4.〝魔人〟オルクエンデ
最初に気づいた時、そこは何もない場所だった。
無、とはこういったところを指すのであろうか。
あるのは意識だけ。身体すら自分にはなかった。
《さあ。顕現の時が来たよ》
声がする。
男とも女とも取れない声が。
だが聞こえているというわけではない。伝わる、というのが正しい表現であろう。
《お前はなんだ?》
《私は『天使』と呼ばれる存在だよ、〝魔人〟オルクエンデ》
声の主の姿はやはり見えない。が、確かに存在しているのだということは分かる。
だがそれよりも、その言葉をきっかけに、自分が何者だったのかを思い出した方に意識は持って行かれた。
『魔法使い』によって無理矢理、創られた自我。
一〇に分断された『魔法』の断片。
そして、何を望んでいるのかも……
《君の望みを叶える手助けをしてあげよう》
こちらの心境を呼んでいるかのように、『天使』が告げる。
《タダっていうわけじゃないんだろ? まずはそれを言え》
《それなら単純だ。世界を救え。それだけだ》
《それは単純なのか?》
《そうさ。だって、君の願望に直結するんだからさ》
望み――創られた自分に発生した欲望。
いつから生じたのか分からぬ、それ。
《他のやつらも懐柔しているのか?》
《いや。君だけさ》
《証拠は?》
《ないね》
きっぱりと断言する『天使』の様子は、飄々としていてただでさえ姿がないのに掴み難い。
《だけど、君はそれを受けるしかない。でなければ、君は真の意味で望みを叶えることはできない。君がアルトリエ大陸へと喚ばれる、この瞬間しか》
すると、この無の世界に映像が現れる。アルトリエ大陸のどこか。小さな部屋が。
それは目で見ているわけではなく、頭の中に映っている。そういった感覚だ。
そこでは、年端もいかない白装束の少女が祈りを捧げている。
この自分を――〝魔人〟オルクエンデを召喚するために。
魂を削って……
《選択をしている暇はないようだな。乗ってやる》
《それはよかった。では開こう――『魔法』の末端に在る異世界に干渉する、その扉を》
扉は、開く。
だが、無の世界が続く。
それでも確かに進んでいるのだという意志だけははっきりする。
扉は開く。
扉は開く。
扉は開く。
ここから彼方へ。
世界の中心から末端へ。
扉は開く。
扉は開く。
扉は開く。
世界を偽り、意志だけが扉をくぐる。
『天使』が開く扉に導かれ、〝魔人〟は進む。
その扉を進めば進むほど、自分が何をすればいいのか。どうなるのかが伝わって来る。これは恐らく『天使』の計らいなのだろう。
扉は開く。
扉は開く。
扉は開く。
どれほどの扉を通ったか。
どれだけの世界を偽ったか。
意志はやがて、目的地たる場所へと続く扉が現れる。
扉が、開く。
そこはもう、無だけの世界ではない。
そこはアルトリエ大陸とはかけ離れた、しかしながらどこか通ずる世界。
このまま、この世界に留まりたいが、意志だけではどうにもならない。
加えて、少しでも気が抜ければ、アルトリエ大陸に召喚されかねないほど儀式は進んでいる。少女の魂は空白を広げていく。
焦りながらも、扉をくぐる。
すると、一人の若者が目の前に現れた。
一目見て分かる。
どこにでもいる男だ。
特別とは程遠い、単なる一般人だ。
強いて特別性を挙げれば、この数奇な運命と交わったということだけだろう。
昼間から酒を飲み、テレビを見る青年。
その姿はまるでこちらを分かっていない。
今から起こることを、まるで予期していない。
一瞬だけ、迷う。
この男でいいのか、と。
これに任せていいのか、と。
儀式は進む。
世界は進む。
少女は進む。
より残酷な方へと、進む。
意識に割り込む、アルトリエ大陸の光景。
もう時間はない。
迷う余裕はない。
ここから、全てが始まる。
これから、数多が変わる。
進む運命は、分かたれる。
それを確信しつつ、〝魔人〟オルクエンデは世界を偽りながら、青年に声をかけた。
《おい。力を貸せ》
◇◆◇◆◇◆
――勝てないのか?
宗太の胸中で焦りが生まれる。
切り札の魔偽甲を使い、〝魔人〟の力を存分に込めた魔偽術をぶつけたというのに、アイロギィに傷一つつけられなかった。
対し、敵は一撃必殺の可能性を秘めた武器を使ってくる。
「――っ!?」
いつの間にか眼前まで来た『剣』に、宗太は咄嗟に後ろへ跳躍して交わした。必要以上に距離を開けて。
自分は今、それだけの時間を無駄にしたのだ?
「なんだ、呆けて? 死んでくれるのか?」
疲れこそ映るもののアイロギィの勢いは、勝機を見出したお蔭で増していく。
宗太の防御は徐々に覚束なくなっていく。
黒い刃が宗太を裂く。外傷はさほどないが、心は確実に削られていく。そして、『剣』の色と同じように、真っ黒に染まっていく。
闇に沈んでいく……
(どうすりゃ……)
身体が重くて、動かない。
攻撃を受けたからじゃない。
どうすればいいか分からない。
いくら避けても攻撃が通じない。
いくら攻撃しても、倒せやしない。
一体、何をすれば勝てるというのだ!?
《なら、俺にその身体を貸せ》
それは天使の囁きか。悪魔の誘惑か。
唐突に、オルクエンデが問いかける。
《お前じゃ〝魔剣〟に勝てない。俺ならお前よりも巧く世界を偽れる》
しかし、宗太は即答できない。
いくら利害が一致しているとはいえ、自分の肉体をよく分からないものに貸すには抵抗があった。
《疑る暇があるか? 俺は今、お前に死なれたら堪らん――それとも死ぬ気なのか? 元の世界に骨を埋めることすらできずに》
思考を巡らせるが、答えなど出やしない。
起死回生の術など見つからない。
もはや、その言葉に縋るしかない。
可能性を信じるしかない。
(――分かった。頼む)
《よし。星約は結ばれた》
そして、宗太の意識は薄れ……
《あああああああああははははははははははははっ!》
狂喜の笑い声が、世界に響いた。