社長がマスコットで辛い
え、お前クビなの? ウケるぅー。
二本の人差し指を俺の胸に向けつつ、先輩から頂いたありがたい別れの言葉を噛みしめながら俺は電車に揺られていた。胸の裡で燃え盛るこの怒りと悲しみをどこに向けたらいいか昨晩、考えて考え抜いたが会社のオフィスにガソリンをまいて「アディオス」とかいいながら火を点ける勇気は俺にはなく、社長のレクサスに形式的ながら油性マジックで辞表を書くだけに留めた。力強いアートスティックな太文字で『今までありがぴょん、なおぴょんより』と書いておいたので元社長もあまりの芸術性に感涙してくれるだろう。
江戸川区の自宅アパートから目的地の天麩羅区は京葉線で三駅ほどだったが、これから面接を受けに行くと思うと胃袋がしくしくと痛い。どの道、元社長の紹介であるので落ちたら落ちたってことで構わないのだが――やはり今の俺は無職なので火中の栗といえど拾いに行かなければならない立場だ。
パワーボール南駅で下車して通勤ラッシュのサラリーマンや学生と歩調を合わせつつプラットホームを抜け、改札口を越え、ロータリーに足を踏み入れる。
スマホに浮かべたネット上の地図を頼りにしながら歩を進めた。この地区は東京の中でも人口数は少なく、荒川が氾濫したら沈没しかねない狭い地区だと噂されているがオフィス街は東京らしく栄えており、実に都会的でにょきにょきと大小様々なビル群が立ち並んでいる。
都会という迷宮はグーグルネットという装備なしでは突き進めない。狭苦しい道のどこを歩いても立ち塞がる小高い建築物ばかりだ。
目立つところで信号機や街路樹、地下鉄の出入り口やバスターミナルの屋根には「これはちょっと無茶じゃないかな?」と思えるくらいソーラーパネルが無差別にくっついてて、異様なほどエコロジーを推進をしているようだ。新参者の俺にはこの都市計画には執念すら感じた。
腕時計の時刻を確認すれば面接時間よりも余裕があった。俺は横断歩道を渡って雑居ビルの一階にある国際的に有名な某コーヒー店で呪文のごとき長い商品名を唱えに向かおうと交差点の白線に足をかけたが、ふと目に付くものがあったので立ち止まった。
通行人が誰も――同一のペットボトルを片手に持っている。飲んでいるサラリーマンもいれば、鞄に仕舞い込もうとしているおばちゃんもいる。
「ただいま当社で新発売の試供品を提供しておりますー」
「よかったら試飲してみてくださいー」
女の枠で固めたような商売向きの黄色い声がした。光沢のある生地を用いたシャツとスカートは赤と白の縦縞模様で人目を惹くようにしている。三人ほどのキャンペーンガールがペットボトルを道行く人に配っていた。五百ミリリットルを一本無料でサービスとはこのご時世で豪気なことだった。
興味本位で近づくとすんなり渡された。メーカーは有名メーカー。健康指向の野菜ジュースのようだが、白いパッケージは乳酸菌をイメージしているらしい。新しい人体に有益らしい細菌の名も打ってある。
路上で一口飲んでみる。甘さが強く、野菜ジュースにありがちな人参とトマトの風味は低かった。そう悪くはない。
「……ん」
ペットボトルの蓋を閉め、人心地ついたところだった。
ほんの五メートル先――ふわっとした火柱が雑居ビルの二階部分を突き破って噴き出した。
それは巨大な風船が突然膨らんだようでもあった。
目を丸くして口が半開きになる。
鼓膜に到達する轟音、炸裂音、空気の振動。全てが合わさって弾け飛んだ。音の奔流に聴覚が対応できなかったせいか不思議と静寂の中にいるような錯覚があった。
オレンジ色の熱風が四方に散らばり、交通していた自動車をミニカーのような扱いで裏返しにし、窓ガラスが砕け散る音で街中の喧騒が一気にかき消された。つんざく悲鳴は遅れてきたが、やけに音が小さく感じた。
いずれも数瞬のできごとだったが俺は衝撃波で尻もちをつき、追いうちとばかりに雨あられと飛んできたガラスに為すすべなく襲撃され、視界に赤が混じり、耳鳴りが酷い。
爆心地の二階の壁には奇妙なことに看板以外の異物がくっついていて、それは高らかに喋りだした。
「ハァーハッハ、俺の名は怪人クモマン! 事情があってクモの部分は英語にできないがクモの糸はきちんと正しい場所から出る! まあ大体ケツの方からだけど決して肛門ではないぞ!」
そいつは街中で出会ったら引き返すか壁際に寄って極力避けながら通るタイプの変態であり、オーソドックスなクモのコスプレをしていた。
足は八本で器用に滑らかに壁面に密着し、胴体部分は黒と黄の縞々で産毛がびっしり生えて気持ち悪く、頭部に至ってはぎょろっとした複眼に鎌状の牙がカチカチと音を鳴らして重ねている。
よく見れば単純なコスプレ野郎とは思えない機能と精緻さ――だがそんなのはどうでもよかった。
俺は側頭部に突き刺さったガラス片を引き抜くと、振りかぶってクモマンに投擲した。
「オラァ!」
「ぐわっ」
我ながら見事に一直線に飛び、丁度よくクモマンのテンプルにぶち当たると彼は転落した。落下部分は生垣があったせいか生木をへし折る音が響き、予期せぬ事態に動揺してるのか多数の足をばたばたさせている。
俺はつかつかと歩み寄り、胸倉が見当たらなかったのでわさわさ動いてる足の根元を掴んで顔を近づけ、怒りを露わにした。
「てんめぇー……ふざけんなよ。今の俺は無職なんだぞ。今日は大事な面接なんだ。それなのにスーツが血まみれじゃ受かるものも受からなくなっちまうじゃねーか! てゆーか前ふりなしでいきなり来るんじゃねーよっ!」
「う、うぐぐ……む、無職なのは自業自得では」
「社会がわりぃーんだよっ! 俺のせいじゃねえ! 失うものがない恐ろしさってのを思い知らせてやろうか! あ!?」
頬から流れて唇から入ってきた血を地面に吐き捨て、吠えた。
クモマンは俺が怒っていることで冷静になろうと勤めているのか、打って変わってサービスマンのような丁寧な言葉遣いに変化した。
「大事な人とか、例えば恋人とかいないですか?」
「いるよ! 俺の未来になっ! だから今のこのとき、この瞬間にいなくなって構わねーんだよ! いっとくけど強がりじゃねーからな! 俺の明るい未来は決定しているんだ!」
「……あ」
「あ? 何が『あ』なんだ? あ? コラ? 気まずそうに目を背けるんじゃねーよっ! 無駄に悟ったような顔をしやがって! じゃあてめえみたいな下等な節足動物に彼女がいるってのか!? あ! いるってのか!?」
「彼女っていうか……まだ相手が女子高生なので清らかに付き合ってはいますが、一応親御さん公認で正式なものです」
売り言葉に買い言葉な詰問だったが、クモマンの声質からは冗談や嘘の気配は感じられなかった。
本当に誠実な――覚悟を決めたかっこいい色男の声音だった。
俺は驚愕のあまり手を放してしまい、ふらふらと一歩一歩後ずさる。
足元がおぼつかなくなって膝からがくんと崩れ落ち、両手をアスファルトにつけ、額をこすりつけて涙することしかできなかった。
「ちくしょぉおおおおおおおおおおおおお! なんだよこれええええええええ! なんだよこの胸を砕く苦しみわよぉおおおおおおおおお! これが怪人の力なのかよぉおおおおおお! 恐ろしいよぉおおおおおおおお!」
「本当になんなのよこの状況は」
俺が敗北感と嫉妬心という二つの激しい感情にさいなまれていると、透き通った呆れ声が場に割り込んできた。
視界に小さな運動靴が見えた――くるぶしには花車を模したファンシーなデザイン。細い足首から膝丈までは白いストッキングが伸び、僅かに覗かせた素肌の上には折り目のついた青色のプリーツスカート。先端にある裾部分には網目のレース模様があしらわれている。上着は軍服を思わせるほど硬質な革のジャケット、黄金色の肩紐とポケット部分にはつる草の記章まである。鋭角さを演出しているだろう腰に巻かれたチェーンベルトは鈍い金属光沢を放っている。
銀髪は人工物かと思うくらい透明な質感を持っていて、鳥の翼のように乱れがなく、ふわりと腰元まで伸びていた。大きな目は半分がまぶたで閉じていて、青緑色の瞳は呆れと倦怠感に染まっている。
顔も身体も未だに幼さを多分に含んでいて、背は低く華奢で歳は十幾つかだ。必ず将来美人になる。そう断言できる美少女ではあった。
とかく、俺はこのディティールを知っていた。そうだ。巷で話題の戦う“魔法少女”だ。
「ギンちゃん」
「止めろギンちゃんって呼ぶな」
ごんっとつま先蹴りが俺の顎先にヒットした。不意に訪れた強烈な痛みを逃そうと俺は転げまわり、ダメージから幾分か回復すると周囲が見えてきた。集まっている人垣とテレビカメラを備えた取材班。
歓声の中心には世間の常識を知らずに女子高生に手を出しているくそったれろくでなし野郎とギンちゃんだ。
ああそうか――そういえばそうだった。
理解が追い付くと俺も観客の側に回ることにした。ギンちゃんことマジカルシルバーバレットさんのバトルを見学するためだ。そう、怪人のいるところにヒーローが現れるのは摂理というもの。
「ファーハハハ、ついに現れおったな。もう少しで人間が食えたところを邪魔をしおって」
「いや、あんた不良リーマンに絡まれてだけじゃない」
「まあいい。お前を倒した後にじっくり楽しめばいいだけだからな。いくぞぉ!」
「あんたら毎回都合の悪いことは聞こえなかったふりをするわよね」
クモマンは二本足で立っていた姿勢を崩し、地面に八本足を広げ、かさかさと突進し始めた。小回りが利くのか道端に散乱した瓦礫に足も取られず、わざわざタクシーに昇って飛翔した。口角を広げ、がっちんがっちんと牙を誇示しながらの噛みつき攻撃だった。ギンちゃんからすればクモマンは一回りも二回りも大きい。
受け止めようともせず素直にかわす――かと思えば、足運びだけで迫りくるクモマンを避け――カウンターパンチをどてっぱらに叩き込んだ。
重い快音が鳴った。クモマンの身体は空中に静止してくの字型に折れ曲がり、ぶぱっと白い液体を口から吐きだした。ほんの一秒ほどに過ぎないがあの巨体をギンちゃんは支え、弾き飛ばしたのだ。
圧倒的な膂力に俺は慄いた。あの年頃の少女が繰り出せる出力とは思えない。今までテレビ放送や動画で見たことはあったが、実際に見ると聞いていたのとは一味もふた味も違うド迫力だ。
クモマンは空中で一回転して体制を立て直すと、再び対峙した。足に来ているのか、がくっと後ろ足が折れ曲がって苦しそうだった。
「頑張ってーギンちゃんー!」
「殺せ―」
「血を見せろ―!」
観客の声援もえげつない。
ギンちゃんは顔も向けずに頭の横で適当に手を振るだけで無愛想だった。そんなところがいいというファンもいるらしい。
それでも一応はギンちゃんは声援に応えたのか、一気に距離を詰めるとクモマンの胴体に蹴りを入れ――たかと思えばそこを軸点にして飛び上がり、横っ面を蹴りを叩き込んだ。体格差を埋める綺麗なシャイニングウィザードだ。そのままクモマンの片足に小さな全身を巻きつき、もいだ。
関節部の根幹からドロドロとした液体が噴出する。浅黒い血が噴水のように舞い上がり、クモマンは苦しみを訴える。結構、あれだ。なんていうか。その。ぐろい。
「うぐぐ、ここまでやるとは……子供と思い甘く見たわ」
「あ、すいません。あんまり下のアングルから撮らないで貰えますか?」
「聞けぃっ! いいか、今から俺のとっておきを喰らわせてやる!」
明らかに狙っているカメラマンにギンちゃんが軽い注意を与えていると、クモマンはわざわざ予告をした。なぜわざわざ宣言したのかわからないが、彼はぶるぶると力み始めた。
血管か筋肉か不明だが、つぼみたいな胴体から頭部に至るまでびきびきと筋が浮かんでいる。非常に気持ち悪い。
この“タメ”は実のところ隙だらけで速攻でボコれば決着がつきそうなものだが、ギンちゃんは「う、わー」とドン引いて攻撃に移れないようだった。
そして尾の部分から――放射されたときの構図が俺には受け入れがたいのだが、白くねばねばとした粘性の物体がギンちゃんの手足に絡みついた。
「うわっ! きもっ! 変態! しかも微妙にあったかい!」
ギンちゃんは頬からこびりついたそれを急いで取り剥がそうとしたが、強靭なのか余計に絡まって自由が利かなくなっているのが見て取れた。足先から髪までがべとべとで、ちょっぴり涙目になっている。気持ち悪いのもあるのだろうが、青い果実をそのものである瑞々しい太ももから股関節にかけてクモ糸は根を張っていて、スカートの端を若干のことながらめくりあげてしまっている痴態が悔しいのだろう。
おぉ、と観客がため息を放った。俺もそのうちの一人だったが、あくまで怪人の技に感嘆しただけであって他意はない。拍子に横でため息を吐いた中高年(髭面のジェントル)と目が遭った。彼は優しい笑みを浮かべて親指を立てた。なんだこいつ。
クモマンは調子に乗ったのか、またも哄笑する。
「ファーハハハ、年端のない少女にこんなことをしている思うと思いがけない背徳感で多少のことながら興奮してきてしまったではないか。私を
こんなはしたない気持ちにさせるとはイケナイお嬢さんだ」
「く・も・ま・ん!」
「く・も・ま・ん!」
「く・も・ま・ん!」
「ありがとう皆さん。ありがとう皆さん。期待に応えて怪人らしく――人間でお人形遊びをしようではないか!」
全身で喜悦をアピールするクモマンは最高潮に達しているのか八足を広げて身震いした。観客の要望に応えるこいつの目的は一体なんなのだろうか。もしかして何も考えていないのかもしれない。
興奮気味に荒い息を吐きながらも、獲物に迫るクモさながらゆっくりと窺うような足取りでギンちゃんににじり寄っていく。
観客の正義のなさに――日和見ぶりに俺は流石に頭にきたというか――人垣から足を踏み出そうとすると、肩を掴まれた。
怒りを交えて振り返ると、先ほどの髭面の紳士は落ち着きを払った顔で俺を見据えた。奇妙なことだったが、毒気を抜かれた。
視線を戻せば――ギンちゃんが覚悟を決めたのか短く息を吐き、瞳をぎらりと輝かせ、地を蹴った。
一見して無謀にも突撃するかの見えた。
未だにクモマンのケツから伸びている猥褻な糸が余計に絡むし、両手両足は封じられてほとんど飛び込みのような姿勢だった。それでもギンちゃんは前進し、ミノムシのような姿になりつつ勢いを増していった。
「なっ!」
「どすこーい!」
果たして「どすこい」と叫ぶ魔法少女はいかがなものか。
しかも頭突きで勝負を決めるのもどうなのか。
そういや魔法も使ってないような。
様々な疑問が俺の脳裏で渦巻いたがクモマンはスローモーションで崩れ落ちた。
ギンちゃんは芋虫のようななりで地面に伏せていたが反動をつけて立ち上がり、「ふんっ!」と力を込めると拘束を解いた。あれは最初からできなかったのだろうか。
「み、見事だ……だが、私を倒したところで第二、第三のクモマンが……」
台詞の途中だったのだが観客を見回し、ギンちゃんは両手を添えて大声を上げる。
「みなさーん、こいつ爆発しますよー!」
クモの子を散らす。
という表現が正しいかどうかわからないが、文字通り大勢の観客たちは逃げまとっていった。
俺も走り出そうと足先を変えたが、ふと顔を向ければギンちゃんが「よっこいしょ」とかいいながらショートポーチを気だるげに背負い、そこからばさっと白羽を生やして空を飛んでいく姿が見えた。ファンタジー。
東京に怪人が出現するようになってからかれこれに三年が経つ。
テロ組織が開発したとか、宇宙人が送り込んできたとか、妖怪変化が現代に姿を現したとか当時は囁かれた。
例によって災害扱いされ、ひとまずはテロリスト扱いになり、どういうわけかエンターテイメントへと変身した。
詳しい経緯は俺もわからないが、最初こそ特殊部隊が隊列を組み、大勢の住民を避難させてから狙撃銃で一斉に怪人を銃殺しにかかるという本格的な対処法だったが、その度に都市機能が麻痺し、経済的な損失が莫大なものへとなった。
次第に相手がそこまで脅威的な存在ではない発覚すると、地元警察が対処することになった。
場合によっては特殊部隊の派遣も行われたし、対策本部が組まれたこともあった。しかしながら神出鬼没の怪人を完璧に対処するのは難しく、警察の捜査力をもってしても発生源はわからず、毎度続けば少なからず余計な人的被害が出ることもあった。
終わらぬ事件に誰もが疲労感を覚えていた頃だったか、一人のヒーローが現れた。
彼女はあっさり怪人を倒すと、特に何も要求せずに去っていく。
名乗りはシルバーバレット。愛称はギンちゃん。本人は両方ともださいネーミングだと思っているのか、あまり口にしない。滅多に名乗らないが大抵、そういうときは表情が暗い。
司法組織としては不本意ではあったのだがマスコミは英雄として祭り上げ、いつしか庶民に親しまれるご当地魔法少女としての立場を確立してしまった。
生態のわからない怪人の発生がある程度予測できるようになった今でも彼女は退治を半ば強制されている。娯楽を提供する者として。
「着替える暇がない。頭も洗えねえ」
爆風でスーツは擦り切れた挙句に煤だらけになり、頭からも流血しているが面接の時間はとっくに過ぎていた。身だしなみを整えている暇はない。怪人に襲われるというアクシデントがあったとしても日本のサラリーマンには遅刻は許されない。
目的地のビルに辿りつき、自動ドアを通り抜けると吹き抜けのホール。大理石の床面の向かうにはフロントがあった。背後には社名『幸魔道』の浮彫文字。
走らない程度の急ぎ足で受付嬢に声をかけた。
「すいません、八時に面接をお願いした新木直介という者なのですが」
「あらー、その前に大丈夫ですか? 流血してらっしゃいますが」
受付嬢はふわっとした声調で俺を気遣ってくれた。茶色のショートボブにはウェーブがかかり、ほのかに香水の甘さが漂ってくる。潤いのある笑みを絶やさず、色白で顔の輪郭に無駄はなく、特上のボディライン。かなりの美人だ。
困り顔で頬を抑えているが動揺は少なく落ち着いてはいる。書類を抱えて歩いていた他の女性社員は「ひぃっ」とかいいながらのけ反ったというのに。
大胆にも胸元が開いたスーツの下のワイシャツは花開いた白百合のように見える。俺は虚勢を張ることにした。
「はは、かすり傷です。気合と根性と貴女への性欲がみなぎってますから」
「錯乱してらっしゃいますねー」
「貴方のせいです。俺の心はまるで暴風雨のように荒れ狂っている」
「あのぉ、面接にいらしたのですよね? あ」
彼女は突然何かに気づいたように顔を横向けた。視線を追うとずんぐりとしたハムスターもどきがちょこんとフロントに座っていた。
全体的に標準サイズよりも大きめで、球体に近いほど丸っこいハムスターだ。間違いなく外国産だろう。ジャングルの奥地とかにひっそり生息してそうである。
「社長」
「え、社長?」
「お前が新木直介だぽん?」
「これ、俺の電話番号とメアドです。出会いってどんな形であっても大切にすべきだと思うんです」
「聞けぽん。遅刻した挙句に受付嬢を口説くとかお前どんだけふてぶてしいんだぽん。ていうか多少は驚けぽん」
サッカーのゴールポストに向かって蹴っ飛ばしたら気持ちよさそうな風船ハムスターを相手にするのは癪に障るが、身体の向きを変えた。
なんだよポンって。拳を叩き込んで脳みそをポンして欲しいのか?
「俺は転んでもただでは起きたくないんだ。仮に遅刻で面接は落ちたとしても彼女のハートは持ち帰る」
「ごめんなさい。私、流血されてる方はちょっと……」
「ふふん。振られたぽん」
「こんなんじゃくじけねえよ。俺はタフガイだからな。それよりもお姉さん。このゴムまりが『幸魔道』の社長なんですか? マジで?」
「ええ、そうですよ」
屈託もなく彼女は笑い、ゴムまりを胸元に持ってきて抱えた。居心地がいいのかご満悦のゴムまり。軽くではあったが殺意が湧いた。
しかし。
俺は緩やかに膝を折り曲げ、背筋を伸ばして座り込み、両手をすっと伸ばして美しい角度で額を冷たい床につけた。
「遅刻して申し訳ありません。飼育員でもなんでもいいから雇ってください」
「こんなに変わり身が速いやつも珍しいぽんー……」