プロローグ 道は分かたれた
高校を卒業し、そろそろ半年が経過しようとしている。
夏も終わり、暦の上では秋だというのに、空高く昇る太陽は未だ自己主張をやめようとはしない。
ただ、今の雪城宗太には関係ない話だ。
残暑を無視した冷房の効く部屋の中で、真っ昼間からバイト先の先輩に貰った缶チューハイを飲んでいるのだから。
立地条件故に家賃の割には広いワンルームだが、ものが乱雑しているため広さはさほど感じない。
DVDとゲーム機が乱雑に置かれたテーブルの上に置かれたテレビに映るものは、昨日届いたばかりの海外プロレスのDVD。服も寝間着であるよれよれのTシャツとジャージ。
実家にいた半年前ではできなかった、夢の時間である。
(駄目人間街道まっしぐらって感じだな)
親は進学を求めたが、宗太にはこれといった将来の目標がなかった。
それなのに学校に通うのは、金の無駄遣いではないかと思って拒んだ。
就職活動をしなかったのは時期を逃したのと、今のバイト先に満足していたからだ。
高校に進学してすぐに入った、二つ駅を越した書店。
四年目にもなると、それなりに責任感の仕事が増えている。
高校を卒業したので深夜タイムでも働けるようになり、また三月にフルで入っていた人間が辞め、代わりに入ることができたのも大きい。担当の仕事も本格的にさせてもらっている。
宗太は将来に悲観しているわけでもなく、しかし未来に楽観しているわけでもない。
(典型的な若者なんだろうな)
どこにでもいる、大多数に部類するであろう自分の見た目も、やはり平凡的だ。
中肉中背ここにあり、といった体型に顔も日本人顔。染めたことのない黒髪は、近所の散髪屋で切ったせいもあって、そこそこ清潔といった程で特徴はない。
とりえもこれと言ってあるわけでもなく、特技も履歴書に載せられそうなものは何一つ思いつかない。
ただ、この十九年間、それで困ったことはあまりない――記憶から消しただけかもしれないが――ので、これからもさほど問題はないだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、試合は佳境に差しかかる。
贔屓のレスラーが決めに入るポーズをし、ツームストン・パイルドライバーに移行する。そんな時だった――
《おい。力を貸せ》
――突如として、頭の中へと声が直接入り込んだのは。
思わずギョッとなり、上半身を起こす。
真っ先に疑ったのはテレビだが、この海外プロレスは全て字幕だ。
日本人レスラーもいるが、このDVDに試合は収録されていない。実況にも日本人はいない。日本語を話せる者もいるらしいが、今の試合はそんな場面ではない。
なら――?
《聞こえているだろう?》
外の人間かと一瞬、疑ったがそんなことをわざわざ言うやつはいないだろう。
それに、声はまるで自らの心の声のように聞こえているのだから。
(まさか鴻上さん、変な薬混ぜてねぇよな!?)
口をつけ、半分以上飲んだ缶の細部を見やる。それこそ、穴が開くんじゃないかというほど。
特別、異変は見られない。
それに先輩の鴻上は真面目であり(未成年に酒を渡す時点で、そうとは言えないかと脳裏に過ったが)、正義感が強い。
(表面上は、だけど)
その言葉は鴻上に向けたものではない。自覚だ。
《それとも、言葉が分からない馬鹿なのか?》
思考に割り込んでくる声。
空耳などではない。間違いなく男の声が伝わって来る。
幻聴など生まれてこの方、経験したことがない。なので、これがそういったものなのか判断ができない。
《おいおい。マジで馬鹿なのか? まぁ、昼間から酒飲んでるようなやつだしな……それともヤバい薬でもやってのんか?》
(心外なことを言うな。俺は至って健全だ)
《おおっ! やっと通じたか!》
試しに返してみると、声は歓喜する。
言葉が返ってくるということは、やはり幻聴ではないのか。それとも、自分の心が勝手に言葉を作ってしまっているのか。
だとすれば、何科に行けばいいのだろうか?
《おい。英雄に憧れないか?》
(六年前の俺に言え。泣いて喜ぶぞ)
《女を救いたくはないか?》
(よそに頼め。荷が重い)
《未来を変えたくはないか?》
(いや。今さらシフトが変更されても困る)
自分の未来など、壁に貼られた一か月の勤務表の中で完結している――いや、来年の映像化の注文書はもう来ていたか。
とにかく。これらの会話で、少なからず自分の心の問いではないことは確かだと判断する。
《死にたくはないだろう?》
(そりゃそうだ。俺は今、DVDを見てんだ。結果は知っているが、こんな面白い試合を見終わらずに死ねるか。観ろ。今、ツームストン・パイルドライバー返されたんだぞ)
《なら、待ってやる》
(おおっ。いいやつだな、お前。いや、脅してんだからよくもないか)
《だが、同意しなければ殺す。いくらお前らの次元が『魔法』圏の末端であろうとも、圏内であることには変わりないだ。俺の〝魔人〟の力を有すれば確実に可能だ――だが、完全ではないからな。一瞬では殺してやれんぞ》
(何を言っているか分からんが、とりあえず滅茶苦茶だってことは分かるぞ。もうちょっと、頑張って交渉してみろ)
《確かにそうだな――なら、これならどうだ?》
『死にたくない』
再び聞こえる声。
しかしそれは先までとは違い、少女の、か細く消え入りそうなものであった。
突然の声に変わりないが、決定的に違ったのは直接ではなく正面から聞こえたこと。
そう。テレビからだ。
クライマックスに差しかかったレスラー同士の死闘はいつの間にか、石畳のような床で両膝をついて祈る白装束の少女へと変わっている。
画面に映る俯く少女はフードを深く被っているため、どんな顔をしているのかは窺えない。
《結果として、俺はこれからあいつを殺す》
「何を言ってるんだ?」
思わず声を漏らす。
今、テレビに映っている少女を殺すだって?
《だが、実に不本意だ。俺も助けたいんだよ。そうだろう? 見た目のいい女を死なせるしかない世界ってのは、間違っていると思わないか?》
声に、僅かながらの焦りが滲むのを察する。
《時間はない。救え》
言葉通りなのか、画面の中の少女はいきなり倒れ込み、苦悶の表情を浮かべる。
その場に蹲り、焦点の定まっていない薄紫色の瞳からは涙を。震える薄い唇からは涎が。引きつる筋の通った鼻からは血が出ている。
身体はふざけているのではないかと思うほど震え、仕舞いには奇声か悲鳴かは分からない声を上げ始めた。
だが、祈りはやめない。
「――めろ……」
これが本当か嘘かは分からない。
だがもう、見ていられなかった。
「もうやめろ!」
差し伸べた手で触れようとしたのは、テレビの電源か。それとも少女か。
自分自身、分からなかった。