プロローグ 真実への扉
――これは【凶星王の末裔】に残されていた門外不出であり、限られた権限を持つ一部の人間しか閲覧することのできない『無望の霧』の調査報告書である。
・『無望の霧』帰還者証言調書・第二六号
※帰還者・第三七号(特級流刑者・第七八九号)の供述を元に記述されている。
『無望の霧』を一言で表すのなら『混沌』が相応しい。
霧の中を詳細に説明するには、我らには言語が足りな過ぎる。
それでも、私の拙い言葉で挙げていくのなら、まずそこには無限の日常があった。いくつもの今が存在し、数多の現在が偏在していた。
そこに刹那もないほどの未来と遥か彼方の後来が将来し、一弾指もないほどの過去と古の歴史が歴ていた。
全てなのだ。
全てが在り、何一つなかった。
どれがどこまでで一つの物体なのか。それとも全てが独立しているのか。
何が在るのか。それとも何もないのか。
それらを理解するには、人間の頭脳はあまりにも些末なものであった。
そして恐らくだが、私だからこそ、あの混沌を正気を保ったまま観察することができたのだろう。
他の者達は、あの異常な光景に耐え切れず、誰もが発狂した。
あそこには全てがあるのだ。
それは夢であり、希望である。
そして、この世界の真実である。
あそこでは、それこそ霧が晴れるのだ。
曖昧だったもの。不確定だったもの。
それらが全て、なんの覚悟もなく、唐突に目の前に曝け出される。
ただ、その前には薄氷の如く他愛無い、一枚の扉が忽然と現れる。
覚悟を試されるかのように。
真実とは残酷だ。
誰もがその先に続く真実という甘い果実の誘惑に誘われ、理性と欲望を隔てるたった一枚の扉を開きたくなるものだ。
そこにあるものが、自らが最も目を背けたいものだとは分からず――いや、分からぬ振りをして。
惑わされていることさえ厭わず門扉をこじ開けた彼らは、次の瞬間には理解が理性を超越し、霧の中へと姿を消した。
もしくは、霧の住人にでもなったのかもしれない。
残酷な真実を目の当たりにした直後、振り返り、霧を見れば、そこはまるで桃源郷のように映る。
中には、その絶望に立ち向かった者もいるかもしれない。
だが結果は同じなのだ。
それが希望であろうが絶望であろうが、今立っている場所を見失っていることには変わりないのだ。
何かに対して希望を見出し、夢を見、救済を求めた者達は、それぞれが見た蜃気楼の向こうへと足を進めたくなるのは理解に難しくはない、
私も、今現在の私でなければ、あの懐かしき場所へ向かっていただろう。
分かるだろうか。我々の世界を鎖す『無望の霧』こそ、人類にとっては真なる希望なのだ。
神の悪戯か悪魔の神技かは分からないあの『混沌』を隔てる、唯一の。
もし『無望の霧』が晴れ、あの混沌が世界に広がったら……
我々はどのような真実を、目の当たりにせねばならないのか。
そしてその時こそ、人類にとっての試練の日だ。
『無望の霧』の片鱗を垣間見た私でさえ想像できない、未曽有の真実に人類の多くが耐えることはできずに絶える。
それは長年『無望の霧』の調査を行っている君達の方が、想像に難くないはずだ。
だがもし、それを克服した者達が現れたら。
それは新人類であり、それまでの人類の概念とは全く異なる存在――超人と呼ぶに相応しい高次の存在となる。
だから、私は一つ問いたい。
『無望の霧』をほんのひと舐めした程度ではあるが、霧から脱した私は、君達には何に見えているだろうか。
狂人か。超人か。
いや、おこがましさで言っているわけではない。
どちらかといえば、悲嘆しているのだ。
もしかしたらもう、私は君達とは全く別の人間――いや化物となってしまったのか。それが不安でならない。
君達は笑うかもしれない。何せ私のことを知っているのだから。
だが、私は確かに恐れているのだ。
その意味を、君達は嘲笑うことなく受け止めた方がいい。
私でさえ、恐れているのだということを。
では最後に、君達が求めている本題について話そうと思う。
私のここまでの前振りは、君達が彼の地へ辿り着くための道標であり、その地を踏み入れる適正者かどうかをふるいにかけるためだ。
この話に一抹の不安を抱いた者は、素直に舞台から降りるべきだ。
この証言に恐れの一切を振り払えた者も同様だ。
私の伝言を、ただの情報の一つと捉えられた者のみ、その片道切符を手にする権利が与えられる。
そう。あそこには世界の全てが在るのだ。
私の証言が、この瞬間にはもう全く別のものに変容していることもある。
真実が、一体誰にとってのものかも定かではないのだから。
話が長くなってしまったが、ここまで言えばもう理解しているはずだ。
そうだ。霧の深部は確かに存在する。
あの向こうには、この混沌とした霧を晴らす伝説の地が在る。
いや、この世界の混沌そのものを解き明かす、答えそのものが在る。
そう。『星約の刻間』は確かに存在する。
――帰還者・第三七号 シツソン・メナノレルの証言より