第3話 ~負けず嫌い~
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「ん、うぅん……」
朝の起床時間となり、看護師が薄い黄色のカーテンを開け放った。しゃっ、とカーテンが移動する小気味良い音が響く。
差し込む朝日に、朱里の沈殿していた意識が少しだけ浮き立った。その意識へ更に追い討ちとばかり、女性看護師は声を掛けた。
「朝ですよー! 藤宮さん、起きる時間ですっ」はつらつとしたよく通る声だった。学生時代に運動部の女子マネージャーだったと言われても、納得がいくに違いない。
しかし、それでも朱里は起きなかった。「もう少しだけ。あと5分だけ」と、お決まりの台詞をのたまいながら、掛け布団に包まる。
女性看護師の平井は、肩を竦めて嘆息した。けれどそれは負の感情ではなかった。自分は仕事でこの娘を起こさなければならない。けれど、この愛らしいフランス人形のような少女を相手にすると、つい甘やかしたくなってしまうのだ。小さな子供を仕方なくあやすような、やれやれ、といった感情に近い。
そんな微笑ましい感情を引っ提げて、掛け布団に手を掛けてほんの少し剥がした。すると先ほどの微笑ましい感情は雪だるま式に加速度を上げた。
朱里はまるで赤ちゃんのように、膝を折り曲げて小さく丸まっていたのである。瞬きしたら音が鳴りそうなほど長い睫毛の付いた瞼を閉じて、幸せそうに安らいでいる天使がそこに居た。
思わず抱きしめたくなる衝動に駆られながらも、必死で平静を保った。何とか平常速度まで戻った脈拍。平井は肩を優しくゆすった。
「ほら、朝ごはん食べれなくなっちゃいますよ」
「はぁい……今起きます」
寝ぼけ眼を擦りながら、朱里は何とか身体を起こした。
看護師の平井は28歳の女性。都内の当病院に来てからもう3年が経っていた。
昨日、病院へ搬送された朱里は、意識こそ無かったものの外傷はほとんどなかった。
彼女の担当となった平井は身の回りの世話をしようと病室に入り、その際に初めて朱里を目にした。
その時に襲った衝撃は今も忘れられない。そこには筆舌に尽くすのも憚られる程の美少女がいたのだから。
未だ意識を取り戻さない彼女の顔をまじまじと見つめながら、もし彼女が屈託の無い笑顔を向けてきたら卒倒するに違いない、と男子のような妄想を膨らませていたのが遠い昔のように思えた。
「おはよう、藤宮さん」
「おはようございます」
眠そうな顔をした朱里に、平井は挨拶をしてみた。平井は続け様に、若干日本人離れした顔つきでもきちんと日本語が通じることが嬉しい、といった旨を冗談混じり言ってみた。すると朱里は、頭の上にクエスチョンマークが踊るように首を傾げた。
(あぁ、首を傾げる仕草さえも可愛いっ。もう私病気かも……)
平井は人目も気にせずに、一人身悶えている。
そこでふと気づいた。
(ん? あれ? 日本語は通じても、冗談は通じないのかな?)
平井はまぁいいや、と早速次の話題に移る。
胸のネームプレートを親指と人差し指で摘むようにして強調しながら「私はあなたの担当看護婦……いや、看護師です。平井と言います。よろしくね」
「あ、はい。お世話になります。平井さん」
ぺこり、と座ったままの姿勢で朱里は挨拶を返す。
「短い間だけど、貴女のような可愛らしいお嬢さんだと、私も頑張りたくなっちゃう」
平井の言葉に、朱里は眉を下げながら、頬を指で掻いた。
「え……っと、可愛いとか、よく分からないです」
「またまたぁ! 自分の顔も見たことないような事。あ……」
平井は何か思い出したように小さく声を上げた。
朱里は困ったような顔をしていた。
加虐的嗜好の持ち主であれば、苛めたくなるほどの雰囲気を醸し出している。
「ちょっと待ってくださいね」そう言って平井はドアに向かった。ぱたりと戸が閉まる。
-2-
一人残された朱里は窓の外を眺めながら思案顔。整った目鼻に、きゅと結んだ桜色の唇。難しい顔をして考え込む姿もまた、香り立つ色香を放つ。
(何だろう? あ、それより自分の状況を聞かなきゃ)
窓の外はこの病院を中心に、円周状の形で道が整備されている。家族に連れられて散歩を楽しむ患者が数組居た。
昨夜に考え事をしていたといっても、結局は答えなど出なかった。それはそうだ。情報が少なすぎる。どんなに考えてもそれは推測に過ぎない。知っている人に聞くしかなかった。
今の朱里は不安の塊だった。客観的どころか、内側からでさえも視ることの出来ない自分。無理やりにでも自らを固着しないと狂ってしまいそうになる。
昨夜も愛華が抱きしめてくれなかったら、自分は錯乱して酷く取り乱していたのではないか、と思った。
「僕、僕」
ぼそっ、と。隣に人が居たら聞き返されていただろう声量。
「私、わたし……あたし」
確かめるように、不確かな形をなぞるように。
試してみても期待した成果は得られず。真一文字に結んだ唇を少し窄めた。
完成させようとしたパズルのピースの中に、合わないピースが紛れていた場合、そのパズルはどうなるか。合わないピースはどこにも嵌ることなく、そのパズルは一生完成しないだろう。そんな気持ち悪さだけが残った。
部屋のドアが開いて、平井が戻ってきた。
朱里は燻っていた疑問をぶつけてみようと前屈みの姿勢で息を吸ったが、それよりも先に平井がハイ、と何かを差し出してきた。その勢いに押されて弓なりの姿勢に、腰が引けてしまった。それに伴い口が閉じてしまう。
差し出されたそれは縦に細長い姿見だった。差し出されても大きすぎて持てないと思った。
「あの、それは?」
当然の疑問符を相手に投げる。それを受け取って、平井は優しく微笑みながらいった。
「何って鏡です、鏡。ちょっと布団から降りて、立ってみてください」
「あ、なるほど。自分の顔を確認しろってことですね」
「そうです。そうしないと自覚の無い困ったちゃんが出来ちゃいますから」
からかうような調子に、朱里は目を細めて睨んだ。
「どういう意味ですか、それ」
「自覚のない美少女は、それだけで犯罪になり得ますからね」
目一杯凄んだつもりだったのに全く意に介さない平井をみて、朱里は自分に喧嘩は向いてないんだな、と思った。
(何がそんなに楽しいんだか、まったく……)
呆れ半分。もう半分は……なんだろう。朱里は自分でも分からず苦笑する。
嬉しそうな声を弾ませる平井を尻目に、朱里はベッドから降りてスリッパに足を通す。
平井が大きめの姿見を持って、倒れないように押さえてくれている。恐る恐る姿見へと近づいた。
「わっ」
それは感嘆の声か、未知の邂逅による恐怖の声か。混ざり合ってよく分からない。
鏡の中にはまるで異世界に出てくるお姫様のような少女がいた。
飾り気の無い患者服を纏って尚、その美麗さは欠けることなく輝いている。
朱里は鏡の中から見つめ返してくるお姫様の視線に耐え切れず、自ら目を逸らす。それに合わせて鏡の少女も同時に目を逸らす。
朱里は蒸気させた顔で気まずそうに俯いていた。
(凄い可愛かった。これが他人だったら絶対恋してるよ……。うわ、変な汗が)
熱くなった身体を鎮めようと、朱里はパタパタと手で自分の首周りを扇いだ。
「ほら、可愛いじゃないですか」
妙に嬉しそうな平井の声で朱里は、はっと我に返った。
乱れた焦点が定まる。
そうして放った言葉は――
「ふ、ふ、普通だと思いますけど」
負けず嫌いな朱里だった。
どもです。作者です。
あれですよね……実はストーリー進んでない!
だってほら、平井さんに起こされて、鏡見せられただけですもの。
言えない。ただラストの朱里が強がるシーンを描きたかっただけの回だなんて、口が裂けても言えない……。
いやまぁ、タイトルに滲み出てますけど。
滲むどころかダダ漏れですけど。
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