西荻ブルース
いつもの日曜日と同じように……いつもの席に座っていました。
いつもなら三十分位遅れてくる彼を、いつものように待っています。
中央線の西荻窪駅を降りて、商店の立ち並ぶにぎやかな通りを歩いていくと、三叉路の角に赤いレンガで縁取ったステンドグラスが見えてきます。
そこが私のマンションからほど近い、エトワールという喫茶店です。
入り口付近に黄と赤の二色で塗り分けられたテントが印象的な店です。
いつの頃でしたか、
すっかり忘れてしまいましたが、
一人暮らしの私の日曜日が、その喫茶エトワールから始まるようになっていました。
日曜日の朝のモーニングサービスが豪華なんです。
コーヒーがブルーマウンテンで、ザワークラフト山盛りのホットドッグで、フルーツトマト満載の野菜サラダで、とどめに、北欧風の花柄小皿にピーナッツが5粒で。
食いしん坊の私のため息が聞こえるでしょう。
でも、今日は少し違っています。
いつもより、ずいぶんお洒落をして、いっぱいお喋りを考えてきたからです。
一晩中考え続けて、ほとんど眠ていないんです。
なぜなら、昨日、彼と喧嘩をしてしまったからです。
彼が悪いというのではありません。
気分屋の私が悪いんです。彼にウンザリしてしまい、突如、勝手に暴発してしまったからです。
彼の実家はテント屋です。
『このエトワールのテント、僕が取り付けたんだ。なかなかイカスだろ』
彼はその苦労話をデート中に長々と話します。
『あそこの角のボルトを締めるのに苦労したんだよ。一時間くらいかかったかな』
そんなこと熱弁されて、イカスだろうと言われても……。
年ごろの娘がテントの取りつけ方や、工具の使い方の話しが楽しいはずがありません。
『他に話し無いの! 緩まないボルトの話や、テントに乗って空を飛びたいとか、そんな話、私が楽しく聞いていると思ってるの!』
『でも、テントに乗って空を飛べたら楽しいだろう……出来たら』
その後の言葉を遮ってたわ。
『出来たら君と』なんて言われたら、どんな顔すればいいかわからなかったから。
『それじゃ、二色に塗り分けたテントでモロッコまで飛んで行って、カサブランカの沿岸からジブラルタル海峡でも眺めてきたらいいのよ……』
あなたは驚いていましたね。
そのまま頭から湯気を出して立ち去る私に、声をかけることも忘れるくらい。
動くことも忘れるくらい。
私があなたの前からいなくなるのに、気が付かないくらい……。
「コーヒー持って来ましょうか?」
ぼんやりしている私に、喫茶エトワールのマスターの心地いい声が聞こえてきたのです。
「いいんです。まだ……」
私は慌ててしまって、思考より先に声が飛び出していました。
口ひげが似合うマスターは軽く会釈をして答えてくれました。
「待ち合わせじゃないんですか……」
「え!……」
私は彼が来る十五分くらい前に彼のコーヒーを注文します。
熱いコーヒーが覚める頃に彼が来るのです。
別に熱いコーヒーが苦手なのではありません。少し冷めたコーヒーが好きなだけです。
「もう十五分が過ぎました。いつもなら……」
「おかしいですね」
「別に……おかしくはありません。少し変ですけど」
「すこし変ですか?」
「待ち合わせの人が来る前に、コーヒーを注文すれば冷めてしまいます」
「誰がくるんですか」
私の前には私のコーヒーカップしか置いてありません。マスターは静かにそのコーヒーカップを見ていました。
「冷めたコーヒーの人」
私もコーヒーカップを眺めました。
「冷めたコーヒーが好きって、おかしいでしょう」
「おかしいですか?」
「だって、冷めたコーヒーが好きなら、アイスコーヒーを頼めばいいのですから」
「恋とおなじですよ」
「コーヒーが、ですか?」
「恋の話です……」
「来ないんですよ。今日は、もう……」
「きっと来ますよ。やっぱり、コーヒーを持って来ましょうか?」
「いいんです。そのままで……」
マスターの髭が微かに動き、優しげなまなざしで私を見ていました。そして軽く頭を下げるとバックに流れているラ・クンパルシータのリズムにあわせて立ち去って行きました。
その時、テーブルの上にある北欧風の花柄小皿の上でピーナッツ五粒が転がりました。
彼の大好きな五粒のピーナッツ。
彼はなぜかエトワールピーナッツが好きなんです。
私にも異論はありません。素直に頷くほどピーナツが香ばしくて美味しいのです。
「なぜ、ピーナッツは5粒なのですか?」
私はマスターに聞きました。
マスターは髭を人差指で撫でてから答えてくれたのです。
「私の孫が五歳だからです。孫が百歳なったらエトワールは潰れてしまいます」
刻まれたしわから笑みがこぼれました。
一時間が過ぎています。
もう、今日は来ないかもしれません。
きっとあなたは怒っているのでしょう。
時間が過ぎても来ないあなたが、なによりの証拠です。
それほどいっぱい電話もメールもくれる人じゃないけど……。
なのに、どうして私はここにいるのでしょう。
マスターに涙を見せたくないので、私は立ち上がりました。
「いいんですよ……いくらいても」
タンゴのリズムの合間をぬって、マスターの声がしました。
「用事を思い出したので」
私は悔しさのあまり心にもない嘘をついて、喫茶エトワールを出て行きました。
歩いている私の頭の上で、中央線を走る電車が枕木の音が響かせていました。
そう言えば、彼がエトワールの歌を作ったと言って、マスターに聞かせていたのを思い出しました。
中央線の西荻窪を歌った演歌調の『西荻ブルース』という歌でした。
「雨に煙った西荻の、ネオンライトにつつまれて、遠くに聞こえる中央線、ステンドグラスのエトワール……」
彼の少し外れた歌声を思い出しながら、私はしばらく駅に向かって歩きました。
落ち込んでいる私の耳に、電車の音とともに聞きなれた調子外れの歌声が聞こえて来たのです。
「雨に煙った西荻の……」
私はあたりを見渡しました。
「ネオンライトにつつまれて……」
歌が止んで大きな声が聞こえてきました。
「ここのボルトが肝心だ。ギュッと強く締めないと」
彼は日曜日だというのに、長い梯子に乗って、汗をかきながらテントの取り付け工事をしていたのです。
「帰るのか……」
私を見つけた彼は素っ気なく言いました。
私が昨日、寝られないくらい悩んでいたのはなんだったの? そんなことを言いたくなるくらい自然でした。
「うん、帰る……ピーナッツ五粒、残したままだから」
私は再び喫茶エトワールへ歩き出しました。
中央線の西荻窪は雑多な街ですが、アンティークな店や古書店などが多く独特な雰囲気のあるところです。
若い男女のひと時は、まるでレールの音です。大きくなって、やがて聞こえなくなる。そして、又かすかに聞こえてくる。ガタゴトガタゴト。
読んでいただいて有難うございました。