。
彼女とは学校も違かったけれど、家が近いということで一緒に帰っていた。
「実はわたし、ピアノよりも歌うことの方が好きなんだよね」
レッスンが終わったあとふいにそうもらした。
「ピアノはもちろん好きだけど、なんだろう。歌ってリズムに乗って言葉を言うだけかもしれないけど、歌う人によってまた違った雰囲気になるでしょ? なんだかそれがいいんだよね」
それってピアノも一緒じゃないのと僕は言う。
「んー、そうかもしれないけどピアノは弾ける人しか楽しめないと思うんだ。でも歌は誰でもできるでしょ? 何もいらないし、いつでも歌うことはできる。そこが違いかな」
はにかむように笑う。
よくわからないや、と僕はそっぽを向く。
正直その頃の僕は彼女に嫉妬していた。
どれだけ練習しても追いつくことはできない。そんな彼女に歌うことの方が好きと言われて腹が立った。
いつか追い抜いてやる。
その気持ちでいっぱいだった。
僕の家にはピアノはなかったからレッスンがない日も無理言ってピアノ教室に通って練習させてもらったりもした。
毎日、毎日。
学校が終わったあと、休みの日も。
そのおかげかそこそこの実力がついてきた。
コンクールでも入賞するほどの腕前になった頃それは起きた。
彼女がピアノ教室に顔を出さなくなったのだ。
一週間、一ヶ月。
ある日ピアノの先生に聞いた。彼女はどうしたのかと。
「恵子ちゃん今入院してるのよ」
先生は多くは語らなかった。浮かない表情で何かあったのかと思わせるような困った顔。
あとで聞いた話によると暴力を振るう父親のせいで頭に怪我をしたらしい。
怪我自体はさほどひどくはなかったらしいけど、それが原因で脳に損傷を受けたという。
そして僕が制服を着るようになった頃。
ピアノ教室で衝撃の事実をきく。
彼女がなくなったと。
あまりに唐突で、現実のものとは思えない。別の世界のことだと思った。
今でも彼女がいなくなったという実感はない。
彼女との思い出といえば、歌うことの方が好きと言ったあの日。
口ずさんだ歌。
どこかで聞いたことのあるような歌。
歌詞なんてよく覚えていない。
ただ覚えているのはメロディと歌っている彼女の横顔。
楽しそうに歌っていた。
ピアノを弾いている時にそんな顔をしたことはないような。
自分が自由になれる場所。そう思えるような。
時たま僕はその歌を口ずさむ。
メロディがあっているのかもわからない。
違っているのかもしれない。
けれど彼女とつながるただ一つだけの手段。
それに僕は歌詞をつける。
なんでもない、ありふれたような歌詞。
そんな歌を彼女が聞いたらなんて言うのだろう。
そんなことも予想できない。
けれど一つだけ言えることがある。
それは彼女のことが好きだったという。
顔ももうろくに思い出せないけれど、確かに僕の中で一生消えることはないおぼろげな記憶。
彼女ともし、もしも話ができたのなら。
今までこんなことがあったよって話せるように。
今日もまた、読まれることのない日記の一ページを埋める。
現実に何が起こるかわからない。
「いつか」に生きることを忘れないで。
目の前にあるものだけが全てじゃない。