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短編小説集

彼岸恋路

作者: 摂氏

無明の闇に囚われていた自分自身を、恥じるつもりはない。黄泉の国、彼岸街道、現世、後世などと、理由もなく信仰する連中の心理が、俺には理解できなかった。

死しても尚、理解の及ばぬ世界に見出すは、現実との因果関係。現実主義に縋る心は、俺が顕現した世界に、現実との接点を求めた。しかし、相反する現状との葛藤の末に、俺の主義は折れた。

いざ死んでみれば、現実も糞もない。なるようになる。在るものは在るのだ。

その点で、俺は未だに現実主義者だった。

俗世の間で囁かれる、死を辿る旅路。彼岸を彷徨い、六文銭を片手に河を渡った先に待つ世界に、死後の往生が在ると、人は信仰する。在りし日の記憶を辿れば見えてくる、この世界に辿り着いた経緯。理由。真相。

……なるほど、俺は死んだのだ。死んだ果てに顕現した此処は、俺が死ぬほど否定してきた彼岸なのだろう。

呆然と立ち尽くす世界を否定する方法なんぞ、俺は知らない。だが、此処は確かに、俺が信仰した現実世界の様相とは掛け離れていたのだ。

「……」

そうか、俺は死んだのか。俺が最期に見たのは、俺自身に繋がれた点滴管だったか。

他人事のように思う心に、憂いが巣食う余地はない。死んで当たり前の人生を、死ぬつもりで生きてきた。死を願うことはなかったが、死に恐怖は感じなかった。生きる楽しみも、生きる意味も、生にしがみつく理由さえも見当たらず、今更になって死にたくないと吐かす馬鹿に成り下がった覚えはない。

一歩を踏みしめ、また一歩。片足上げては、また一歩。砂利の擦れる音一つ。ここは死者の国かと問い掛ける影もなく、視界を彩る、極彩色の彼岸花。見上げる空には、巨大な二連星が並び、現実を否定する要素は、限りのない無限。

不思議なもんだ。あれほど忌み嫌った世界を、すんなりと受け入れている俺自身が居た。死んだら最期。無に帰す未来に、漠然とした幸福すらも感じていたのにな。

人生、何が起こるかわからないと、嘲笑の意を込めた微笑が、俺の口角を吊り上げた。


「どうも」


俺は、跳ねるように立ち止まった。

……いや、違うな。自分の意識の及ぶ範囲外で、無意識的に立ち止まっていた。

何の前置きもなく、突然に鼓膜を震わせた声は虚妄か、現実か。しかし、確かに聞こえた声の主は、確かに俺の眼前に立っていたのだ。気付かぬ間の出来事に、俺は柄にもなく驚き、そして呆けていた。事は、本当に唐突だった。

「どこから現れた?」

注意力は散漫だったかも知れない。だが、間違いなく前を向いて歩いていた俺の眼前に、急に現れた少女の姿に覚えはなく、その名を呼んだ記憶もない。突如として、瞬間的に現れたのだ。

「この世界に、常識は通用しませんよ」

俺の心を読み透かしたかのように、少女は言葉を紡ぎ、静かに一礼した。

「貴方の船頭を仰せ遣いました」

「……船頭?」

「はい」と、少女は言葉を続ける。

「彼岸の旅路は長く、退屈ですから……」

少女の振る舞いは、ひどく冷静だった。

だが、なるほどな。初めての彼岸旅行に連れ添う船頭にしては、随分と端折った説明である。しかし、俺の理解力の及ぶ範囲内で汲み取るならば、つまる話は、こういうことだ。この少女は、俺の彼岸までの旅路をエスコートしてくれる、旅先案内人なのだろう。その間、俺の愚痴やら何やら、一挙一動に応答を返し、彼岸の旅路の世話を焼いてくれると……。

状況が状況だ。今は、地獄の悪鬼でも構わん。会話の一つでも交わせる相手が欲しかったところだ。

「そういうことならば、遠慮なく世話になろうか」

「はい。よろしくお願いします」

朱の着物を纏い、純黒の髪を揺らす少女は、また一つ、小さく頭を下げた。

「では、参りましょう」

凛とした表情で、キレよく身体を翻した少女は、俺の先に立ち、静かに一歩を踏み出した。俺は、その背を一瞥し、後に続く。

「一つ、質問してもいいか?」

「どうぞ」

淡々とした口調で、冷静に承諾する少女は、果たして何者か。聞きたいことは山程もあるが、第一に聞くべき質問は一つ。まず初めに、確認しておくべきことがあった。

「俺は、死んだのか?」

落とした視線の先、眺める手の平には紅い鮮血が通い、俺の意思のまま、それは自由自在に動いた。俺は、確かに俺自身だった。生きていた頃のまま、全ては自然な俺の身体、心、精神。俺は、自分自身が死んでいると自覚しつつも、内心では、未だに信じることができずにいた。

いや……死んだから、どうという訳ではない。ただ、死んだか死んでいないか。現実に在る不可思議な状況で、在る現実の真偽を知らぬまま、彼岸へと渡ることに意義があるのかと、この期に及んでまで思索に耽る心が在ったからだ。

「さぁ、どうでしょう」

だが、少女の口からは、何とも歯切れの悪い言葉が飛び出した。

「私は、ただの船頭です。ここへ来た人間が、死んでいるか否か……」

途切らせる言葉の裏に潜む真意を汲み取ることはできずとも、嘘か真実かは判別できる。

「それは、私にもわかりません」

少なくとも、少女が嘘を付いているとは思えなかった。

「そうかい」

俺は、渋々ながら納得する。小さく溜め息を吐きながら、俺は少女の横に並んだ。

「じゃあ、君は?」

「私、ですか?」

少女は、意外とでも言いたげな表情で、俺の顔を見据えた。

「ああ。君は死者か生者か。それとも、人外の存在なのか」

彼岸の渡し人が生者とあっては笑い話だが、少女の様子を見ていると、現世では縁もゆかりもなかった、極自然的な女の子との差異は、それほど見受けられなかった。生者ではないとしても、人間に準ずる何者かであると、俺は踏んだのだ。

「人間……だったというべきでしょうか」

「人間、だった?」

少女は、消え入るような声で、言葉を紡いだ。

「昔は、貴方と同じような人間でした」

昔は、と前置きする少女が抱く想いを察することは、俺にはできない。でも、確かに少女は人間としての生を受け、必然的な死を迎える理由を以て天寿を全うし、紆余曲折を経て今に至るのだろう。

「では、今は人間ではないと?」

「今の私が、人間か否か……」

少女は、じっくりと考えるように口元へと指先を当て、うんと唸る。

「考えたこともなかったですね」

その答えに俺は、声を大にして笑った。彼岸の彼方にまで響き渡りそうな、久方振りの大笑いだった。

「そうかそうか。考える必要もないか」

俺は、少女のひどく難しい顔を眺めながら、もう一度、大きく高笑った。

「元気の良い方ですね……」

少女は嘆息し、俺から視線を背けた。その視線の先に広がっているであろう、延々と続く彼岸街道。徒然なるままに、船頭の少女と連れ添う死後の往生への道。なんと可笑しな縁だろうか。ひどく愉快な気分は、不可思議な状況も相まって、暫くは収まる気配も感じられなかった。

いや。これはこれで悪くないじゃないか。都合の良い、常識外の理想を忌み嫌った日々に思いを馳せ、感慨深く思う。つまらん人生に翻弄されていた俺に、「馬鹿め」と言ってやろうか。

現実主義?大変結構。だが、現実に縛られながら、日々を生きていた貴様は、何を至上の幸福と信仰した?今の俺と出会った貴様は、俺の顔を見て何と思うか。

夢追い人を馬鹿と笑い、宗教は負け犬の集いと嘲笑った俺が、彼岸の旅路で出会った少女の一言一句に笑い、至上の幸福を見出している。こんな俺を、貴様は馬鹿と笑えるのか?

俺は、そんな貴様を馬鹿と笑っているぞ。

「……」

抑えられない笑みを見て、少女は何を思うか。訝しげな視線を注ぐ少女の溜息は止まらない。

「貴方のような方は、珍しいですよ」

「いや。こんなに楽しい気分は久しぶりなんだ。許せ」

俺は、遥かな夜空の煌めきを仰ぎ、非現実的なまでに美しい二連星に、大きく一つ嘆息する。続けて、彼岸の霞を胸いっぱいに吸い込んだ。

「死んでいるかもしれないのに、楽しいんですか?」

呆れ顔の少女の視線は、俺の瞳を見据える。その瞳は、蒼穹の蒼。感情を宿さず、心を宿さず、その瞳は深い蒼に沈む。

……だが、彼女の瞳は、俺の心に一筋の光を宿した。それは一点の曇りなく、果てなき心を覆う、烈々なる感情だ。

「ああ、楽しい。目一杯に楽しい。死ぬほど楽しい」

少女と通い合った視線を逸らすことなく、言葉は流暢に口を飛び出していく。挙げ句の果てに、俺は少女の背後に回り、勢いのままに、俺よりも一回りも二回りも小さな肢体を抱き留めていた。

「……」

小さな身体に、大きな影。読み取れる感情は希薄の一言に尽きるが、俺にはわかる。冷静沈着で、感情に左右されることなく、無心に与えられたタスクを熟しているのだろう。文句の一つも漏らすことなく、絶対主従の命に従順な少女の影を掻き消すことができる相手は、彼女に在るのだろうか。

「今ならば、君を抱き締めることも厭わない」

ひととき。俺を往生へ導くまでの果てしない彼岸行路は、彼女にすれば、刹那の出来事に過ぎないのかもしれない。しかし、その一瞬だけでも、俺は旅先案内人の良心になろう。旅先案内人の世話役になろう。

そう、思わせたのだ。この俺に、彼女は……。

「貴方のような方、初めてですよ……」

気付けば、少女の強張った身体は弛緩し、俯き加減の少女が零した吐息が、俺の腕を撫でた。それは、勤勉に生き、前向きに現実を追い続けた果てに死んだ俺に訪れた、非現実的な幸福だった。


……


彼岸の旅路は、懺悔の旅路。風の噂程度に仕入れた知識だが、道中を振り返ってみれば、不甲斐ない話である。世間話は満開の宴に笑顔が溢れ、他者の愚痴となれば、ヤの字も驚く悪言三昧だ。こりゃ、閻魔に「贖罪を示せ」と叱られても文句は言えんな。

悠々と辿る彼岸の旅路は、少女と連れ添う旅行のように感じた。

それから、みゆきの記憶を辿る旅路にも、微力ながらに付き合ったな。口を突いては飛び出す不幸と愚痴。こっちへ来てから与えられた使命に愚直に従った結果、失いつつあった感情の発露は激しく、俺が笑ってしまうほどの悪言も胸中に抱えていたらしい。

「幸の薄い人生だったわけだ」

「それは、お互い様ですよ」

互いに笑いながら辿る彼岸の旅路は、経年の感覚さえも靄に隠した。幾星霜の歳月が経過したか、定かではない。だが、長い長い時間が過ぎたように思う。一日か二日か。一ヶ月か二ヶ月か。一年と言われても、俺は驚くまい。濃い……とても濃い旅路だった。

俺の船頭を仰せ遣ったばかりの頃のみゆきは、どんな表情をしていたか。忘れようもない。あの頃は、表情や仕草、声音、挙動の一切から、彼女の感情を読み取ることはできなかったさ。冷徹で、与えられた使命を淡々と熟す少女の瞳に見た、暗く鈍った蒼の奈落を、俺は一生涯忘れることはないだろう。

俺は、みゆきの目を見据える。

「……何か、私の顔についていますか?」

疑問を問う少女が作る、きょとんとした愛らしい表情。視線の蒼は光を宿し、表現の幅を超えた美しい蒼に煌めく。この世のものとは思えぬ、この世のものではない、完成された美を、俺は眼前の少女に見た。

「いや……ただ見蕩れていただけだ」

嘘偽りのない言葉だ。素直に、俺は見蕩れていた。感情に左右される、不確かで未完成な少女が織り成す、不安定さが故の完成された美しさ。

「……さらっと、浮いた台詞が言える貴方が、少し羨ましいです」

そっぽを向いたみゆきは、何を思うか。今ならば理解できる。揺れ動く感情が迸る一挙一動に感じる魅力に、俺の心は昂る一方だ。

そして……俺は願っていた。

「もし君と……現世で出会っていればな」

それは、俺らしくもない願いだったように思う。そうとも。変わったのは、彼女だけではなかったのだ。

俺は、生まれて此の方、生を願うことはなかった。死して尚も、生者への憧れ、羨望がこの身を焦がすことは、決してなかった。有り得なかった。

それが、この体たらくだ。こんな日が来ると、誰が予想できたか。人生、山あり谷あり死があり後悔がある。最後の後悔に内含される、少女が齎した、生きる意味。だが、手を拱く未来に在るのは、生者の権利を失い、閉ざされた感情、自我、意識が還る、無の境地。漫然とした死の概念に、俺は今更ながらに恐怖を覚えていた。

もう、君と言葉を交わすこともできず、君を君と認識することも、君という記憶さえも消えて無くなる。これが恋情かと気付いた頃には、全ては泡沫となって消えてしまうのだ。それが、堪らなく怖かった。

「何故、俺は死ぬのか」

無意識が、言葉を紡いだ。果ての見えた彼岸の旅路の終着点。永劫の忘却が、間近に在ると、意識の前面を覆った途端に、俺の足は歩みを止めた。

「……ゆずきさん」

君の声も、今は遠い。やがては、永遠に届かない距離に遠ざかってしまうのだろう。我慢も利かず、咄嗟に掴んだ少女の手は細く、強く握れば折れてしまいそうだった。

「君は……君は、この先には進めないのか?」

俺は、必死に問い掛けた。一縷の希望は、君と一緒に消えること。往生の道が在るのならば、君と一緒に往生すること。それだけが、俺の望みであり、希望だった。懺悔もない。他に望むこともない。たったそれだけ。たったそれだけの願いは、憂いの全てを拭う、最初で最後の望みだった。

……でも君は、ひどく寂しそうに俯くんだ。

「私は、貴方の船頭です。貴方を、ただ送り届けることしか、私にはできない……」

「君は愚直すぎた。愚直に命令に従いすぎたんだ。もう、いいじゃないか」

望みは俺を奮い立たせ、蝕む。正と負の両面が、俺の全て。可能性に縋る俺を救うことができるのは、可能性の是非を天秤に掛ける君だけだった。

「これで、お別れなんです。これ以上、貴方と一緒に居ては……意思が揺らいでしまう」

みゆきは、俺の手を取った。俺の誘惑を退けるように、俺の意思をねじ伏せるように……行く。一歩を踏み締めては、また一歩。逝く先に待つ、圧倒的な無へと、着実な一歩を踏み締める。

俺は、みゆきに手を引かれるがままに、足を動かすことしかできなかった。

「……そうか」

俺に残された手立ては、もう欠片も残っていないと、みゆきの表情が物語っていた。ほんの一瞬、足掻く気力も残ってはいなかった。果てなき、彼岸までの旅路。船頭の少女と交わしたひとときの逢瀬。須らく、無に帰す覚悟を決めることなど……俺には無理なのだろう。覚悟もなく、ひどく新鮮な味を醸す後悔を抱えたまま、俺は消えるのだ。

……ならば、最期に一つ。船頭に我儘を強請っても、赦されるだろうか。想い一瞬、少しでも後悔を先に逝かせるための願いを、眼前の少女に叶えてもらうことを……許してもらえるだろうか。

「最期に一つだけ、いいか?」

俺は、みゆきの目を見据えながら、問い掛けた。鬱々とした表情を浮かべていた少女の瞳が、俺の視線とぶつかり合った時は一瞬。しかし、永遠とも感じる刹那。通い合う心は、幻か、虚妄か。

やがて、みゆきの柔和な微笑みが、場の膠着を解いた。

「私は、貴方の船頭です」

みゆきは、答えた。その美麗な微笑みが、俺の心を掻き乱しているとも知らずに……。

瞳に見る、蒼穹の蒼。漆黒の髪。しなやかな肢体。懺悔の心を失くした俺に、閻魔の腸は煮えくり返っているかも知らんが、俺にはこれっぽっちも関係のない話だった。

「船頭として、貴方の頼みならば……どんなことでも聞きましょう」

柔和の微笑みの裏に秘めた憂いは、俺への思慕か。込み上げる想い同士が交錯し合う現状に、俺は強烈な寂寥感を感じた。仄かな恋情は、烈々たる純愛の様相を見せ、昂る気持ちの矛先は、眼前の少女に向かって迸る。在るのは、猛る願い一つ。どうか聞き届けて欲しい、と願う心は……直に消える。その前に、もう一度だけ……。

「もう一度。あの時のように、君を抱きしめたい」

これが最後、二度目の願いだった。

「……はい」

一つ、確かに頷く少女の瞼は、そっと閉じた。凛と立つ姿は、彼岸の朱を纏った優美の権化。二連星の煌めきと、彼岸の朱に包まれた遠い遠い存在を、俺は自らの腕に抱き留めた。

「……」

ふわっと鼻腔を撫でる花の芳香は、どこから漂う香りか。きっと、少女の艶やかな黒髪から薫るのだろう。柔らかな背に腕を回し、そっと抱き締める華奢な身体は、俺の震える腕が折ってしまいそうだった。

一つ願い叶わず、二度目の願いは聞き届けられた。もう、思い残すことはない。今ならば、消えてしまえるだろう。

「ありがとう」と、長い彼岸の旅路を連れ添ってくれた船頭に、俺は溢れる感謝を述べた。


「……」


刹那、俺の鼓膜を震わせた、表層意識に響き渡るかのような遠い響きを、俺は聞き逃さなかった。

「……声?」

少女の囁き声かと、重い視線を落とした先には、長く遠い距離を辿ってきた彼岸街道を、じっと凝視する少女の姿があった。微動だにせず、凛と強張った姿勢に見るは、確かな希望。

「……呼んで、いますね」

そっと囁く声に追従するように響き渡る、意識に語り掛ける音。それは、声だった。俺の名を呼ぶ、何者かの叫びだった。

「俺の名だ」

その声に、俺は俺の名を聞いた。「ゆずき」と、確かに呼ぶ声が在ったのだ。

俺は、腕の中で静かに身体を凭れる少女を、ぎゅっと引き寄せた。

「貴方には……まだ帰るべき場所が在るんですね」

みゆきは、俺の腕から摺り抜けるように、俺の眼前へと立った。

「……どういうことだ?」

俺は、仄かに残る少女の温もりを帯びた手を、静かに見下ろした。反して少女は、静かに顔を擡げ、俺の目を見据えていた。

「ここから先は、死者の逝く世界」

凛とした表情で、姿勢は崩さず、少女は淡々と告げる。

「彼岸の旅路は、生と死の狭間に在ります」

極彩色の彼岸花が咲き誇る、現世と後世を繋ぐ彼岸街道。俺と船頭は、確かに旅路を連れ添った。

「そして貴方は……『生者』のまま、ここを訪れた迷い人なのでしょう」

冷静な声音で告げる少女の声に、確かな覇気が灯った。

「目覚めの時です」

それは、強い言葉だった。同時に、少女は俺に背を向ける。

「待て!」

その背に、俺は咄嗟に言葉をぶつけた。背を越え、心を目掛けて、言葉を投げ放ったのだ。不安定な弾道で、狙いも定まらずに飛んだ言葉は、果たして君に届くかどうか……。

だが、その言葉に呼応するかのように、少女は静かに歩みを止めた。やがて訪れた長い長い沈黙に、少女は何を思うか。反射的に呼び止めてしまった俺の胸中に蟠る想いは尽きずとも、反して言葉は浮かんで来ない。喉元まで突き上げた言葉は、そこから先へと飛び出すことは叶わず、ただただ長い沈黙が、場を包み込むのみ。

しかし、長い静寂を打ち破ったのは、俺に背を向け、去り際の様相を呈していた少女の方だった。

「……貴方が、この地を再び踏む頃。彼岸までの旅路は、また少しだけ伸びていることでしょう」

彼岸街道の果てに、俺と船頭ただ二人。交わす言葉は見つからず、船頭の背を、ただじっと眺め続けることしかできない俺は、燃え盛る恋に焦がれ過ぎたのかもしれない。

「死者の数だけ道は伸び、死者の数だけ花は咲く……」

ここへ辿り着くまで幾星霜。果てしない旅路に思えた延々の街道を彩る、死者への手向け。それは、死者が死者に送る、魂の残り火だった。

俺は、少女の元まで早足に向かう。だが、少女は振り返り、俺を制した。

「しばらくのお別れですね」

その表情は、満面の笑みだった。見たこともない、みゆきの笑顔に、俺は柄にもなく我を失っていた。

「しばらく、と言ったな」

「はい」

その言葉は、永久の別れを指す言葉ではない。また再び、君との再会を約束する言葉だ。

「また、貴方と彼岸の旅路を連れ添うまでに、主の赦しが得られたならば……」

微かな憂いを垣間見る。だが、紡ぐ言葉に宿る光は、俺が願った我儘を叶える可能性を示唆する希望の光。

「きっと、共に往生致しましょう」

俺が、焦がれる程に待ち望んだ言葉だった。

「必ず……必ずだ」

俺は、みゆきに自身の小指を差し向ける。可能性を約束に変える、まじないのための小指に、少女の細い指が絡んだ。二連星の煌めきを浴び、青白く輝く、小さな小さな小指。俺は、まじないを込めるように、小指同士を強く結んだ。

「約束は、必ず守ります」

少女は、ゆっくりと結ばれた小指を解くと、袂から小さな髪留めを、宙に浮いた俺の手に握らせた。

「……これは?」

彼岸花より淡く、鮮血よりも薄い朱の髪飾りと少女を交互に見据え、問う。

「約束は、約束したことを記憶していなければ無効です」

真っ直ぐに、整然とした美しさを醸す少女。少女は、再び笑った。そして、俺に手を振った。

「私のこと、忘れないでください」

その瞬間、みゆきの目尻に煌めいた想いの奔流を、俺は死んでも忘れることはないだろう。暗転する視界と、立つこともままならない程の目眩。輪郭の霞む意識の片隅に残る少女へと、手を振り返そうと思った時には、俺の意識は混濁した闇へと溶けて、消えていた……。


……


「おい!ゆずきッ!」

「……」

怒号ともつかない叫びを聞き、急激に覚醒する意識、自我。明瞭とは言えない視界の片隅に佇む、見慣れた同僚の顔に、俺は混乱を覚えた。

「ゆずき!俺がわかるか?」

「……誰だ、お前は」

無論、その顔に覚えはあった。散々見飽きた顔だ。

「それは、軽口と捉えていいんだな?」

同僚の安堵に満ちた顔が、徐々にパーツも識別できる程度に視界を埋め尽くす。起き上がろうにも、身体に力は入らず、同僚の顔が近いため、起き上がる気力も生まれない。

「……何故、ここに居る?」

「お前がぶっ倒れたと聞いたから、飛んで来たんだろうが!」

キンと耳障りな声に、俺は顔を顰める。相も変わらずに喧しい男だった。ここは病院と理解しているのかと問いたくなる。

だが……有難い話でもあった。

「そうかい」

とは言え、言葉には出さないし、出す気も更々無い。それよりも、俺には大事なことがあった。

「ん、お前……何を持っているんだ?」

丁寧に覆い被せられた毛布から手を出し、眼前に掲げた俺の手中には……小さな小さな髪留めが握られていた。それは、確かに朱の髪留めだった。彼岸街道、彼岸の旅路で出会った、みゆきとの邂逅の証。約束を喚び起こし、約束が約束であるために必要な、俺とみゆきの絆の証明だ。

「いや……何でもない」

俺は、静かに答えた。だが、内心に渦巻く感情が複雑に交錯する様を、どう表現できるだろう。

冷静を装った言葉は、震えてはいまいか。感情の機微を悟られては終わないか。溢れんばかりの喜びと思慕、幸福の諸々が複雑に交錯する胸中の意を汲み取られやしないか。同僚も、馬鹿ではない。言外の情報を汲み取る力も、欠片程度には備えているだろう。

だが、それがどうした。それよりも、もっと大切な事を、俺は現実と理解したではないか。

そうだとも。俺は、絶対に失くしてはならないものを預かってしまったのだ。みゆきの元へと続く、一枚の切符。それは、小さな小さな髪留めで、大きな大きな意義を持つ、君からの預かり物だった。

みゆきの温もりが残っているかのように火照る拳を、再び握り締めながら、俺は天井を眺める。

「ついでに聞くが……お前は何故、笑っているんだ?」

「ん?」

同僚に指摘され、自分自身の表情筋に触れてみれば、なるほど。確かに、俺の口角は吊り上がっていた。無意識に、気付かぬ間に俺は、あの逢瀬を思い返し、微笑んでいるようだった。

「いや……」

だが、俺は言葉を濁す。何と答えるべきか、ひたすらに言葉を探せど、脳裏を掠める答えの全ては、一向に的を得そうにない。

しかし、だからと言って、課せられた問いに対し、敢えて答えを絞り出す必要なんぞは、これっぽっちもないのだろう。君との逢瀬を、此奴に語り聞かせることに意義が有るか否かと問われれば、答えは自ずと決まってくる。

そうさ。たった、一言。良い答えがあるじゃないか。

「……そうだな。死ぬ楽しみが増えた」

嘘は付かず、無難に、妥当に……俺は、床に寝そべりながら答えた。同僚に、彼岸の街道で邂逅を果たした少女との旅路を語り聞かせても、脳に障害が残った程度にしか思われないだろう。

それに……だ。

俺は、病室の窓から、ひたすらに蒼一色に染まる蒼穹を眺める。

「妙な奴だな……」

何とでも言うがいい。俺とみゆきが、二人で連れ添った日々を知る第三者など、居ない方が良いに決まっている。俺とみゆきだけが知る、二人だけの邂逅、旅路、約束だ。閻魔も知らず、神さえも知る由はない。

だが、それでいい。それでいいのだ。

俺は蒼穹の蒼に、みゆきの瞳の蒼を重ね見る。同僚も、仏も、神も、閻魔さえも知らなくていい。でも、君だけは……と、願う。

「覚えておいてくれよ……」

「え、なに?」

驚いた様子の同僚の阿呆面が、無性に気に障ったところで、俺は何も変わらない。

「お前ではない」

「……」

呆れ顔の同僚の顔は、それはそれは、ひどく懐かしかった。俺は、純粋な笑いに顔を綻ばせながら、手に握り締めた髪留めの存在に、君への想いを重ね偲ぶ。

「なんか……お前、変わったな」

相も変わらず、満点の呆れ顔が似合う同僚が、卓上に置かれたミカンを手に取りながら呟いた。

「変わった……変わったか」

なるほど。変わったと理解する同僚と俺の間に在る、長年の付き合いは伊達に非ずといったところか。

「確かに、俺は変わったんだろうな」

未知を否定し、空想を否定し、現実に執着し続けた俺は、未知に触れ、空想の彼方からやって来たかのような少女との邂逅を経て、今に至る。紆余曲折とは言ったが、明快とは言えずとも、単純な話である。俺が否定する要素が否定され、非現実を否定することに馬鹿馬鹿しさを覚えたのだ。

そう。在るものは在るのだ。

それにだ。俺は、ここに至るまでの体験の全てを、否定したくなかった。君との逢瀬が幻と思いたくはなかった。

そうさ。君は居て、これが在る。手に握り締めた、君からの預かり物を保険に掛けた約束は、確かな現実。そう信じて、今は生きようじゃないか。来たる日、君への土産話の一つや二つでは足りんだろう。土産話に、彼岸街道の極彩色にも劣らぬ花を咲かせようじゃないか。

「……」

昂る心は、君への思慕か、恋情か、未来への希望か。そのどれでもいい。そして、どれも間違いではないのだろう。

俺は、ニヤけ面を覆い隠すように、右の拳で顔を覆いながら、筋まで剥き終わった同僚のミカンを奪い取り、口に放り込んだ。

僕にも、極楽往生の未来が待っているのでしょうか。極楽浄土では、想像の及ばない素晴らしい生活が約束されていると聞きます。ならば、現世に於ける『人生』とは、後世に往生するために『罪を償う』ための世界なのでしょう。

もし、死したら最期、須らく無に帰す未来が待っているとしても、それは時間や苦楽等々、あらゆる束縛から開放される瞬間でもあります。

僕らが生きる世界とは、そういうものなのでしょう。


話が逸れましたが、最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。

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