婚約破棄からはじまる自分探し(短編版)
アリシアが許せないのはたった一つ。
目の前でしっかりと手を握り合った二人ではない。
固い決意で自分に婚約破棄を願い出た婚約者個人でも、婚約者がいると知りながら恋の熱に炙られた彼女個人でもない。
自分だ。
だが自分の愚かさではなく、浅はかさでもない。
必死で育ててきたアリシアという立派な木。
完璧と謳われる王国きっての才女。
平凡な自分が必死に取り繕って作り上げた虚像。
ここまで血の滲むような努力をしてきた。
だから、それを壊されるのだけは我慢ならない。
この名を傷つける事。
それだけがアリシアの絶対に許せない事だった。
「庭園のデミリシア、野山のアルテミシア、という言葉をご存じ?」
アリシアは向かい合って座っている二人の内、婚約者を奪い去ろうとしている彼女にそう語りかけた。
さっと顔を青くした彼女の名はリリー。
口に出したことはないけど、かわいい名前だと思う。
震えて声を出せないリリーに小首を傾げることでだんまりを許さない。
果たしてリリーはアリシアのプレッシャーに負けて答えた。
「う、美しいものと、粗野なものの例え、です…」
確かに、近年そんな使われ方をしている慣用句だ。
デミリシア、紫の大輪を咲かせる、華やかな庭園の主役。
アルテミシア、草原の下草に紛れてしまう薄緑の小さな野花。
紫の瞳を持つアリシアと、緑の瞳のリリー。
学園内でもよく引用されて嘲笑されたことをリリーは思い出す。
だがアリシアは自分の意図とは違う答えを返したリリーにきちんと伝えた。
「不正解よ」
そもそも最近の若者は言葉の乱れが酷いのだ。
同じく若者であるはずのアリシアはそんなことを思った。
それを真実と思い込まれるのは、この言葉があまりにもかわいそうだ。
とてもいい言葉だと思うのに。
「デミリシアも、アルテミシアも、どちらも美しいものの例えよ」
アリシアの名の由来でもある。
捻じ曲げられてはたまらない。
だがリリーにはそれだけでは不十分だったらしい。
婚約者、ユージンには伝わったようだが、驚きに目を見張って固まってしまっている。
一体、私をどんな人間だと思ってるんだか。
アリシアは心の中だけで苦笑した。
アリシアという人物は表情を不用意に崩したりする人間ではないからだ。
「婚約破棄を、承諾してくれると言うのか?」
恐る恐る問いかけてくる婚約者との距離は最後まで縮まらなかった。
けれど、思い返してみれば、いや思い返さなくとも明らかに、自分が悪かったのだとアリシアは猛省する。
幼い頃からの同い年の婚約者。
家格としては彼の方がかなり高い。
希代の才女になるだろうと言われていたアリシアだからこそ来た縁談だ。
だがアリシアとユージンとの間柄は婚約者という甘い関係よりは、教育者と出来の悪い生徒のようだった。
「私に恥をかかせないでね」
アリシアにとっての婚約承諾の挨拶は、ユージンにとって多大なるプレッシャーとなってのしかかった。
完璧に立ち振る舞う少女からの激励。
会うたびに指摘される不十分な教養の数々。
アリシアは自分がしてきた努力を相手に求めた。
自分が出来たのだからできないわけがない。
少しだけ言い訳をさせてもらえるなら、アリシアはユージンを仲間だと思っていた。
共に手を取って戦っていく相手だと。
戦うなら武器は多い方がいい。
隙はない方がいい。
けれど、口では伝えられなかったそんな傲慢な思い込みがユージンを追い詰めた。
アリシアが調子に乗って、天狗になって、そして周囲の期待が際限なく大きくなり、応えることに必死になっていた頃の話だ。
本人にとっては黒歴史。
ユージンにとっては暗黒時代。
それでもユージンは懸命にアリシアの要求に応えようとしてくれた。
そんな素直な彼がアリシアは嫌いではなかったけど、きっと彼はそれを知らないだろう。
アリシアの前世の記憶の中に、今の自分と同じような経緯を辿った物語は数多く存在した。
娯楽に溢れた世界だったのだ。
あの主人公たちなら、こんな道を歩んだりしないに違いない。
婚約者は救うものであって、トラウマを植え付ける対象ではなかった。
そもそも、物語の主人公たちは褒められて調子に乗って、身の丈以上の期待に無理という一言が言えなくなるような事態は招かない。
―まあ、今となってはそれこそが私のプライドだけど。
10の年から貴族子女・子息のための学校に通いはじめ、顔を合わせる機会が減っていたユージンと、再開の挨拶を交わしてアリシアは自分の失敗を悟った。
「お久しぶりですユージンさま。大過なくお過ごしでしたか」
「君が心配するような『過ち』は犯してないから安心してほしい」
「…そのようなつもりで言ったのではございません」
「ではどのようなつもりだった?もう俺は君に監視されるような子供ではないよ」
「そのように、思っておいででしたか…」
近付くと談笑が止まり、表情が強張り、緊張に身を構える彼に、一体どんな言葉をかければよかったのか。
しかもアリシアは、いつかは分かり合えるだろうと自分たちの関係を棚上げした。
別の女性に心惹かれるのは当然だ。
だから婚約破棄の打診に答える言葉は一つしかない。
「婚約破棄、お受けしましょう」
アリシアはしっかりと二人を見据えて言った。
瞬間、喜色を浮かべ、握っていた手を強く握り直したのが見える。
見合わせた目の中にはきらきらと輝く恋の星々が揺らめいていた。
「ただし、条件がございます」
アリシアの無造作な一言に二人の笑顔が凍り付いた。
恐る恐る顔を向けるユージン、窺うようにみるリリー。
そんな簡単にうまくいくわけがなかったとでも反省しているのかもしれない。
実のところ、ユージンに特別な感情を持たないアリシアは、二人を祝福することに否やはない。
それでも、譲れない条件がアリシアにはある。
だって、ここまで頑張ってきたのだ。
「でも、たった一つです」
アリシアはにっこりと笑う。
柔らかな雰囲気を持つリリーには及ばずとも、できるだけ優しく見えるように。
―脅しを込めて。
たった一つ。
つまり、交渉も譲歩も不可。
それは成し遂げなければならない最低条件なのだと、きっと伝わったことだろう。
いまユージンの隣にいるリリーという少女をアリシアは知らなかった。
正確に言えば、ユージンと惹かれ合っているという事を知らなかったのだ。
平民出身だが希少な才を見出され学園に入学を許された、見目も麗しい、神に愛された娘。
平民と貴族では生活習慣も、常識も、大いに違う。
アリシアがリリーに目を止めた時には、その齟齬が反発を招き、貴族の娘たちに目の敵にされていた。
平均平凡な自分の前世を思えば、注意の一つもしてやりたくなるのが人の常。
他の娘たちのように彼女の態度に反感など抱かなかったけれど、『教え』の優しさくらいは知っているつもりだ。
槍玉にあげる前に言葉で話す。
貴族の娘たちにもその重要性を示そうとアリシアは行動した。
貴族の模範として、きちんとリリーに注意した。
陰険な虐めと思われてはいけないから、人の目がある場所を選び、相手のプレッシャーにならないように取り巻きに口は挟ませなかった。
いけないことはいけない。
駄目なことは駄目。
なぜそんなルールなのか、知れば頭にも入りやすいだろうと滔々と貴族の歴史を語ったこともある。
アリシアとしてはまったくの親切だった。
目をかけているつもりだった。
取り巻きの一人にリリーとユージンの仲が急接近しているのだと教えられるまで。
それを聞いてアリシアが何を思ったのか。
余計な知識を持っている者ならだれでも思い至ることに、当然気付いた。
―これはいわゆる婚約破棄ルートというヤツではないか!
意図したことではなのに、前世で言う悪役令嬢の立場に置かれている。
悪役令嬢に待っているのは大概が身の破滅。
そんな馬鹿な、というのが正直な感想だ。
生まれてからこれまでの人生を、呆然としながら振り返ってみたりもした。
なにが悪かったのだろう。
アリシアの中の人はあまり賢明ではないと自覚しているだけに、何度やり直しても結局同じ結果に行きつくだろうという情けない結論が出たことが僅かな収穫だろうか。
二人の邪魔をする選択肢はない。
なら婚約破棄を受け入れるしかない。
「って、冗談じゃないわよ!」
一人の部屋で思わずアリシアは叫んだ。
いや、婚約破棄はいい。
心情的にも問題はない。
問題は世間体だ。
見栄で固められ、あの王族にすら麗しき小さな貴婦人と呼ばれたこの人生。
アリシアが一番大事なのは自分だった。
この見栄こそがプライド。
婚約破棄とは、つまりそれを傷つけられることに他ならない。
「ぜっっったいに、イヤ!!!!!」
沸き上がる嫌悪感はきっと数多の悪役令嬢と同じだけの質量を持っていた。
負けないくらいの拒絶だった。
想像してみる。
婚約破棄をされて、ひそひそと影で囁かれる光景を。
「もしかしたら性格が悪いのかも」
「それとも金遣いが荒い?」
「なんにしてもきっと何か欠点があったのよ」
「あの娘、婚約破棄されたらしいぜ」
「ユージンにだろ?性格も穏やかな奴なのに。よっぽど耐えかねることがことがあったんだろうな」
「見て、平民の娘如きに婚約者を寝取られたアリシアよ」
「まあ、あんなに貴婦人然とした態度を鼻にかけてたのに。おかしいこと」
「同じ貴族として見られたくないわね。まあ、私なら恥ずかしくて顔なんて出せないけど。彼女、皮の面がよほどお厚いのでしょう」
想像だ。
けれど、隙を見せれば噛み付いてくる貴族社会を甘く見てはいけない。
アリシアはその想像が未来の現実とそう乖離してはいないはずだと確信していた。
出る杭は打たれる中で、意地とプライドでその切欠すら与えなかった自分だけにここぞとばかりに叩きにくるに違いない。
「このアリシアが!好奇の目に晒される!?嘲笑される!?―嘘でしょう?」
思わず中空に問い掛けた。
完璧に作り上げたアリシアという作品。
「…無理。ない。許せない。我慢ならない。あり得ない」
だけど同じだけ、悪あがきする悪役令嬢の道もない。
恋に溺れて形振り構わなくなった婚約者たちに追い詰められて、舞踏会の場で濡れ衣を着せられてジ・エンド。
よくある結末。
「ない!濡れ衣とか、不名誉とか、惨めとか、没落とか!『アリシア』に相応しい言葉じゃない!」
だがしかし、婚約破棄などという恥はかきたくない。
「…なにか方法は、いい方法はないの?『アリシア』に傷をつけない方法」
それからアリシアは必死に探した。
これまでの血反吐を吐くような努力以上に、寝る間も惜しんで考え続けた。
そうして今日この日、ついにタイムリミットがやってきた。
婚約者と緑の瞳の少女の姿で。
「…その条件とは?」
ごくりと唾を飲み込みながらユージンが切り出した。
「ユージン、あなたと婚約するときに私が言った言葉を覚えてる?」
「恥をかかせるな、と」
「そう、その通り」
よくできましたと、優秀な生徒を褒めるように笑った。
長年の付き合いだけあって、彼はアリシアが何を最もいやがるかを知っている。
アリシアの言いたいことは十全に伝わったようだ。
「も、もちろんこの婚約は君から破棄の申し出があったことにする。リリーとの関係も、ほとぼりが冷めるまで公にはしない」
そんなことは当たり前だ。
やって当然。
婚約破棄を願い出た側の義務でしかないから、アリシアは鷹揚に頷くに留めた。
「それから、それから、…この件で君を悪く言う事を俺の名で禁じよう!」
心の中で思わず噴き出した。
世間ではそういうのを逆効果という。
人の口に戸は立てられぬと言うではないか。
まして禁じられればやりたくなるのが人の性。
世間知らずのお坊ちゃんは相変わらず素直でかわいい。
この純粋さをいつまでも失わないで欲しいものだ。
本当は実際にどちらが婚約破棄を言い出したかなんてどうでもいいのだ。
口さがない者は、言うだろう。
ユージンが悪かったに違いないと、あるいはアリシア、噂を聞きつけてリリーだって槍玉にあがる。
一定数の憶測が飛ぶのは仕方がないし、当然のことだとアリシアだってわかっている。
だからアリシアが出したたった一つの条件は、最初から決してクリアできない課題。
だけどもしかしたら、という希望があったから聞いてみた。
ユージンとリリーが、自分が思いもよらない、あっと言わせるような方法で解決してくれることだってあるかもしれない。
それくらいにはアリシアも自分が万能ではないと知っていた。
「無理、という結論でよろしい?」
薄く笑ってアリシアは答えを急かす。
心の中の落胆は見せない方がいいだろう。
「待て、待ってくれ。考える、他にいい方法がないか、考えるから時間をくれないか」
与えられたチャンスを必死に掴もうとユージンが額に汗を浮かべながら言い募る。
アリシアはゆっくりと首を振った。
最初から無理難題だったのだから、恥じることはない。
「アリシアさま、わたしにも一つお聞かせください。あなたの失いたくないものは、ユージンさまなのですか、それとも本当に名誉なのですか」
時間切れを口にする前に、リリーがアリシアに話しかけた。
時間稼ぎかと思ったけど、リリーの目はここにきて初めてしっかりとアリシアを見ていた。
話が終わる気配を前に、きっと、それが彼女の、どうしても聞きたかったことなのだろう。
「名誉よ」
きっぱりと言い切ったアリシアに、リリーは痛みをこらえるような顔をした。
おや?とアリシアは気付く。
これは、恋に縋れないプライドの高い女の矜持だとでも思われているのではないか。
言葉が足りなかったかとアリシアは再び口を開く。
「嘘偽りなく、迷いもなく、一点の曇りもなく、選択の余地もなく、私は私の身が一番大事よ」
自分とユージン。
見栄と淡い仲間意識。
世間体と共に過ごした思い出。
プライドと婚約者。
どれをとっても天秤にかけるには一方が軽すぎる。
塵芥に等しいと言ってはあまりにも彼に失礼だろうが、それが偽らざる本音だった。
言葉にしたのはかなり控えた表現のつもりだったけど、それでも言い過ぎだったのだろうか。
アリシアは口をぽかんと開けたリリーと、目を点にしているユージンを眺める。
「アリシアさま?」
「はい?」
「…あの、信じてもよろしいのでしょうか」
「あなたと私が恋のライバルではないことを?ええ、それはもう魂に刻むくらい深く信じてくださって結構よ」
きりりと答えたアリシアに、リリーはやっと信じてくれる気になったのか、小さく笑顔を零す。
実際はアリシアの言い回しに思わず笑っただけだけど、その時のアリシアはユージンが惚れるはずだと、妙な納得をした。
「私からも質問があるの。リリー、あなたの覚悟の話よ」
「はい」
「あなたはユージンのためにどこまでできるかしら?」
試すように聞く。
リリーは急き込む様に答えた。
「なんでもやります!なんだってします!」
「いい返事ね」
その勢いに思わず笑い声が漏れる。
「わ、笑った!」そんなユージンの驚きの声が聞こえたけど、彼はいま部外者なのだ。
黙っていてほしい。
「例えば?」
「た、例えば?…ええと、貴族のマナーや教養を身に着けるための努力は厭いません!泣き言など言いません!」
「いいことね」
「学園での成績も落としません。ユージンに相応しいと思ってもらえるように、自分だって磨きます。貴族令嬢の模範とまで謳われたアリシアさまに認めて欲しいから!」
「そうね、私のようにただの伯爵令嬢が侯爵子息であるユージンの隣に立てたのはひとえに私の努力の賜物でしょう。その後を継ぐあなたにはきっとそれ以上が求められる。身分という壁、私という壁、生半可な覚悟では歩けない道よ」
ぐっとリリーが体を強張らせた。
未来の道の険しさに、今さら臆したわけではないだろう。
その瞳には強い光があるから、きっとただの武者震いだ。
さて、脅すのはこれくらいにしておこう。
聞きたいことは他にある。
「失うものも多いわ。例えば、家族と二度と会えないかも」
「……は、い」
「引き返す道はないわ」
「はい」
「今までの自分に別れを告げる覚悟が本当にあって?何もかもとの決別よ。思い出、家族、友達、生活、その全て」
「はい」
リリーはしっかりと頷いた。
それを確かめてアリシアはユージンに目を向ける。
「あなたにも同じだけの覚悟があって?リリーを最後まで愛し抜く覚悟が」
「ある!」
「きっとあなたの隣に立つリリーは今の彼女とは別人よ」
「俺は彼女の心の美しさに惹かれたんだ。その魂に。何が変わっても、ただ一つ、それさえ変わらなければ、俺の心はリリーのものだ」
「そう、それはいい覚悟ね」
ユージンの答えに満足を覚えた。
さて、いま得た言葉を要約してみよう。
「リリーは全てを捨てて、ユージンと一緒になる覚悟がある。ユージンはリリーの心を愛している」
そういうことだ。
「リリー、もう一つだけ確かめておきたいのだけど」
「はい」
「あなた、体を捨てる覚悟はお在り?」
「……は?」
婚約破棄とアリシアの名誉。
両方叶える方法を必死に考えた。
一つだけ、アリシアは奇跡的にそれを見つけたのだ。
彼らは他の方法を提示できなかった。
ならばこれが最善だろう。
「覚悟があるなら、私と体を交換しましょう」
聞き間違いかと思った。
「魂の交換と言ってもいいけど」
けれどアリシアは言葉を重ねることでそれを許さない。
次に、リリーとユージンは必死でアリシアの表情の中から冗談を言っている事実を探し出そうとした。
だがにこにこと真意の読めない笑顔を浮かべるアリシアに冗談が入り込む余地はない。
やがてそれを本気だと悟ると、二人は慌て出した。
肉体と魂に関する魔法は須らく禁術扱いだ。
調べようとするだけで罪になり、扱うものは極刑と定められている。
「大丈夫よ、最初から『沈黙の壁』を使ってるから」
そこまでするなら、彼女は本当に禁術を扱えるのだろう。
誰にも聞こえない空間であると知って、ほっと座り心地のいいソファに身を沈めた二人は長い沈黙の果てに疲労を滲ませた顔でアリシアを見た。
「本気か?」
「ええ、もちろん」
「なぜそこまで。俺はいい、リリーのことも置いておこう。だが君は、それでいいのか」
アリシアは首を傾げる。
「いい考えでしょう?お互いの条件が見事に叶えられる唯一の方法よ?」
互いに好き合ったリリーとユージンは幸せに結ばれ、そこにはなんら障害がない。
なぜならアリシアとユージンは初めから婚約者同士なのだから。
一方、アリシアだって一番大事な自分の名誉は守られる。
だって、スキャンダルなんてそこにはない。
仲睦まじい男女が晴れて夫婦になるだけだ。
『アリシア』は幸福な人生を歩む。
『アリシア』がアリシアである必要はそこにはない。
それだけのことだ。
一方のアリシアだって死ぬわけではない。
新しい人生を得る。
そう悪くないように思うのに、ユージンは一体何が不満なのだろう。
互いに理解が十分ではないと気付いていたが、この年まで分かり合えなかった相手のことだ、すぐに諦めた。
一つだけ、念を押すようにユージンは問いかける。
「禁術だぞ?」
「それが?」
それはアリシアにとって守りたいものと比べてみれば、吹いて飛ぶような障害だ。
きっぱりと言い捨てたアリシアにユージンは天井を仰ぐ。
「俺は君を長い間誤解していたらしい。そんな振り切った考え方をするなんて知らなかったぞ」
ソファに身を預けたまま、ユージンは「はは」と笑った。
知っていればもう少し歩み寄る機会もあっただろう、と埒もないことを思う。
今の彼女にあの胃の痛むようなプレッシャーは感じない。
本当に今さらで、意味のない事。
大事なのは今。
自分と、愛する少女と、婚約者を辞める今になって仮面をずらしてみせた彼女と紡ぐ未来。
だから真面目な顔を作ってアリシアに問う。
「バレないと思うか」
「あなたのフォローがあればね」
家族くらいには言ってもいいだろうとアリシアは考えていた。
リリーの家族には特に。
いずれアリシアはリリーとして家に厄介にならなければいけない。
自分の家族には事後承諾が吉だ。
彼らは立派な貴族。
禁術を娘が扱ったことを他家に知られるわけにはいかないという秘密が良い働きをしてくれるはず。
「問題は、私の顔をしたリリーを、あなたが愛せるかどうかよ」
「俺はリリーの魂を愛しているのだと言った筈だ」
「天晴」
ユージンの即答にアリシアは拍手を送った。
そんなノリの婚約者を初めて目にした彼が複雑そうにアリシアを見たが、今は些細な問題だ。
そう、問題はリリー。
「ユージンは了承したわ。あとはリリー、あなたの答え次第よ」
突然示された解決法はリリーの予想をはるかに超えて、いまだ理解の及ばない空間にある。
「別にいいのよ?嫌ならば何も変わらないだけ。私はユージンの婚約者のまま。もちろん、婚約者である以上は彼を縛る権利はある。私の名を傷つけるような女との逢瀬を、今後許すつもりはないわ」
逃げ道を塞がれたリリーは唇を噛みしめる。
覚悟を問われても、こんなのは想定していなかった。
ユージンとの関係だけを見れば、全ての障害は取り除かれ、リリーにはいいことばかりだ。
だからといって、そんな簡単に今までの人生は捨てられない。
けど、とリリーはアリシアの顔を見た。
アリシアは、本当にどちらでもいい後悔しない方を選べとリリーに言う。
そう、リリーが全てを捨てなければならないのなら、目の前の彼女だって同じはずだ。
考えてみれば、この話にアリシアの利は少ない。
リリーはアリシアとして貴族になり、アリシアはリリーとして平民に落ちる。
貴族が平民として生きることがどれほどのことか。
学園で貴族の生活に触れたリリーにはよくわかる。
アリシアは本当に美しい。
紫の瞳も、銀糸の髪も、高い鼻も、意志の強そうな唇も。
女性として羨ましくなる体形も持っていて、いつも伸ばされた背筋が実際より背を高く見せていた。
その所作は優雅の一言に尽きて、リリーはいつもあんな風になりたいと見惚れたものだ。
他の令嬢のように、彼女に陰口を叩かれたこともないし、自分の意志で注意だってしてくれる。
それはきっと優しさだった。
誰に恥じることなく凛と立ち、誰に阿ることなく真っすぐに歩く。
それがリリーの知っているアリシア。
そしてそれらが簡単には手に入らないものだとも知っている。
弛まぬ努力で手に入れただろう全てを、何の要求もなく、いまリリーに譲ろうと、預けようと、明け渡そうとしている。
それがリリーには不思議だった。
「なぜ、アリシアさまはこんなにもわたしに親切にしてくださるのですか」
「親切?…した覚えはないわよ。自分の望みに正直になった覚えはあるけど」
ここまでしてくれる人を無碍にはできない。
この無償の手に応えないわけにはいかない。
リリーは覚悟を決め直した。
必要な覚悟は、この人の努力を継ぐ覚悟。
「やります。アリシアさまの残りの人生を、わたしが立派に歩んでみせます!」
「…あなたなら、私以上に、私を輝かせてくれると信じてるわ」
ふっと笑ってアリシアはそう言った。
リリーにとっては人生で一番うれしい、最上級の褒め言葉。
がっちりと手を握った二人はその日、手持無沙汰な婚約者を置き去りにして親友になった。
準備は着々と進んだ。
「そもそも魂を肉体から剥離する負荷は相当なものよ。普通の人に二回と耐えられるものではないわ」
アリシアが言うには、その禁術は一回限りだという。
あれから二人は徐々に学園で仲良くなる振りをして、リリーが頻繁に家に遊びに来られる状況を作った。
そこで互いの人生を教え合い、周りを謀るのに必要な最低限の知識を交換したのだ。
一度だけ、リリーの家にも行った。
アリシアが頻繁に下町に降りるわけにはいかないから一度きりだ。
リリーはしきりにこんな生活が嫌だと思うなら今の内にやめてもいいのだと言ってきたけど、アリシアは柳のように受け流す。
納得のいっていないリリーにアリシアはこんな話を切り出した。
「私、小さいころ何度も死にかけたことがあるの。おかしいでしょう?私のギフトは『健康』なのに」
ギフトとは神の祝福だ。
それは魂に付随するものだから、アリシアとリリーが入れ替わればギフトも共に入れ替わる、とはアリシアの言。
リリーは慌てた。
ギフトは簡単に口にするものではない。
もちろん理由は人間の価値を左右してしまうものだからだ。
「あなたのギフトを知っているのに、教えないのも不公平だもの」
そんな中、リリーのギフトは知れ渡っている。
『魔法』だ。
それを見込まれ学園に入学したのだから知らないわけがない。
うっかり街中で使ってしまったのが今に至る運命の分かれ道。
リリーのギフトも希少だが、数あるギフトの中でアリシアの『健康』は最も喜ばれるものの一つだ。
死因に『病気』はあり得ないのだから当然の話だろう。
だからこその話をアリシアはしていた。
「お医者さまでも原因がわからなくてね。でもある日、『占術師』が言ったわ。私は肉体と魂の繋がりがとても希薄なんですって」
前世の記憶のせいだろうか。
せっかく生まれ直したのにまた死ぬわけにはいかないから、アリシアは必死になった。
このアリシアという人間を、生きることに。
その執着が吉と出たのか、やがて魂は安定したけど、『アリシア』を育てている気になっていた自分は、やはり肉体と魂を完全に融合させることはできなかったのではないか。
そんな気がした。
「だから、体を替えることにそんなに抵抗はないのよ」
アリシアをよろしく。
リリーはそう朗らかに笑ったアリシアに何かを言いたくなった。
けれど何も思いつかず、口を閉じる。
そうしてとある吉日。
二人は互いの了承のもと、体を入れ替えた。
ユージンは立ち会いたがったが、余計な魂は邪魔でしかない。
魂の混同でも起きたらそれこそ一大事。
丁重にお断りした。
アリシアの家で行われた禁術は派手な演出もなく地味に終わる。
「すぐに動こうとしなくてもいいわ。魂の定着まで少し時間がかかるの。気分が悪いでしょう?」
「…アリシア?」
額に冷たい指の感触を感じて、うっすらと目を開けたリリーの目には見慣れた顔が映る。
長年馴染んだ自分の顔。
「アリシアはあなたよ」
金色のまつ毛に縁どられた緑の瞳。
禁術は成功だ。
それでもくすりと笑ったその笑い方は、やはりアリシアのものだった。
眩暈に似た浮遊感に耐えられず、リリーは一度目を閉じた。
どれくらいそうしていたのか、わずかに回復を感じてふと瞼を開けると、アリシアがベッド脇からじっとリリーを見ている。
気付くと口を開いていた。
「…わたしを見てるの?どんな気分?」
声の高さに少しの違和感。
これがアリシアの声。
「そうね、手塩にかけて育てた娘を嫁にやった気分よ」
まさしく複雑そうな顔をしたアリシアが、自分のものであった顔を見ながら答えた。
思わずリリーは笑う。
それを見てアリシアは安心したのだろう、相変わらずきれいな所作で立ち上がる。
「起きるのは当分無理よ。このまま寝ているといいわ。ここはあなたの部屋ですもの。誰も文句を言ったりしないわ」
「…アリシアは?どこにいくの?」
「リリーよ、アリシア。間違ってはいけないわ」
まだ幾分かぼんやりとした頭で頷く。
「私は自分の家に帰るわ。貴族は不要な長居を嫌がるものだから」
「家族に挨拶は、」
「ちゃんと説明をしておくから安心して。そこからはあなたの努力次第よ。元から私には無関心な家族だから、関わらず生きていくこともできるけど。そうね、私の希望としては仲良くして欲しいわ」
私には出来なかったことだけどと自嘲気味に笑ったつもりの彼女は少し寂しそうに見えた。
彼女の家族に対する要望ははじめて聞いた。
絶対に叶えようとリリーは心に誓う。
「アリシア」
「もう、何度言ったらわかるの?私はリ、」
「アリシア、わたし頑張るわ。あなたに恥じない人生を、きっと」
「…リリー、あなたの人生よ。幸せを願っているわ」
彼女なら、アリシアを任せてもいいと初めから思っていた。
リリーという魂はアリシアを枯らしたりしない。
アリシアはリリーを得て、やがて天を突く大木にもなれるだろう。
そんなリリーに自分が返せるものはとても少ないから、アリシアはせめてもの努力を誓う。
今まで彼女が培ってきたもの、築いてきた関係。
リリーという人間を生きる。
「私も、あなたに相応しい人生を送ってみせるわ。弟ははじめてできるけど、立派な姉になってみせるし、自慢の娘にもなってみせる。あなたが残しただろう功績や―」
やるべきことを滔々と語る、完璧な淑女と呼ばれた彼女は、今度は完璧なリリーになるのだという。
リリーはこの真面目で実直な友人の真っすぐな覚悟に笑う。
「いいえ、アリシア。リリーはあなたが思っているほど立派な人間じゃない。だからもっと好きに生きていいのよ」
「…これ以外にあなたに報いる方法を知らないわ」
「なぜあなたがわたしに報いなければならないの?十分すぎるほどにもらったわ。アリシアという体と人生を」
「それなら私だって同じだけのものを貰っているわ。リリーの体と人生を。だからあなたがアリシアの人生を輝かせてくれるなら、私も同じものを返すべきでしょう?」
互いの常識が食い違っているような問答の果てにリリーは気付いた。
「…アリシア、あなたにとってわたしとあなたの人生は同じだけの価値があるものなのね」
「当たり前だわ」
アリシアは自分を貴族の中の貴族だと言うけれど、どうやったらあの顕示欲の塊のような連中の中で彼女が育まれたのか、リリーには想像もつかなかった。
脱力と共に深くため息を吐いてしまうのは仕方がない。
「ありがとう。あなたと知り合えたことが、わたしの人生最大の幸運よ」
「…大げさねえ」
リリーは感謝を伝えたかった。
だけど全然伝わらない。
だから彼女が自分に言ってくれた言葉を返す。
「アリシア、あなたの人生よ。リリーを生きなくてもいいの」
今度はちゃんと伝わったようだ。
ふと眉を下げて、困ったように彼女は呟いた。
「生き方は、一つしか知らないわ」
誰かを完璧に生きる、それ以外に知らないのだという。
ああ、とリリーは思った。
自分がこの愛すべき友に贈れるとてもいいものがある。
「あなたは自由よ」
ユージンの隣に立ちたかった自分に、その資格をくれた彼女だから。
かわりに自由を。
それは、いつか、彼女が自分のなりたいものを見つけ、なりたいものになれる権利だ。
「あなたが、いつか『あなた』を見つけることを願っているわ」
―心から。
そうしてリリーはアリシアになり、アリシアはリリーになった。
後の王国混乱期。
残された幼い王子は良識ある人々に育てられ、やがてその辣腕で中興の祖と呼ばれた。
彼の王は言って憚らない。
自らの母は強く優しい乳母であり、自らの父は厳しく聡明な宰相であると。
理想の夫婦像として長く伝えられるこの二人の名を、アリシアとユージンと言う。
王族の名が連綿と書き記される石碑に、彼の王の父母として名を連ねた、王家の血が流れていない唯一の名だ。
かつてアリシアと呼ばれた少女がどうなったか。
何者になったのか。
―それはまたの機会にでも。
婚約破棄してないから婚約破棄モノを謳えない!無念!
本当はアリシア嬢が真実の愛を見つけるまでの話だったのですが、ま、まあいいでしょう(汗
少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです~。