8.「君は笑った方が可愛い」
議会委員宿舎をあとにし、宗太とソラノアは学院寮近くの店で食事を取った。
その時のソラノアの口数が少なかったのは、『ソラノアを俺に下さい』なんて言ったからだろう。
正直、食事はやや気まずかった。
そして寮に帰った宗太は現在、ソラノアの机で魔偽術に関する書物を読んでいた。
彼女の部屋には本が多いがどこか女の子らしく、綺麗で可愛らしい小物もちらほら見える。電化製品に似た生活道具も目につく。
(で、俺はリビングで寝りゃいいのか?)
《んな、つまんねぇこと言ってんなよ。ベッドでいいだろ、ベッドで。あとは迎えてやりゃいい》
(お前、どうでもいい時は出てくんなよ)
《酷ぇな、お前》
なんてオルクエンデは気楽に言うが、宗太に余裕はない。読んでいる本の内容はまるで頭に入ってはない。
何故ならソラノアは今、風呂に入っている。
最初はリビングにいようと思っていたのだが、浴室が近くシャワー音を始めとしたソラノアが出す音が耳に入ってしまう。
異常なまで聞き取れてしまうのは、この特異な肉体のお蔭か、それとも男の欲望か。
それを聴き続けられるほど度胸もなく、1LDKの部屋で逃げられる唯一の場所は彼女の部屋しかなかった。ただ、ドアを閉めるのもどうかと思い、開きっ放しにしているため、防音はあまりできていないが。
部屋の使用の許可を取る際、ドア越しにソラノアに話しかけた。
軽く魔偽術を齧っておきたいから、本を読ませてもらっていいかという理由で。その時が一番緊張し、欲望を押し殺した。
書物の文字や解説はやはり読める。しかし、専門的な用語が多く、説明がなければいまいち分かり難い。
ガチャリ、と奥で扉が開く音がする。
心臓が高鳴る。もう、文字なんて追えない。
欲望とそれを象徴する部位に自制を利かす。
ドライヤーに似た髪を乾かす音が耳に入る。
身体を拭き、道具を片づける。当然見えないものの、如実に伝わる。
そしてついに、足音が一つ一つ近づく。
背中で、ソラノアの気配を感じる。
「ソウタさん。お待たせしました」
「ああ。ごめん。そろそろ出る――っ!?」
椅子から立ち上がり振り返ると、そこにはいつなく綺麗なソラノアがいた。
彫刻よりも美しい、一糸纏わぬ姿のソラノアが。
咄嗟に目を逸らしたが、86という数字は実に信憑性があった。
「服着忘れてるよ、ソラノア! それとも着ない派!? あっと……うん! そうか! 俺がここにいると思わなかったんだよね!? そりゃそうだ! 昨日まではいなかったんだし! それに女子の部屋にいつまでもいるなんていう、常識がないとも思わないもんね!」
混乱し支離滅裂なことを口にする宗太に、ソラノアは正面から抱きついてきた。
腰に腕を回し、逃がすまいと密着する。
風呂上りだからか、彼女から漂う形容しがたいいい香りが鼻孔をくすぐる。
ソラノアの顔は宗太の心音を聴くかのように埋められる。まるで全力疾走をしたあとのように、心臓が激しく鼓動しているのを聴かれているのだ。
華奢で小柄ながら、今まで味わったことのない柔らかさと温もりを持つその身体。特に、ソラノアの胸が押しつけられた部分に神経が集中してしまう。
「ソラノア! それはマズイ!」
抱き締めたい衝動に駆られる。それも壊してしまうかもしれないほど強く。乱暴に。
そうすれば、このソラノアの柔らかさを両腕で、全身で味わうことができる。
このいい香りのする、まだ水分を含んだ髪を梳きたい。触り心地がよさそうだ。
いや、それよりも何よりも。生まれてこの方、異性の身体の触れたことのない部分を確かめてみたい。
身体中、余すことなく触れたい。知りたい。
脳が蕩けそうというのはこういうことか。
(落ち着け! 落ち着け、俺!)
このままでは、宗太の理性は粉々に破壊されてしまう。現に、下半身が制御不能になりつつある。
欲望が解き放たれてしまった自分の姿など、もはや想像できない――オルクエンデの声が聞こえなくなったが、この状況を面白おかしく見ているのか?
「酔ってるの!? それとももう寝惚けてるの!?」
「私の役割です」
潤んだ薄紫色の瞳は妖艶さを垣間見せる。
形のいい唇はまるで、キスを誘っているようだ。
筋の通った鼻も、柔らかな頬も、小さな耳たぶでさえ愛おしい。独占したい。
「私はソウタさんのものですから。この身体も、子宮も全て……」
妖艶で耽美な言葉に宗太は、確かに全身を震わせた。
だがしかし、頭はどこかで冷めた。
抱きしめて滅茶苦茶にしてやりたい衝動と、こう至らせてしまった罪悪感が同居する。
「お父さんがそう命令したから?」
今度は、ソラノアの身体が震えた。
宗太から目を背け、俯き、何も言わなくなる。
その態度に、ソラノアが真面目でいて、優しい少女だと改めて実感する。
だから、宗太も心を決めた。
「いやさ。そのね? はっきり言っちまうと、この状況に何も考えないで欲望に身を任せたいさ。ソラノアみたいな子とそういう一線を越えられるっていうのは、願ってもないことだよ」
正直、そう言えたか自分では全く分からない。
心臓が激しく鼓動し、要らぬことが頭の中を埋め尽くし、欲望が身体中を駆け巡る。
心を落ち着かせるため、深呼吸した。ソラノアの香りを思いっ切り吸ってしまったため、全く持って落ち着くことはできないが。
「ソラノア。俺を見て」
ソラノアは戸惑うものの、顔を上げた。
卑怯なまでに愛おしいその顔を、潤んだ瞳を、宗太は決して離すことなく見つめる。
「でも。自らを傷つける行為はやめて欲しいんだ。俺は君を傷つけるために、ましてや抱くために俺のものにしたわけじゃないし――っていうよりも、あれは方便だから……」
彼女もそれは分かっているだろう。
だがそれでも、そうするしかなかった。
ソラノア・リスフルーバが雪城宗太のものであると、彼女自身が認識するため。宗太がそう思えるため。
役割がなかったはずの自分に、宗太が与えてしまった意味を無理にでも嵌めるため。
「それにこの身体は〝魔人〟のものでもなけりゃ、俺の純正ってわけでもない。だから俺が君を抱いたとしても、子供ができるか分からない。もし妊娠してもどんなものが産まれてくるか……」
「それでも、試す価値は……」
「ふざけんな!」
反射的に怒鳴ってしまったことに、宗太はハッと我に返る。
いきなりのことに、ソラノアの瞳から涙が一筋零れた。
今まで塞き止めていた感情が、溢れてしまってしまったのだろう。
泣き声こそ上げないものの、ソラノアの瞳から涙が止まらなくなる。
「ごめんなさい」
「いや、俺の方こそ怒鳴って悪い」
ソラノアは涙を拭おうとするが、一向に止まらない。
一方、ソラノアから解放された宗太はシーツを手に取ると、彼女の顔だけを見たまま包む。
そしてシーツ越しに、触れるか触れないかぐらいの力で抱きしめる。それが今の自分にできる妥協点であり、限界だ。
「でもさ、試すとか価値とか、そういうのはやめてくれ……君の大事な身体だろう?」
親指で宗太がソラノアの涙を拭う。それで止まるわけではないが、彼女は落ち着きを取り戻した。
宗太もまた瞑目し、心を鎮める。
瞼を開き、ゆっくりと口を開く。
「もうさ。はっきり言うよ、ソラノア」
ビクッとソラノアが肩をはねさせたのは、軽蔑されると思ったからだろうか。
そんな彼女に、宗太は柔らかく微笑む。
「君は笑った方が可愛いんだ」
「えっ?」
思ってもいなかった言葉に、ソラノアは純粋な、それこそ子供のような薄紫色の瞳を宗太に向ける。
「君には笑っていて欲しい。正直、俺に戦う理由も覚悟もない。でも、ソラノアが笑っていられるなら、少しは戦えるかなって思えるんだ。最低限、今は――まぁ、ちょっとキザだけどさ」
最後は少し自嘲気味だったが、ソラノアは笑いはせず、ただじっと見つめる。
「だからさ、ソラノア自身から傷つくのはやめて欲しい。俺は何よりも、君を傷つけるものを許すつもりはないから」
肩をぽんと叩き、ソラノアから離れる。
彼女が納得したかは分からない。だがもう、自らの身体を使うこととはしないと思う。扉の前まで歩いても、もう無理に繋ぎ止めようとはしなかったから。
ドアノブに手をかけ、シーツで自身を覆うソラノアに声をかける。
「じゃあ、おやすみ」
「……はい。おやすみなさい」
閉めるまで、ソラノアはどこか呆然と立ち尽くしていたことが気になったが、あとは彼女自身が解決することだ。
宗太が与えたとはいえ、そこからはソラノア自らが、本来はあるはずのなかった明日からの己の役割を見出すべきだ。




