心は読まないで
コミニケーション能力はサラリーマンの必須科目だが、俺はコミュ力には自信がない。高校時代、心ない体育教師に準備体操で二人組を作れと命じられた経験が古傷となっている。あのとき、親友だと思ってたハヤトに「俺は女子と組むから」と裏切られ、途方に暮れて立ち尽くしていたらいじめられっ子のヘルメット君(髪型が円柱形)と組むことになり、体育館で座り込みながらお互いの背中を押し合ったしたりしている最中「ねえ、新木君。人間は醜いと思わない?」と耳許で世の中を憎悪する聞かされ、彼の暖かい手の平のぬくもりと共に人付き合いの難しさを知った。
俺は無理やり笑顔を作って「そうだね。初めてエロ動画やエロゲでモザイクを見た時は俺も規制する国家を憎んだよ」と返したらヘルメット君は「あ、新木君、みみみ未成年がそんなの見ちゃいけないよ。もうっ」と動揺した。人類を忌み嫌うヘルメット君が俺よりも純粋だったことがわかったときは自分が嫌いになりそうだった。準備体操が終わり戻ってきたハヤトが「全員に拒否られた」と生気の失せた顔で告白してくれなければ俺の心は救われなかっただろう。あのときは自分よりも下等な存在がいて本当に安心できた。
入社二日目――春のうららかな日差しが窓辺から差し込む。オフィス内の温度は緩慢に上昇し、眠気を誘う心地よさだ。
俺は発売中の商品の回路図と造形の記された仕様書を読んでいた。これらの渡されたときはてっきり派生する商品を開発するためかと思いきや、水原さんに「適当でいいですよ」と非常にアバウトな指示を頂いた。
放任主義なのか成果主義なのか、その両方か。売れ筋となる顧客の傾向でもわかればいいと過去の作品を吟味しているが決め手にかける。
よって、先輩社員の意見を拝聴したいのだが。
「……ふぅわぁ……ぉお、なんて白さ……ホワイティ……!」
目の前でトランス状態になっているバンダナさんは悟りを開いた覚者のように別の世界へとイってしまっている。瞳孔が開いて眼球が真上に位置し、口が半開きになり舌がでろんと口外へと出ている。悦楽の極致に達したお釈迦様のように見えなくもない。
神の領域に導かれたバンダナさんとコミニケーションを取るのはミッション・イン・ポッシブルだ。うかつに声をかければ昨日のように怯えられてしまう。とはいえ俺は世界を憎むヘルメット君と友達になった実績がある。クラスで一人ぼっちの彼をランチの席に招き、家に招待して対戦ゲームで遊び、臨海学校で砂浜に寝そべり同じ夜空を眺めた。次第に彼も冗談を口にし始めて誰よりも陽気になり、最後にクラス一の美少女を彼女にした。あのとき、準備体操に見せかけて肘を叩き込み延髄を砕いておけばよかったとたまに思う。つまりだが、一見して気難しそうな人でも誠意をもって接すれば仲良くできるかもしれないのだ。諦めてはならない。
あくまでさり気なく、慎重かつ大胆に行動しよう。
「そういえば昨日俺、ふわふわんを生で見ちゃったんだよなー。可愛かったなー」
誰に話しかけたわけでもなく、頬杖をつきながら明後日の方向を向けていった。バンダナさんのような人見知りの人間は他人と目を合わせるのが苦手だ。話しかけられるのもダメならばこういう絡め手で攻めるとしよう。
「ふっ……ふわふわん?」
瞬きの一切ない狂気を秘めた眼差しが俺に向けられる。虫が這いずったようなぞわりとした感触が背筋を襲ってきた。やや俺の心がざわめいたが手ごたえあり。
落ち着け直介。落ち着くんだ。釣りは焦ってはならないのが鉄則。奴はまだルアーを唇でちょこちょこ突いているだけだ。釣り上げるにはもう少し耐えなければ。まだ早い。まだ早すぎる。
「写メ撮ったんだよなー。あー……誰かにこの成果を自慢したいなぁ」
「……ん……ほっ、はっ」
「これなんてモロだしなぁ……すげえ可愛イィ」
「んんんっ……んぅんん!」
喉の奥から漏れる苦しげなうめき声。もどかしく、狂おしいほど切なげだ。
奴の心理状態として「話しかけたいけど、話しかけるのは怖い」といった具合か。
そうだ。奴は欲しがってる。俺に声をかけて欲しがっている。求められているのならば与えてやろうではないか。この意地汚い欲しがり屋さんめ。
そうさ、このエサを一息に食いつけばいいんだよ。何も怖くない。俺は怖くないんだよ。ただちょっと仕事のコツを洗いざらい教えてくれればいいだけだよ。
俺がスマホをバンダナさんに向けてかざそうと腰を浮かせた瞬間。
「新木さんは少女の股関節に興味がご有りなんですか?」
――伏兵が切り込んできた。
不意を突かれた俺に背中から袈裟切りを食らった感覚が襲ってくる。視界が揺れ、重力が倍加した。俺は机に手をついて態勢を維持するだけで精いっぱいだった。
ドッと首筋に脂汗を流しながら横を向けばメイドさん――機雁メメルさんが表情を固定したまま顔を向けている。彼女の与えた一撃は俺の社会的な信用を揺るがすものであった。しかも返す刀で俺のスマホを見ようと身を乗り出しかけたバンダナさんにも斬りこんでいる。
バンダナさんは虚ろな目で天井を見ている。奴は死んだ。もうダメだ。
俺には幾つかの選択肢があった。肯定と否定だ。だが、今の時点で残念だが否定はできん。既にスマホのデータは完全に露見してしまっている。妙齢の女性とってこれは悪魔の呪物に等しい。嫌悪感を招くのは必至。逃げ切れん。
さぁて……面白いほど窮地だ。どうする直介? 正直にいっちまうか。「俺は中学生から熟女までいけます」とかいっちまうか。男性アイドルが幅広い年齢層を獲得するためにファンを選ばない的な感じで特攻いくべきか。待て、それじゃあまりに白々しくないか。画像はふわふわんが地面に衝突したときの開脚ポーズだ。運よく背面から投げ出した生脚、更に尻を強調する形で捉えている。狙ったとしか思えない卑猥なアングルだが許されるのだろうか。そもそも、少女のあわれもない姿をシャッターで切り取るのはそんなにいけないことなのか。人は皆すべらかく原罪を背負ってるとかそんな感じで乗り切れないか。ダメだダメだダメだ! しっかりしろ直介! パンツじゃないから恥ずかしくないもん路線でいけ! パンツみたいに見えるけどパンツに見えない幻術を使うんだ。言語の魔術を使うんだ! よし決まったな! いくぞ、ウィザード直介! これが俺のエロ属性のイリュージョンだ!
「いえ、商品の参考にと。我が社では怪人関連の製品も扱っているようですから」
「そうですか」
かわした――俺は社会人に相応しい理性的な微苦笑を浮かべて顎を引いた。俺の脳内では機雁さんの右ストレートをスウェーバックでいなす映像が流れている。
ゆっくりと着席し、指先で資料をぱらぱらとめくる。何一つ解決したわけじゃないが面目は保たれた。商売のためなら少女の股関節を晒し者にする男という鬼畜なポジションを得てしまったが、生きるためにはある程度のことは受容しなければならない。生きることはすなわち地獄なり。
だからといって彼女に考える時間を与えてはならない。俺の印象が背徳の博愛主義者ということになってはこの先まずい。世間体的にどうなのよ、っていう話になってしまう。なんとか名誉を挽回せねばならない。
「ところで、機雁さんはどのような商品を開発されているのですか。差支えなければご教授頂けませんか?」
「ロボです」
「素晴らしい。こういっては失礼ですがロボのよさを女性がわかってくれるのは男子の本懐というものです」
俺は薄い笑みを張り付けたまま賛辞した。同調することで仲間意識を植え付けるためだ。今の状況だったら内容が猟奇殺人でも肯定した。赤味より脂肪を切るのが難しいんですよね、とか素面でもいえちまっただろう。
機雁さんは気を良くしたのか、透明なガラスのように無機質な表情からはわかりずらかったのだがデスクの下に目線を向けた。
「よろしければ私が企画、開発したものをご覧になりますか」
「是非」
取り出されたものは――ゴトッ、と十センチほどのミニチュアが出てきた。
灰色の石版のような形で重量感があり、やや摩耗して側面に地肌が出ている。表面には精緻な文字がこと細かく刻まれているようだ。
この形状は――ロゼッタストーンか。
ナポレオンが発見し、過去にフランスとイギリスが相争って手に入れようとした逸品。今は大英博物館の歴史遺産がミニチュアになってやがる。
しかも恐ろしくきめ細かく、手触りも本物の石そのもの。なんだこれすげえ。
「我が社の『超々精密シリーズ』の十分の一スケールのロゼッタストーンです。素材はトンネル工事の際に収集した同じ年代の花崗岩を使っています」
「これは凄い。恐ろしく細かい。一種の芸術ですね」
「傷の一つ一つも再現していますので一日十個が限界ですね」
「そうなると利益幅が難しいですね。おや、機雁さんの専門はロボだったのでは」
「はい。後ろのボタンを押してみてください」
いわれるままに真後ろに不自然についていた突起を押した。
きゅるると作動音がしてロゼッタストーンに手が生え、足が生え、直立した。
『おいら、フランスに帰りたい』
「……」
「……」
「いや、待った。お前エジプト出身だろ」
「新木さんは博識ですね」
『パリで水牛を育てたい』
「黙ってろ。てめえなんでそんなに無謀なんだよ。いや、機雁さんにいったわけじゃないです。そうじゃなくて。ええと、なんというか、その、身もふたもないですが……」
なぜこんな素晴らしい作品に手足を生やしてなおかつ喋らせたのですか――俺は聞きたかった。
“遊び心”があるにせよふざけすぎではないのか。歴史遺産をおちょくって楽しいのか。音声パターンは幾つあるのか。
だけど聞けなかった。彼女の専門はロボなので、そこを否定してしまったら全てが終わってしまう。
「この変形機能はつけないで欲しい、とのユーザーの意見が大多数でして……結局この機能はつけられませんでした。がっかりです」
どよんと暗い空気をまとって肩を落とした。顔に三本の縦線が入り、意気消沈してしまった。
ユーザーの気持ちも痛いほどわかる。どこをどうフォローしていいかわからなかったので黙っていると機雁さんは自嘲気味に呟いた。
「無機物の意思を表現させるのはやはり難しいものなのでしょうか」
その呟きには執着心があった。研究者がどうにもならないものをどうにかしたがるような思念から漏れたもの。
だからか、自然とフォローを入れてしまう。
「そんなことはないですよ……変形させていいものを変形させればいいんですよ。今度はホワイトハウスでも変形させましょう。断末魔をあげながら木端微塵になる方向なら中東のマーケットも視野に入るはずです」
「新木さん……貴方は変わった人ですね」
場を取り繕うための俺のブラックジョークが受けたのかこれまでずっと表情を崩さなかった機雁さんがくすりと笑った気がした。でも机の端にあったノートパソコンを立ち上げアラビア文字が浮かんだのを見て彼女が本気で中東のマーケットを視野に入れているかもしれないと思ってびびった。ははは、ジョークに決まってるさ。国際問題になりそうな商品なんて作っちゃダメだもんね。今度は解雇どころじゃ済まないような気もするしね!
「……ふわふわん」
「んおっ!?」
粘ついた視線を感じて振り返れば俺の背後にバンダナさんが幽鬼のように佇んでいた。生きとし生きる者とは思えないほど生気がない。時間が止まった世界いる人間のように微動だにしなかったが、スッと手の平に持っていたカードを差し出してくる。てっきり名刺かと思いきやプラスチック製で『ふわん同盟 会員番号77777』と刻まれている。ふわふわんのファンクラブなんてあったのか。なんだよこの数字の大きさはよ。
一応は名刺を頂くように両手で丁寧に受け取るとバンダナさんは満足したのか元の席に戻っていく。
だがぴたりと立ち止まり、暗さを伴った顔が少しだけこちらに向いた。
「……怪人には人権はない。だから子供でも大丈夫なんだよ」
バンダナさんはフッと笑うと着席した。
そっか……子供でも大丈夫なんだ。いっけね。危うく背徳の博愛者というカテゴリーの中に入るかもと思ってたぜ。これで一安心だ。人権がないなら法律も適応されないって感じなんだな。よっしゃよっしゃ。思う存分――ん? いや。何かがおかしいぞ。何か間違っているような気がするぞ! でも気にならないよ! 何が間違ってるかわかんないもん!
「コラ」
スパァンッ、と小気味いい快音が奏でられた。ハリセンで頭を叩かれて振り返るとギン係長が腕組みしていた。
サングラスを指先でずらし、青緑色の瞳には呆れの色が浮かんでいる。
「何か変なこと考えてたでしょ。ダメよ仕事中はそんなこと考えたら」
「ギン係長でお歳は幾つなんですか?」
「十三よ。もうレッドアンダーペインだって済ませたわ」
「ギン係長、初潮を格好よくいったとしても、それは女の子が人前で口にしてはいけないことに分類されます。社会常識というよりも、貞操観念の一つですね」
「し、ししし知ってるわよっ! 初めて人を殺してしまった心の痛みを指しただけだしっ! どっかで童貞捨てることみたいな意味になってたし!」
そっちの意味だと取り返しのつかないほど怖い。殺めた経験はあって欲しくはないんだが。
ギン係長はハリセンをぶんぶん振って泡を食っていたが、胸に手を当ててスーハーと深呼吸する。落ち着きを取り戻したのか改めて向き直ってくる。
「いい。ナオノゴン。今日はあれよ。サラリーマンによくあるあれよ」
「残業ですか?」
「違う! サボりよ。外回りという名のエスケープよ」
ギン係長は自信満々に胸を張った。彼女の価値観ではサラリーマンは常にサボっている存在らしかった。隙あらば、余裕があれば、誰も見てなければ、怠けようとするのは、悲しい人間の側面ではある。それを社内で堂々と公言するのはいかがなものか。
ギン係長の社会生活の指南役である水原さんは今日は受付嬢をやっていていない。なんでも人員が足りないらしく、たまに埋め合わせでやっているらしい。「受付は会社の顔ですから美人じゃないといけなくて、本当に辛くて大変です」と自虐風自慢も頂いた。
バンダナさんはディスプレイを睨みながら手先で粘土をこねているし、機雁さんはいつの間にか退出していた。
斜向かいにある誰も使っていない机にはチューリップの花が飾られている。今更気づいたけどなんだよコレ縁起悪いなおい。
まあともかく、指示する人間が現状いない。どうしたものかと思っていると俺の微妙な表情から自分がしくじったことを悟ったのか、ギン係長は下唇を人指し指でずらす。窺うような及び腰。
「……だめ?」
「外回りって取引先とか行くんですか? 売上とかマーケティングとかチェックしに?」
「そ、そうよ! そ、それよそれ! それがいいたかったのよっ! さぁ、行こう! 行ってきまーす」
助け舟を出したのは過ちだったかもしれない。
目を輝かせたギン係長に俺は手を引かれて無理やり連れだされた。なんだろうか。俺はまだまともに働いていないような気がする。小さく成果の一つでも出したいものだが焦りは禁物だ。いや、なんか女の子と繋げて嬉しいって話じゃなくて。そういうんじゃないっていうか。俺もまだ若いっていうか。恋愛弱者から卒業したいっていうか。光源氏だって子供育てて将来嫁にしてたから俺に罪はないっていうか。時代さえ違えばっていうかね?
☆ ★
世の中にはアポイントメントという仕組みがあり、小売店に自分のところの商品が並んでいるからといって突然押しかけてはならない。そしてそうした仕事は営業の管轄であるので、企画開発部所属の俺が土足で足を踏み入れれば間違いなく反感を買う。
そういうことで営業部の連中に話を通しに行くと、机に座っていたホストっぽい容貌のイケメン三人衆は柔らかく了承してくれた。
「いいさ。そんな風にスピリットが騒ぐ日もある」
「そうだな。僕の担当のところはどうかな」
「ブラザー、ついでにこの新商品も販促してやってくれ。今度は僕ともハードなダンスをしてくれよ」
俺は三人をぶちのめして窓から放り捨てたくなる衝動を抱いたが、郷に入っては郷に従えということで「オーケィ、官能のツイスターゲームの始まりだ」といって肩をすくめ、キメ顔で作りつつ親指を立て、意味もなく前髪を払いのける華麗な仕草で退室した。
受け取った四角い箱はビジネスバッグにしまう。
しかし、彼らはどこになんの営業をする人たちなんだろうか。とても玩具を売る人には見えない。別種の玩具を売りに熟女とか狙っていくのなら納得できるが。
「頭おかしいでしょあいつら。なんか、最初は人に覚えてもらうためにわざとやったらしいけど、あれが普通になってきちゃったんだって」
「そうなんですか……原田さんもあんな感じだったのかな」
「あいつは本物のホストだったらしいけど、人間関係に疲れて辞めちゃったんだって。なんだったかな。入社する時、『これでもう寝なくて済む』とかやさぐれた顔で変なことぼそぼそいってわ。毎日寝れるなんてサイコーなのにね。私もぐっすり一日だらだら寝てたいわ。フミンショーってやつよね」
「そ、そうですね……」
原田さんの『寝る』とギン係長の『寝る』は明らかに意味合いが違うだろうが、俺はパンドラの箱を開ける勇気はなかったし、ギン係長にはいつまでも無垢な少女のままで居て欲しかったので口をつぐんで受け流した。
「なおぴー、車の運転できる?」
「できますよ」
「表出るとお水がうるさいし、裏口から社用車で逃げるわよ」
ギン係長は完全に仕事をする気がないらしい。気を張っているのか目つきが厳しい。指に車のキーリングを絡ませてぶんぶん回転させている。逃亡者としての経験があるのだろう。壁に張り付き、他人の目を気にしながらフロアを移動する足取りは淀みない。
非常灯の下の門扉に体を寄せて慎重に開き、アコードが並列している駐車場に出ると手でひょいひょいと指図される。
キーボタンを押してロックを解除する。車に乗り込み、エンジンをスタートさせてたたんでいたサイドミラーを開く。
「さぁー、遊びに行くわよー」
「仕事ですよね?」
「ひゃっほー! さぁレッツゴー」
ギアをドライブへ。ハンドルを握りながら上司の要望に従ってアクセルを踏んだ。平日の昼の国道はそれなりに空いている。目的地はホビー用品も置いている大型ブックストア。
「そういえばギン係長って飛べましたよね。飛んで逃げないんですか」
「あたし、スカートが好きなの」
俺はなんとしてでもギン係長に飛んで欲しくなった。どうにか策略を練る必要がある。自然に飛ばすにはどうしたらいいか。彼女の羽根を広げるために最適な方法はなんなのか。ライト兄弟と同じ苦悩を俺は味わっているのかもしれない。
「あんたまた変なこと考えてるでしょ」
感付かれた――にやついてしまったか――無表情に戻す。
「いいえ。心外ですよ。仕事中ですしね」
「心を読める魔法あるんだけど」
「やってみてください。俺の精神防壁は完璧ですよ。自慢じゃないですけど俺はツンデレの三角定規を思い浮かべることで心を無にできる特殊能力を持っています」
「あ、エロ発見」
「うっそ!」
運転中なので横目でギン係長の様子を伺うと暗闇の中の猫目みたいに双眸が金色に光っていた。ジッと俺を見透かすように見つめながらうんうん唸ってる。なんでもありだなおい。
「うわー、すごぉーい……」
「ちょ、もう止めてください。俺の心を覗かないで! 秘密にしておいて!」
中学生にエロ心をだだ漏れにするというのは一種のプレイかもしれなかったが、俺はそこまで高度なレベルに達していない。
だがギン係長の赤面しながらも性への好奇心を発芽させている表情を見るとなんだか不思議と目覚めてきそうな……待て! ダメだ! そっちの扉はいけない! 開けたら戻れなくなるぞ直介! 行くな! まだ間に合う! ああっ! でもあの扉はなんて神々しい光を放っているんだ! 天国に至る道かもしれない!
妄想の中の俺が雲間にそびえる荘厳な雰囲気をたたえた扉に手をかけようとしていると、ギン係長は「わっ」と口許を両手で覆った。
「あ……流石にこれはないわよエロ介。ちょ、どうして一度に九人も集合してるのよ……え、うそ、そこ!? そこで!? そこでやっちゃう感じ!………あぁぁぁぁ」
ギン係長は真横に顔を反らし、はしゃいでばたつかせていた両足をぴたりと閉じた。
すすすっと心なしか俺との距離を置いた。頬から首筋まで真っ赤に染まっている。可愛らしい赤いほっぺたと無理に曲げた横顔。
そして、気まずい沈黙。
彼女は俺の深層心理で何を見たんだろうか。なぜ俺は一度に九人を集合させてしまったのか。現実で一人も集合させた経験もないのになぜ九人も必要だったのか。少なくともベースボールのためじゃないだろう。いくら俺でも九人同時進行なんて荒業を想像した覚えはないのだが、どういうわけか潜在願望となってしまっているのか。おーっとっとっと、自分が怖くなってきたぞ。俺はモンスターなのか? 一匹のアニマルなのか? だとしたらもうこんな仮面は捨ててありのままに……ちょ、ちょちょちょ、待て、待てよ。いけないぞ直介。真なる紳士はたとえ女子更衣室のドアを開けたとしてもそれが我が家のリビングのように振る舞うものだ!「紅茶はまだかね」と言えるくらいの胆力が必要だ! それと同じように、心の裡に秘していた悪徳がさらけ出されたしても冷静に対処すべきだ。お前がやるべきことはおもむろにジッパーを下げることじゃないぞ。今のは危なかったぞ! 指が危険な位置にいたぞ!
「ギン係長……その、男というのはですね。すべからくロマンチストなんですよ。つまり、まだ見ぬ地平線に向かって走るものでして。それは誰も踏破していない山に登るような制御できない荒ぶる感情でして、つまり」
「うっさい、話しかけるな」
話をぶっち切ってのつんけんした返事。思わぬ心理的外傷を与えてしまったようだ。
いや、俺のせいじゃないよね。
多分。ねえ?