上司が魔法少女で辛い
枕元でがなり立てるスマホの電子音を止めるために頭上に手を伸ばした。
最初はすかっと外れたが二度目で掴んで充電アダプターを引き抜き、布団の中に引きこんで耳に当てる。
『秋葉いかね?』
「無理」
高校時代からの付き合いである友だち、ハヤトからの電話を切って上半身を起こした。寝ぼけ眼で見る液晶画面の時刻は七時。意識が少しだけ覚醒していてしまって、眠気が頭が重くしていたが布団から出てカーテンを開いた。
嫌になるほどすっきりとした青空と雑多な街並み。敷き詰められたビル群と舗装済み河川。振り返れば薄汚い六畳一間のアパート。数えきれないほど身の回りの物を整理したが、数えきれないほど散らかる。
洗い物には終わりがなく、新しい雑誌やゲームや日常品は供給される。壁に寄り掛かったパンパンのゴミ袋を見ると、今日が回収日がないことが悔やまれる。テレビの前のゲーム機はセットしたままだが、布団だけは干しておこう。
のろのろと居間を横断し、洗面台へ。顔を洗って歯磨きをして髪型を整えて――クローゼットからアイロンをかけておいたスーツを取り出す。
ちゃぶ台の上に転がった履歴書と筆記用具を鞄の中に詰め込んでいると、またスマホがうるさく鳴った。ため息を吐いて手に取る。
『いいじゃん。今日休みだろ?』
「休みっちゃ休みだが、やることがあってな」
気恥ずかしさもあって、失業中で就職活動しているとはいえなかった。
冷蔵庫の中の飲むヨーグルトをコップを注ぎ、一息に飲み干した。乾いた喉を通って胃袋の落ちていく感触。
『ふーん……そういやお前、テレビに映ってたよ』
「うん?」
反射的にリモコンを操作して液晶テレビにスイッチを入れると――スタジオで語る男女が映し出された。見出しには<無謀、怪人に立ち向かう酔っ払い~若者の常識離れ~>と色つきの文字で踊っていた。
アナウンサーらしき女性と初老のメガネをかけた男は厳めしい顔を作っている。
<どう思いますか元警視庁OBの鬼熊さん――非常に好ましくない行動ですね。怪人の握力は五百キロ以上ありますから、ゴリラに立ち向かうようなものです――やはり若者にありがちの目立ちたいという心からきた行動でしょうか?――そうですね、過去には犠牲者が出ておりますし、それが一種の度胸試しとなっているのかもしれません――それではもう一度見てみましょう……あら――うーん、失血によるショックもあるかもしれませんね……おや、佐々木さんどうされました?――い、いえ、ただ下半身に――ああ、ははは、ジッパーが全開ですね――いえ、その、あ、ああ。こ、これはテレビ的にまずいですよ、は、は、はみ出して>
ただ今、不適切な映像が流れました。しばらくお待ちください……。
『……』
「……」
『……全国デビューしたな』
「他人の空似です」
通話を打ち切ってスマホをポケットに差し込んだ。違う。待ってくれ。あれは俺じゃない。あれは俺じゃないんだ。天地神明に誓って無実潔白です。あの時間、俺は某コーヒー店でコーヒーを飲んでいた。確かトールでグランデしてマシマシした後にミルクカプチーノの大盛りにした。これで間違いない。落ち着け。落ち着くんだ。乱れた髪のおかげで顔の半分は隠れているし、流血のおかげで人相もわかりづらくなっている。完璧だ。何もなかった。俺を探れるはずがない。俺は無職のアウトローではない。俺は社会の闇が生んだゆがみではない。ただのアルティメットナイスガイだ。
よし、記憶からも消した。リセットだな。消えたな。
「あっぶねえ、ギリギリだった」
手の甲で顎先に流れ落ちた脂汗をぬぐう――緊張と緩和の間隙を突くようなインターフォンの音がした。
俺はびくっと一瞬だけ全身を震わせて頭の片隅で「嘘だろ。もう嗅ぎつけやがったのか」と呟きながら安っぽいスチールの頼りない玄関ドアに向かった。意を決するために立ち止まり、深呼吸してからドアノブを回す。
「はー……ぃい!」
残っていた眠気が消失した。
過日の魔法少女が両手を腰に当てて立っていたからだ。
羊毛がたっぷりついただぼだぼの紺色パーカーに革製ハーフパンツというスタイルで、寒そうにポケットに両手を突っ込み、フードで頭を包んで顔の面積の三分の二しか露出してないがこの凛々しい青緑色の瞳は間違いない。
思わず語尾が高くなって朝っぱらからダンスミュージックのDJの叫びように『YEAH-!』とでも聞こえてしまったのか、シルバーバレットさんは戸惑っていた。そりゃ戸惑うわ。
しかし、何しに来たのだろうか。まさか「偶然見かけたあのお兄さん格好よすぎ、もう一度会いたい……こうなったら魔法の力でストーキングするっきゃない!」とかそんな展開なのだろうか。だとしたら光栄ではあるが俺は都条例という権力には逆らえない。情けないが多くの人がそうであるように権勢に弱い一般市民なんだ。だけど、都条例の通じない国に一緒に逃げたいって懇願されたら……早熟のボディで抱きつかれて涙を流されたら……いや、そんな、ダメ! ダメだダメだ! 立ち去れ悪魔よ! 俺は分別のある大人としてギンちゃんの成長を待つよ。そうだ。盆栽の楽しみ方と同じだ。松を楽しむんだ。気長に松んだ!
「よく聞くのよ」
「菊でございまするか」
「え?」
しまった――いきなり俺は何をいいだしたんだ。口が滑るどころじゃないだろ。滑走路からテイクオフしてるわ。やばい! 格好いいお兄さんから危ないお兄さんになってしまう。いかん。落ち着け直介。冷静になれ。いきなりギンちゃんが愛の告白をしてきた可能性は低い。可能性は一パーセントもない。うん? おかしいぞ。ごく自然に、冷静に考えて……可能性が一パーセントあれば……どうだろうか? やってみる価値はあるんじゃないだろうか。最初から何もかも諦めていいのか直介? お前はそうやってやっていくのか? 人生で一回くらい太陽に向かって羽を広げるべきじゃないのか? 太陽が熱くないとき、そう、真夜中に太陽を目指せばこの手で掴めるんじゃないのか? ミラクルは信じた者に訪れるんだ!
いやいや――待て待て待て、妥当に考えられる線でいくなら俺が彼女の出演しているテレビで――<記憶は消去されております>――わからない。なんでだろう? 不思議だ。やはり愛の告白か?
ギンちゃんは顔を伏せてくしゃくしゃの丸めた紙を取り出すと手の平で擦り合わせて広げ、掲げた。
目を落とすと書面には採用内定のご連絡とある。末尾には『幸魔道』の社名と印鑑。
「うちの会社来る?」
「行く」
俺にためらいはなかった。自分でもすんなりと肯定してしまった。後先のこととか、それが嘘か真かなんて考えなかった。俺というマシンにはアクセルしかない。ブレーキなんて最初からない。あれ、欠陥車かも?
「そう……」
ギンちゃんはパチンッと音がするほど自分の口許を抑えつけた。何か衝動を堪えているのか、背中が小刻みに揺れている。喉が引きつっているような声が漏れ、態勢が崩れて次第に前のめりになっていく。
ガバッと顔が持ち上がったときは――こういった形容詞は使いたくないが――悪魔がいた。
満面の笑みには違いない。狂喜的で威圧感たっぷりだ。
「ふ……ははは……はぁ!」
はぁ、の部分で溜めた力が解放され、思いっきり下腹部を握り拳を突き立てられた。所詮、女子供のパンチ――肝臓打ち(リバーブロー)は脇腹に的確に捉え、俺はがくんと膝を折った。視界が霞み、コンクリートの床にポタポタと汗のしずくが落ちる。
「……な、なぜ?」
「あんたのせいで……あたしのステッキがなぜか使えなくなったからよ」
ああ――
「大人の事情って何よ。誰も教えてくれないし、意味が分からないわ。まあ、そんなことはもうどうでもいいのよ。今の一発で忘れてあげる」
「あ、ありがとうございます」
俺もその点についてはコメントしずらかったので、追及されなくて安堵した。ギンちゃんは腕組みをした状態で明後日の方向を見ている。気になっていることを聞こうかどうか悩んでいると、向こうからいってきた。
「今日からあんたはあたしの部下なんだからあたしのきちんと従うように」
「え?」
「ほら、証拠」
ぶっきらぼうに名刺を渡された。
魔法少女が名刺を持っているとはなんとも複雑だが印字には『開発企画部係長しるばぁーばれっと』とある。なんでひらがななんだ?
いや、それ以前に係長とは……。
「わかりました、は?」
「わかりました」
腑に落ちないものの、ここで一つの縦社会が誕生した。
俺は社会の末端に生きるサラリーマンとして這いつくばりながら上司に頭を垂れた。
会社に持っていく必要な書類を用意しながら「ミニスカートできらきらした服を着てテレビに出る覚悟はできてます」とギン係長に告げるとふくらはぎにローキックを入れられた。そんな覚悟は不要らしかった。直介ウルトラステキポーズ(バラを口に咥え片目を閉じて両手をクロスさせる)まで瞬間的に考えたのだが杞憂のようだった。
「怪人舐めすぎだって、どうしてそんなに無鉄砲なの? 馬鹿なの?」
「ギン係長は怪人に詳しいんですか?」
「あー……よく考えたら、あたしもよくわからないわ。とりあえずいるから倒すみたいな?」
なぜかの疑問形。腕組みをして首を傾げた。魔法少女というわりには使命感とかそういったものを感じなかった。現実は幻想の剥離というべきか。テレビの向こう側の凛々しい彼女しか見ていない分、少し驚きがある。
しかし、いるから倒すというのはかなり雑だ。その言葉だけ聞くと単なる通り魔みたいに聞こえる。治安維持とか世界平和とか明確な大義はないんだろうか。
「部屋、散らかしっぱなしじゃない。きちんと片づけなきゃダメよ」
部屋に上がりこんだギン係長は腰を折り曲げて腕を伸ばし、散らばった漫画や小説を書棚に入れていく。一瞬迷ったが五十音順だ。埃が目に入ったのか渋い顔をしてキョロキョロと部屋を見回し、洗面所からタオルを取ってくると丁寧にちゃぶ台を乾拭きし始める。
なんだろう、見知らぬ男の部屋に入る抵抗感とかないのだろうか――昨日のバトルを思い出すと納得できた。あれだけ強ければ怖いものなどないかもしれない。
「朝ご飯食べた? 何か作ろうか? あ、洗濯物も溜まってない?」
振り返って当然のことのように聞いてくる。
いや、これは抵抗感がないとかそういう次元ではない。俺はとあることに思い至った。このまま甘えるのもありだが、自分の胸下ほどの身長しかない少女にそこまで世話になる義理はまだない。惜しいことは惜しいがこの先のことを考えておこう。
「あの……多分ですけど、いっていいですか?」
「何よ」
「上司はそこまで部下の面倒を見ません」
「え」
ギン係長は瞬間冷凍された。程なくして解凍されると、両手を少しだけ広げ同時に持ち上げる。冗談でしょ? といいたいらしい。俺が真顔のままでいるとギン係長は肩を強張らせ、さっと顔を赤らめた。
「……知ってるわよ! 五秒で用意しなさい! 会社に行くわよ! 出勤よ娑婆造!」
「あ、はい」
すぐさま立ち上がるとのしのしと玄関に歩いていく。あれは知らなかったな。随分と初々しい上司ではあるが、シャバゾウってなんだろうか。