2.疎ましき敵
光の壁を前に、フェフェットは顎に手を当てたまま事態を整理する。
(まぁ、私ならこの《夢迷脈路座》の術者を特定して、殺し尽くせるけど……)
フェフェットの最大の武器は受術耐性の高さだ。
彼女の魔偽術の解析能力は構成だけでなく、術者さえも見抜く。
それは魔偽術に関する事件を主とする、呪術捜査官よりを遥かに凌ぐほど。
(でもやっぱり、〝レイス〟が実在しているかどうか。そっちでしょう)
なんとなく視線を落とし、少しばかり後悔した。
(割と気に入ってたんですけどねぇ~)
白い靴がすっかり汚れていることに、小さく嘆息する。
しかし、この血溜りと肉片だらけ地面は延々と続いているので仕方ない。
少なからず、それらを作った要因の主はフェフェット自身なのだから。
(う~ん……やっぱり、術者ぶっ殺して憂さを晴らした方がいいですかねぇ~……)
すでにこの迷宮を作り上げた術者を数人殺したが、複雑さが解消されるだけで、消滅はまだ遠いようだ。
この混沌の解明と、衝動的な怒りを収めることのどちらを優先すべきか。
フェフェットはひとまず進みつつ、転がっていた【千星騎士団】の損失した身体を蹴り払っていく。
(折衷案で〝レイス〟に八つ当たりがベストですねぇ~。そうなると、実在してくれた方がいい感じですねぇ~)
【凶星王の末裔】の中でも僅かにしか知らないその存在――〝レイス〟。
このランゲルハンス島の調査の主は、〔天命の石版〕や『無望の霧』周辺の遺物調査だ。
しかし、委員の中でもごく数名。ジャック・リスフルーバの勅命を受けた者のみ、〝レイス〟の存在の真偽調査を、主調査を隠れ蓑にして行っている。
(ただ……報告にある『悪霊』が星隷を使用した記録はないんですけどねぇ……)
報告例がほんの数件であるため、むしろ例外の方が多いだろう。
とにかく、事態は想定を遥かに超え、かつ想像だにできない場所へと走り続けている。
今、この状況が誰にとって不利なのか。何にとって有益なのか。
それを知るだけでも価値はある。
それを知るために、どれだけの代償を必要とするか。やはり想像できぬが。
(これは予備もすぐに動かしておけるようにしないと……)
今作戦に合わせて念のためにと用意したが、どうやら正解かもしれない。
(いや、本当は不正解の方がいいんですけどねぇ~……)
空を見上げて、小さく嘆息する。
見えるのは、空を我が物顔で支配する月の化物。
しかし、見ているのは希望を錯覚させる絶望の霧だ。
◇◆◇◆◇◆
「そんなに身構える必要はないぞ」
蛇を連想させるその男、〝魔眼〟ヨクトゥルヘヌワ――ザイスグリッツ・グルグ・パタヌーヌは両腕をぷらぷらと振り、敵意がないことをアピールする。
だがソラノアは身構えたまま、敵の出方を伺う。
倒せないことは分かっている。
いかにして倒されないか。それに神経を注ぐ。
「ひとまず、なんだ? その見ていて痛々しい左手を治してくれ。話に集中できないだろ?」
「…………」
「いや、その隙に何かするとかないからな? 話に来たんだから、さっさとやってくれ」
「……連なれよ星々――《聖慈癒座》」
ソラノアの人差し指に術図式が組まれると、星印が傷に沈み込む。
寸分の狂いない構成は、見る見るうちに傷を癒す。が、爪が復活するわけではない。塞がっただけだ。
その間、〝魔眼〟が何かを仕かけてくるアクションはなかった。
だからといって、相手は『魔物』だ。ソラノアは一挙手一投足を見逃さぬよう睨みつける。
「あのな。俺とてあの化物をどうにかせんと、この島から生きて帰ることができないからな。かといって俺達『魔物』が出しゃばれば、『魔法遣い』を召喚される危険がある――今の俺に、あんたをどうこうするメリットがあるか? 〝魔人〟に喧嘩を売るメリットが?」
理路整然とザイスグリッツは協力の利を説く。
確かに言うことは最もであり、理に適っている。
それでも、ソラノアは警戒を解かずに訊く。
「じゃあ、何か策があるんですか?」
「俺にはないが、お宅らにはあるようだぞ? そして、そいつらはあんたとコンタクトを取りたがっている」
「お宅らと言われても。私達、結構複雑な関係になっているんですけどね」
「へそ曲がりか――【凶星王の末裔】じゃないのか? あんたらの構成なんか知るか。あんたと同い年くらいの少女二人と、少し上の男が中心になって何かを企てている」
この状況で回答が曖昧ということは、ザイスグリッツは本当に分かっていないのだろう。
これで一つ分かったことは、〝魔眼〟は何かしらの方法で他者の情報を得ることができる。が、確実ではない。
(単純に考えれば、〝魔眼〟の通り『見る』ことはできる。といったところ……?)
「【千星騎士団】のやつらの目を盗んでやる間に、上手く脱出しろ。この迷路から出れば〔オレイアス〕は使えるはずだろ?」
ソラノアの返事を待たず、ザイスグリッツは手に持っていたヘルメットを放る。
ザイスグリッツとの中間で一度撥ね、こちらの足元に転がってくる。
足に固いものが当たる感触はあったが、〝魔眼〟から目を離すことはしない。
「なら、ソウタさんも逃がして下さい」
「そりゃ無理だ。『魔物』なんだぞ?」
「なら、交渉は決裂です」
「冗談だろ?」
本当に予想外だったのか、ザイスグリッツは驚きと呆れを混ぜた複雑な顔をした。
「あのな? 状況を分かっているのか?」
「ええ。互いにこの状況を打破したいんですよね?」
「……命令することもできるんだぞ?」
「倒すことはできなくても、抗うことはできますよ?」
ソラノアが宣言した瞬間だった。
目の前にいたはずのザイスグリッツの姿が消えたのは。
(――違うっ!)
姿が消えたのではなく、ザイスグリッツを含めた周囲が一変した。
目の前にあった木々などの自然物や迷路の壁の位置が、微妙に変化している。
「抗うことはできるんじゃなかったのか?」
声が真横からザイスグリッツの声がし、振り向く。
しかし、見えない。
というよりも、視界に変化がない。
目を上に動かすと左に。下に動かすと遠くを。上下左右複雑に動かすと、ゆっくりと右から左に視界が流れ、止まる。
視界が自分の意志とは全く違う方へと移動し続ける。
(これが〝魔眼〟の力だというのなら!)
声がした方とは逆に跳び、距離を置く。
「連なれよ星々――《渦球座》」
星印は渦へと変質し、ソラノアを包む。
この防壁型の魔偽術は、いかなるものでも近づけば力場の渦に引き込まれ、触れれば絡め千切られる。
視界を奪うことができようとも、近づくことができなければ相手は為す術がない。
「確かに。あんたの察する通り、俺の能力は『視界の支配』だ――だがそれ以前に、そんな術図式を俺が見抜けないとでも思っていたのか?」
宣告ともチカッと、それこそ激痛を伴うほどの強力な光がソラノアの視界を覆う。
真っ白で何も見えなくなったのは一瞬。だが想定外の衝撃にソラノアは姿勢を崩し、後方に数歩よろける――途端、魔偽術を解除された。
「所詮は簡易に作り上げた強大な力だ。それに釣り合う弱点が存在するのは当然のことだろ?」
ソラノアが構成した《渦球座》は術者を中心に、半径一メートル程度しか障壁は張られていない。かつ、術者が障壁から爪先一つでも出てしまえば魔偽術は消滅する。
(複雑ではないとはいえ、単純でもなかったはず……)
術の選択を後悔したところで遅い。
視界が鮮明に戻るその頃にはもう、ザイスグリッツがナイフを首筋に突き立てていた。
「いいか、今のように太陽を直視して失明させることもできる」
正直言ってしまえば、たとえ相手が『魔物』でもそれなりに対抗できると思っていた。
だが、現実は手足も出せずに負けた。
能力一つだけで。
「思うに、お前はなるべく五体満足でないと、その作戦はうまくいかないんじゃないのか?」
「……分かりました。従います」
誰でも想像できる戦いの結末であろう。
それでも、ソラノアは悔しさを噛み締めた。