5.『魔物』の狂宴
《暴餓獣座》によって増幅したソウタの魔偽術の余波は、倉庫の中をますます荒らすこととなった。もはや武器や魔偽甲、薬品、一目見てもよく分からぬものなどが一緒くたになっている。
ソラノアはそれらに潰されぬよう事前に距離を置いていたため、残滓を掻き分けながら戻って来ることに手間取っていた。
そして、突如として起きた目の前の出来事を、どう理解すればいいか分からずにいた。
《ああああああはははははははははっ!》
突如として、ソウタが笑う。
楽しむかのように。
狂ったかのように。
壊れたかのように。
《はははっ! ああああああはははははははははっ!》
ソウタの口から発せられているのに。ソウタの声色そのものなのに。質がまるで違う。
耳に入るだけで身体が震え、竦む。恐怖に全身が強張る。
《はははっ! ついに! ついに肉体を手に入れたぞ!》
掌を月にかざし、ソウタは狂喜する。
すると、こめかみの辺りから血が流れた。その傷口からは黄色い、炎のようなものが溢れ角のような形になる。
《ちっ。いくら肉体を強化したとはいえ、俺の出力に耐え切れないか》
「ソウタさん……?」
血を拭うソウタに声をかける。震えた声で。
それにソウタがこちらを向く。
《違う。俺はオルクエンデだ》
「えっ……?」
《せっかく〝魔人〟なん二つ名なんだ。一つ願いを叶えてやってもいいぞ?》
そうオルクエンデと名乗ったソウタが言うが、ソラノアはこの状況をどう捉えればいいのか分からずに困惑が増していく。
壊れたものを踏み鳴らしながら、背後からアイロギィが黒い剣尖を突き立てて突進する。
ソウタ――いやオルクエンデは、その彼を見向きもせずに『剣』を掴んだ。
《おいおい。水を差すなよ?》
背中越しで忠告するオルクエンデは、ソウタにはない禍々しさを漂わせている。
その佇まいは居合わせた者全てに、そこに立っているものが人間を超越した存在だと強引に意識させる。
《ソラノア。折角だ。お前に真なる魔偽術を見せてやろう》
オルクエンデは手を離し、ゆっくりと正面を向く。
不気味なほど口角を釣り上げながら。
《空の柩。銘なき墓標――》
オルクエンデの詠唱とともに、部屋中に無数の星印が散らばる。
それはまるで、夜空の星が降り落ちたよう。
一方、アイロギィはオルクエンデを警戒してか、視界から外さぬように神経を尖らせながら距離を離していく。
《――俺は既に、お前を知らぬ。お前の終わりは、誰もが知らぬ。築いた軌跡は、もう消えた。重ねた月日は、もう消えた。お前は既に、この世にいない――》
ソラノアはその術図式が一体何を起こすのか、辛うじて分かりはするものの、理解はまるでできない。
《――アイロギィ・スタンクフ。どうしてお前は、ここにいる?》
どうして、わざわざアイロギィに当たらないようにする術図式を組んだのか。
結果は術図式の通り、アイロギィの遥か前方で星印が一つとなり、何もない空間の存在意味を消滅させる。
アイロギィは術の構成から発動まで、一歩も動いてはいなかった――いや、疲労で動けないようにも伺える。
《ふん。カラクリが分かっているとはいえ、すぐに対処は困難か……》
オルクエンデは動揺するわけでもなく、新しい魔偽術を構成する。
《次だ。閉じて開け。表裏反転。天地混濁――》
今度の術図式は一目見ただけでは読み取れないほど複雑で、それがどういった意味を持つのか。どこに影響を及ぼすのか分からない。
ただ、アイロギィは微動だにせず、剣尖を正面に突き立てて呼吸を整えている。
《――今ここで、涙を枯らせ。世界の終わりは、背後に在るぞ》
星印はじわり、と空間に溶け込んだ。
すると、黒い剣が半ばまで消失した。そして、突然オルクエンデの前で落ちる。
「――っ!?」
声こそ挙げないが、アイロギィは目を丸くするほど動揺する。
次元歪曲――違う。次元交換か。結果から推測するに、対象範囲にある森羅万象全てを単純に入れ換えたのだろう。
《ふむ。たかだか人間程度の芸当だからか? 微調整も済み始めたぞ?――では。これはどうだ? 塵刃百億。大銀堂の重鎖檻は、王命に於いて閉められた――》
星印が集まり、術図式が構成されていく。
その組まれていく途中で、すでに魔偽術が一部形を成し始めている。アイロギィの周囲に光の檻が現れ退路を塞ぎ、上空の星印は刃となる。
(これが本当の魔偽術……『魔法』を偽る術……)
ソラノアは未だかつて見たことがない現象に、もはや術図式を読み取ることを放棄してしまう。
魔偽術は通常、術図式を完全に組み上げて初めて発動する。が、今オルクエンデは術図式を組んだ傍から発動していた。
考えられるのは、星印そのものの意味を利用して組む方法だが、やり方などまるで見当もつかない。
《――儀式は始まり、惑う羊は、祭壇で踊る。聖杯は血で満たされ、人の世は紅く染まる》
最後の詠唱が始まると同時、無数の刃が逃げ場を失ったアイロギィに一斉に襲いかかる。
そして、詠唱が終わる頃には刃も檻も消滅し、無傷ながらもその場で片膝をつき、折れた剣を支えにしているアイロギィの姿があった。
《残念だったな、ソラノア。これは本来、生贄を媒介にして贄との因果律の高い者達を刃が皆殺しして回るという、愉快なものだったんだがな》
自らが構成した魔偽術を説明するオルクエンデ。
ただ、それに対してソラノアは何を言うこともできない。
《で、お前は時間異層を形成して難を逃れたかわけか。正しい判断だが、人の身に余る力は身を滅ぼすぞ? 察するに、最悪のタイミングで奇襲を受けたんじゃないのか?》
オルクエンデが何を示唆しているのか。ソラノアにこそ伝わらぬが、アイロギィは決定的な何かを突かれたのか、表情を歪めた。
《いい加減、人間らしく惨めに泣き叫んで呼べよ、ビロゥガタイドをよ》
(どういうこと……?)
オルクエンデの言葉をそのまま解釈すれば、アイロギィ・スタンクフ――『剣の神子』は〝魔剣〟ビロゥガタイドではないということなのか?
「《翠拒壁座》!」
《紛いものの廉価が効くか》
オルクエンデを遮るように放り投げられた魔偽甲が翠色の障壁を形成するが、触れる前に粉砕してしまう。
身体を引きずりつつアイロギィが距離を置こうと魔偽甲を駆使して迎撃する。
しかし、オルクエンデはまるで効かない。
どんな攻撃をしようとも、ただ真っ直ぐ歩くだけ。進む速さを一切変えずに。
倉庫を抜け。裏庭に出たところで状況が一変した。
「アイロギィ!」
「イサラ! 来るな!」
追いかけるソラノアには、女性の声しか耳に入らなかった。
だだ、オルクエンデが醸す雰囲気が、明らかに変化したのは感じ取ることができた。
《やっとお出ましか、〝魔剣〟ビロゥガタイド》
すると、【テーブルスナッチ】の幹部である女性、イサラ・トリティエが駆け寄るよりも先に、オルクエンデがアイロギィの首を掴んだ。
ソラノアが目視できる距離まで、イサラが接近した時だった。
《では、本番と行こう》
オルクエンデは手を離す。と同時、逆の手をアイロギィの胸の中央を当てた。
光が溢れ、閃光がアイロギィの身体を貫いた。
「貴様ぁあああああああああ!」
胸に穴を空けたアイロギィは当然のことながらその場に崩れ落ち、微動だにしない。
倒れた傍から赤い池は生まれ、彼の亡骸を中心にその面積を広げていく。
《祭りの邪魔だ》
オルクエンデはわざわざビロゥガタイドを引きつけてから、アイロギィの死体を部屋の隅へと蹴飛ばした。
「殺してやる!」
《随分、人間にご執心だな!》
殺気を剥き出しにして、ビロゥガタイドが抜刀する。
銀の残光を疾らせた刃は、オルクエンデの首元で彼自身にあっさり掴まれた。
「効いていない!?」
《残念だったな。元々、この肉体と精神は大きな時差がある。加えて受術耐性も向上し、かつ『剣』とやらの構成もあいつのお蔭で当に解析している》
アイロギィの亡骸を指さし、オルクエンデはやや失望に似た口調で続けた。
《それに、人間と大して変わらないってどういった冗談だ? 俺を殺すんじゃなかったのか?》
刀を握り潰し、ビロゥガタイドの腹部を踏みつけるようにオルクエンデは蹴っ飛ばした。
ただでさえ華奢なビロゥガタイドは、地面を何度もバウンドしながらゴミ屑のように転がる。
その一部始終を見ていたソラノアだが、やはりオルクエンデが何をされたのか分からない。
「……くそっ! くそっ!」
ビロゥガタイドは血反吐を吐き、攻撃された腹部を庇いながら立ち上がる。
震える両脚で地を踏みしめ、上がり切らない両腕で折れた刀を握る。
見た目こそボロボロだが、金の瞳には殺意の炎が灯っていた。
が、ビロゥガタイドの身体がガクンと落ちる。
座り込む彼女へ、オルクエンデは悠々と近づく。
「力、が……!》
声がどこか、人非ずものへと変質していく。
血涙を流し、皮膚が割れていく。
自らの身体を抱えるかのように、ビロゥガタイドは小さく蹲る。それはまるで、体内で暴れる何かを抑えつけるかのようだ。
《普通の肉体なんかに入るからそうなるんだよ》
《触るな!》
オルクエンデの手を払い除ける。
すると、複雑怪奇な術図式が天から地へ張り巡らされていく。
《ちっ! 暴走か!》
今まで余裕だったオルクエンデも、慌てた様子でその術図式から逃げる。
《ああああああああああああ!》
ビロゥガタイドの悲鳴に呼応して、星印は増え、術図式は混沌としたものへと組み上げられていく。
《ったく。てめぇの力に耐え切れないで死ぬなんて、つまらねぇ結末だ》
《何、を、言って……いる……?》
《ん?》
《私はお前を殺すまで、死ぬつもりはない!》
ビロゥガタイドの宣言とともに、膨大に拡張していた術図式が止まり、構成が整理されていく。
だが、その多大な量の星印と複雑に交わる立体交鎖(なのか、確証は持てないが)は、魔偽術の知識が長けているソラノアにさえ全く把握ができない。
やがて完全に停止し、空間へと溶けた術図式。目に見えた変化はないが、一つの何かが終わったのだというのはどこかで感じた。
《おお! 気合で制御したか。まぁ、あとでゆっくり相手をしてやるよ》
感嘆するオルクエンデは嘲るように、止まったままのビロゥガタイドを見下した。
敵に背を向け、彼は闊歩する。
《さあ行くぞ、ソラノア。さすがの俺でも、あれに干渉するのは手が焼ける。わざわざこっちが疲弊してまで、結界を破ってやる義理はねぇしな》
徐々に、大きく、はっきりと映るユキシロ・ソウタ。
肩を抱こうとした彼の腕から、ソラノアは拒絶するように目一杯逃げた。
やや不機嫌になるオルクエンデに、ソラノアは訊くことを恐れながらも口にする。最悪な答えになることを恐れながら、
「ソウタさんは、どうしたんですか?」
問いに、オルクエンデは口元を歪ませて返した。
《もう、二度と戻ることはねぇよ》




