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Still,  作者: ラヴィ太
2章
19/20

第10話 ~一つの事例~

 ぱさぱさと音がする。真白い白衣を着た男が紙を机上で束ね立て、整理をしている。

「いやぁ、その後の経過も順調でホッとしました。精密な検査は行いましたが、あれだけ大きな事故だったにも関わらず目立つ外傷が無いものですから、逆に内部に何かあるんじゃないかと慎重になっていました。ですが、全く心配ないようですね」

 朱里の担当医である岸間は、使い終わった資料をまとめながら笑顔でいった。よかったよかった、と尚も自分のことのように繰り返す。

「そうですか。それなら安心です」

 彩乃は息をつきながら、身体の芯が緩まるのを感じた。岸間の報告を受けて安堵した途端、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。自然と口元も緩むというものだ。

「ええ。定期的に通院するのは次回が最後でいいと思います」

「先生のお陰です」彩乃は深々と頭を下げた。




 朱里が退院してから丁度一週間、お風呂騒動から四日後の午後二時。彩乃は姉妹二人を連れて、朱里が入院していた病院へ定期通院に来ていた。主に病状の経過を診るためだった。

 一通りの診察が済んだ後、彩乃は「先生と少しお話があるから」と朱里を先に診察室から辞させた。私も居た方が、と彩乃の表情をうかがっていたが「ちょっとした事だから、すぐに終わるわ」とお茶を濁した。何の他意もないよう装ったつもりでも、訝しんでいるのが空気で分かった。しかしすぐに朱里は引き下がったようだった。現在の朱里にはあまり聞かせたくない話だった。今頃は一階のロビーで愛華と待機しているはずである。

「それで、お話というのは。何か心配事でもおありなのでしょうか」

 経験からだろうか。岸間の言はまさに的を射ていた。

「あ、はい……いえ、心配というか、ご相談があるのですが」

 彩乃は躊躇った。その理由の一つにはどんな風に話したら良いのか、うまく伝わるのか、はっきり分からなかったからだ。

「何でも仰ってください。出来る限りのことはいたしますから」

 その空白を敏感に感じ取ったらしい岸間は、鼓舞するようにいう。

 誠実さが彩乃の心へと自然に染み込んでくる。加えていうなら、その染み込み方、進入の仕方に嫌味や計算が感じられない。この人ならば親身になって耳を傾けてくれる。そう思わせる力があった。

「ありがとうございます」

 しかし、言葉とは裏腹に、すぐに口を開くことはなかった。どこかに躊躇いが生じた。

 煮え切らない態度の彩乃に、なんら催促をすることなく、岸間は薄笑みの顔でカレンダーに目を向けていた。ただ静かに言葉を待っていた。

 頭の中でまとまりきらないまま、彩乃は静かに口を動かした。




「朱里の妹、愛華が気づいたことなのですが。最近の朱里は女の子っぽくない、というか」

「それはどういう」

 彩乃は岸間を見た。その表情は全く変わっていなかった。少なくとも驚いているようには見えなかった。その目は続けて、といっているようだった。

「最初は何言ってるんだろう、この娘は、って思ってたんです。ですが、私も気になってそれとなく朱里を見ていたら、いくつか気づいた事がありました」

 岸間は真剣な眼差しで相槌を打っている。

「まず以前と明らかに違ったのは言葉遣いです。事故前は女性的な言葉が織り交ぜられていたのに、今はほとんど使っていないようです。中性的といいますか、どちらともとれるような言葉遣いでした。次に仕草についてです。歩き方はもちろん、座る時にスカートの……あっ」

 彩乃は何かに気づいたように言葉を止め、一瞬思案顔をしてから、説明を再開した。

「女性が椅子に座る場合、スカートを伸ばしてから座ることが多いのですがご存知でしょうか」

 彩乃の問いに岸間は首肯した。

「はい。存じています」

 スカートの女性がそのまま座ると、椅子と直接触れ合う生地は下着になる。それをマナー的に、または生理的に嫌悪する人もいるのだ。また、中途半端な形だと再び立ち上がった際にスカートが皺になっている場合があり、それを避ける意味合いもある。後者の方が多いのだろうか。

 女性観点で話していると当たり前のことだったが、もしかしたら目を丸くされるのでは、と思っての確認だった。それはあっさりと杞憂に終わった。わずかにあった焦りが胸の奥底へと落ちて消えた。

「それをしなくなっていたんです。人様の前ですとみっともないと思ったので、先日注意したところ、すぐに直りましたが」

 岸間は尚も答えない。彩乃は目を伏せた。

「先生。これはやはり、事故の影響なのでしょうか。どうなっても娘は娘。それは分かっています。ですが、このまま女性らしさを失っていくのは、見るに耐なくて」

 彩乃にしては珍しく、語調が荒くなってしまった。それだけ真剣な気持ちであった。

「なるほど」

 岸間はそれだけいうと目を閉じ、なにやら考え込んでいるようだった。ひと時の静寂を経て目を開けた。

 彩乃はその静寂と空白が、やけに長く感じた。緊急性や致命性はないにしても、藁にもすがる思いだった。やがて岸間が喉を上下に動かした。




「外国にリバリー・ヒルトンという学者がおりまして」

「え? リバ……?」

 予想だにしない単語に彩乃はきょとんとした表情になった。断片的に訊き返す。

「リバリー・ヒルトンです。海外にいる性学者で、彼は善くも悪くも多くの成果をあげて、その痕跡を残しています。最初に『ジェンダー』という言葉を広めるきっかけとなったのも、彼ですしね」

「はぁ」彩乃はいいたことが分からず、そんな曖昧な返事しか出来なかった。聴き慣れない単語が、空中を我が物顔で闊歩し、それらは思考をかき混ぜて邪魔をしてくる。

 そんな彩乃をみて、岸間は申し訳なさそうに苦笑した。

「あ、失礼。結論から申し上げますと、朱里さんは時間さえ掛ければ女性らしさを取り戻すと思われます。あくまで推測になってしまいますが」

「ほ、本当ですか」

 思わず身を乗り出していた。それは一筋の光だ。混沌とした雨雲のすき間から差込む希望の一片。岸間は眼鏡を指で押し上げながら、はい、と返事をした。



「ある日、彼の元に夫婦が訪ねてきました。相談事のようでした。その夫婦には子がいます。どのような理由だったかは定かではありませんが、その子供に割礼儀式……つまり包茎手術ですね。それを行ったところ、失敗してしまったそうです。途方に暮れた両親はその学会では有名なリバリー・ヒルトン氏相談しました。『どうすれば良いか』と」

 彩乃はすらすらと呪文のように語られる物語に耳を傾けた。それはまるで何度も他人に聴かせたことがあるほどに慣れた様子で、流暢に単語が並べ立てられていく。



「その相談を持ちかけられたリバリー・ヒルトン氏はある実験を試みました。それは使い物にならなくなった子供の性器を切除し、その上性転換手術を施し、その男の子を女性として育てる、というものでした。彼が証明したかったのは、かねてより主張していた『人間の性は先天性、つまり生まれ持ったものではなく、後天性によって得られるものだ』ということでした。元は男の子ですから、このままその子供が生涯女性として生活していければ、リバリー・ヒルトン氏の主張することは証明されたことになります」



 冷や水を頭から被せられたように、彩乃の背中に冷たいものが走った。その実験はおよそ人間の持つ倫理観を逸脱しているように思えたからだ。ある種のおぞましさを感じる。

「どうなったと思いますか」

 岸間が訊く。急に話を振られ彩乃は困惑した。授業で難解な数学の問題を教師に当てられ、巨大な黒板を前にして解答に窮する図と何ら変わらない。彼女には全く見当もつかなかった。

「分かりません。どうなったんですか」

「はい。彼は学会へ、何の問題もなく生活出来ている、と報告しています。つまり実験は成功だというのです」

 そこで岸間は言葉を区切った。手元の資料に、意味もなく視線を向けた。そのまま続ける。

「その結果に疑問を持った人物がいました。J・ハーミーという者です。彼は独自に調査を始めました。すると驚くべきことが分かったのです。被験者の子供は男性の生活に戻っていたのです。つまり、リバリー・ヒルトン氏は虚偽の報告をしたことになります」

 彩乃は息をのんだ。人権を無視した実験を行った挙句、隠蔽まで行っていたとは。狂ってるとしか思えなかった。

「信じられませんよね」岸間は首を横に振って、消沈した声を出した。

「まあ正確には」そう前置きし、岸間は話を続けた。前と変わらない一定のリズムを刻む。

「十五歳までは女の子として生活していたそうです。元男性ということは本人にも伏せられていました。ですが、彼はどこか違和感を覚えていたようです。人形で遊んだりスカートを履くことよりも、飛行機に興味を持ったりと、心は男性に近いものがあった。そして十五歳のある日、彼は事実を聞かされました。その後彼は男に戻る決意をしたそうです」



 一気に喋って疲れたのか、岸間はふぅ、と短く息を吐いた。どうやらそれで、ある性学者の話は終わりのようだった。

「と、まぁ、このような事例があります」

「つまり……」

 彩乃は今聞いた話を頭の中で整理しながらいった。それでも、整然とした岸間の話は最初から順序立てられていて、それはほんの数秒の時間しか要しなかった。

「性というのは後天性で得られるものではなく、先天性によるもの。と考えてよいということでしょうか」

「これを鵜呑みにするならば、ですね。人間とはかくも複雑なものです。確かなことはいえません。希望的観測に過ぎませんが、朱里さんも女性として生まれたのであれば、徐々に本来の姿を取り戻すのではないか、と。そういうことです」




 なるほど、と思った。最初にリバリー・ヒルトンの名前を出された時は意味が分からなかったが、ようやく繋がった。そういった前例があるなら大丈夫かもしれない、という想いが強まった。ただ、今の朱里を見ているとあまり期待できない気がしたのも事実だった。

「いえ、でも少し安心しました。ありがとうございます」

 彩乃は再び頭を下げた。そんな、といって岸間は謙遜するように手を横に振る。

「私は専門ではありません。必要であれば、そういった専門の方をご紹介することも出来ますが……」

 岸間は遠慮がちにそう提案した。言葉尻が沈んでいるのは、彼自身あまり必要に感じていないからだろう、と彩乃は思った。

「大丈夫です。そういった所へ連れて行くのは、かえって不安を煽ることにも繋がりますし、今のまま注意深く見守ることにします」

 すると岸間は顔を綻ばせた。声の調子が上がった。

「えぇ。それが良いでしょう。すみません、長々としたお話にお付き合いさせてしまって」

「とんでもないです。とても参考になりました」

 深くお辞儀をした。何度感謝しても足りない思いだった。

「本当は私、ご相談しても良いのか迷っていたんです」

 彩乃がおずおずと切り出す。

「えぇ。その様にお見受けしていました」

 やはり見透かされていたのだ。それでも決して急かさなかった岸間はよくできた人格者なのだろう。

「信じてもらえないと思ってたんです。だって、私自身、次女から話を聞いたときに半信半疑でしたから」

「なるほど、そのような理由でしたか。これですっきりしました」

「すっきり?」

「あまりいいたくなさそう、というか、まぁ端的にいえば躊躇っているのはすぐ分かりました。でもお話をうかがった後にも考えたんですが、どうして躊躇っていたのか理由が思い浮かばなかったもので」

 照れたように、眼鏡の奥の瞳が笑った。

「すみません」

 誰が悪い、ということでもなかったが、つい彩乃はそう口にしていた。

「あ、いやいや、別に謝って頂くことでは」

「そ、そうですよね、すみません」

 いってから、はっとしたように彩乃は口をつぐんだ。岸間は苦笑している。

 逃げるように視線を彷徨わせると、壁に掛けてある時計が目に留まった。見ると既に15分以上も経っていたことに気づいた。

 それから改めて挨拶をし、彩乃は小さなバッグを持って診察室を出て行った。




 彩乃がロビーに着くと、すぐに姉妹二人を発見した。二人は入り口に近いソファーに腰を下ろして、お喋りをしていたようだった。ロビーを行きかう人々は気だるそうに、けれど、どこか急ぐように足を進めていた。皆、日々の日常はおろか、こういった病院ですら時間に追われているのだろう。養生する時くらい、ゆったりとした空気の流れに身を置きたいものである。

「あ、お帰り」

 彩乃に気づいた愛華が声を上げる。視線が交錯した。彩乃は目だけで頷いた。ただそれだけで、割いた時間は無意味ではなかった、ということが正しく伝わったかどうかは分からなかった。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

「どんな話してたの?」

 朱里が訊く。唐突だった。初めから第一声はそれに決めていた、と思わせるほどに真っ直ぐで穢れのない声だった。鈴のような音色で彩乃に突き刺さる。

「えっとね」言葉に詰まった。「何か参考になるかも、と思って記憶喪失について先例みたいなお話を訊いてたの」

 全くの嘘、というわけでもなかった。そうなんだ、と朱里は小さく答えたきり、それ以上は追求してこなかった。

 黙っていることに罪悪感が全くないわけではなかったが、岸間の話を聞いた限り、性別についてはあまり意識させないことが大事なのかもしれない、と思い始めていた。自然とあるべき姿へ戻るのを見守るのだ。

 三人は並んで病院を後にした。左右にスライドする自動ドアが、三人を送り出した。

ども。作者です。

ここまでお読みいただきありがとうございます(ぺこり

ご感想、評価、ご意見、ございましたらお願いします!


次回、または次々回あたりから、主な舞台が学校に変わる予定です。




※事例については、実際に外国であった

「As Nature Made Him」(邦題:「ブレンダと呼ばれた少年」)

より、自己解釈を加えた上、いくつか引用させていただきました。

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当作者の短編です。「Still,」との関連性はありません。
お時間ある時にでも、覗いてやってくださいまし。
わたしとケイと彼とサクラ

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