第9話 ~自戒と自覚~
二人の少女は浴室に居た。
愛華の目の前には目隠しをされた半裸の少女がいる。プラスチック製のお風呂用の椅子にちょこんと腰掛けている。その後ろに張り付くように愛華が立っていた。
朱里の下半身には真っ白いタオルが、腰周りを半周する形で置いてある。
緊張しているのか、タオルだけでは心許ないのか、ぐっと身を硬くして握った手を膝の上に置いている。口は真一文に結んで何かに耐えているようだった。
愛華はTシャツにハーフパンツという格好だ。彼女は既に入浴済みである。もう一度、という選択肢はなかった。
――ヤバイ。可愛すぎる。
愛華の脳内を駆け巡るのはそんな若者言葉。他にぴたりと当てはまる形容詞が思いつかなかった。
少女の肌は透き通るような、むしゃぶりつきたくなる真白いわたあめ色。その反面、浴室の照明にきらきらと反射させられていて、それが余計に目を奪う。
同性であるにも関わらず、姉の裸体は危険な魅力を放っていた。平静という壁を取っ払い、鼓動を早めにかかってくる。ともすれば襲いたくなるような感覚。これはいよいよ本気で自戒に注力しなければ、と思った。
「じゃ、じゃあシャワー掛けるね」
返事はなかった。代わりにごくわずか、首を小刻みに動かしただけだった。余程注視しなければ気づけなかったのではないか。
愛華はお湯のマークが描かれている蛇口をひねった。少しずつひねり、シャワーノズルから出てくるお湯の勢いを調節した。ざぁ、という音と共に白い湯気が立ち上る。
朱里の目の前には、曇り防止加工の施された鏡が壁に掛けてあった。ちょうど顔より二回りくらい大きいサイズで、座ってればほぼ全身が映る形だ。
まず、朱里のつま先から足の甲にかけてお湯を浴びせた。いきなり掛けて熱すぎてはいけない、と思ったからだ。それと平行して、愛華は壁面から突き出ているシステムに目を向けた。そこには三十九度とデジタルの数値が表示されていた。
シャワーを掛けると、朱里の身体はぴくりと反応を示した。
「どう? 熱くない?」
「うん。大丈夫」
どうやら反射によって、身体が勝手に動いただけのようだ。触覚が敏感になっているのもあった。
「あの……シャワーくらいは自分で」
「まぁまぁ。私が全部やるから。だからお姉ちゃんは大人しく座ってて。はい、いくよー」
そういうと、彼女は朱里の足先からお湯を掛けていく。ノズルを緩やかに移動させて身体全体をすすいだ。髪の毛の部分も同様に、端っこの方から少しずつ少しずつ濡らしていった。薄いブラウンの後ろ髪が濡れて、濃厚色へと変貌していく。その間も朱里は一言も発することなく、首をすくめて寡黙を貫いていた。
「次は身体洗うね」
愛華はボディーソープをバススポンジに染み込ませた。
「さっきいってた」バススポンジを握りしめて、愛華はおもむろに口を開いた。「今回だけ、ってさ」
「う、うん」
「次回からどうするつもりなの?」
口をへの字に曲げて、朱里は何か考え込んでいるようにみえた。そして一言。
「これから考える」
それを聞いた愛華は、身体全体を使うような深いため息をついた。
愛華の手の中で微細な泡がむくむくと膨れ上がってくる。その膨張はあたかも、愛華の胸中にある背徳感と一致するようだった。もちろん、これからあるまじき行為をしようという訳ではないのだが、眼前の光景を目にすれば無理もない話だった。
ゆっくりと朱里の手を取る。
「もう諦めて普通にお風呂入りなよ」
「それが出来ないから、こうやって試行錯誤してるんだってば」
むっとしたように朱里が反論した。
右手、左手とバススポンジがその艶やかな肌を滑る。そしてすぐに言葉を継いだ。
「なんていうか、その、裸を見ちゃうと頭が真っ白になるというか、ドキドキして何も考えられなくなるというか」
「まるで男の子みたいな反応だね」
苦笑しながら愛華は答えたが、朱里の目を見た瞬間に胸が鳴った。ほんの刹那であるが、彼女の目がせわしなく揺れたのだ。ほんの些細なそれこそありふれた冗談のつもりだった。それなのに姉の反応はまるで、自分はある種の禁句を口にしてしまったのか、と錯覚させられるほどだった。
しかしすぐに朱里は頬を膨らませ、「む。バカにしてるでしょ」といった。抗議の口調ではあるが、その中に棘は見当たらないようだ。瞠目との落差が激しい分、その一連の様変わりは心の揺れを誤魔化すための稚策なように思えてならなかった。
――やっぱり男っぽいって、気にしてるからなのかなぁ。
そんな想いから、先ほどの動揺には触れないようにしよう、と心の中で帰結させた。
「そんなことないよ。ちょっとゴメンね」
愛華は泡だらけの右手で、朱里の胸へと手を伸ばした。途端、ん、と色のある息が鼻を通った。それは、思わぬ刺激につい漏れてしまった、という印象だった。
これは個人差があると思われるが、ナイロンタオルやスポンジ等だと刺激が強すぎるため、デリケートな部分は全て素手で洗っていくのが愛華の洗い方だった。ちんまりとした小柄な身体に似合わない存在感のある乳房。それをマッサージするような大仰な手の動きで、ゆっくり丁寧に洗っていった。
最初の鼻息以外に声はなかった。それに退屈感を覚えたのは確かだった。もっと敏感な反応を期待していて、それに対しての揚げ足取りを楽しみたかったのだ。それでつい、別ベクトルから仕掛けてみた。
「胸、気持ちよくなかった?」
そういうと朱里の後ろに回り込んだ。耳たぶに、ふぅ、と息を吹きかける。
効果は絶大だった。朱里は呻きとも喘ぎともつかない声を出して、身を縮みこませて両腕を抱いた。無数の鳥肌が見て取れる。
湿気と湯気でゆらゆらと揺れる視界。そこに控えめな照明が加わって幻想的に見えた。そんな不鮮明な視界でも、くっきりと分かったのは彼女の紅潮した顔と、情けないほどに下がった眉だった。
「な、ななな、何いって」
「もうお姉ちゃんったら、そんな慌てちゃってー。 もしかして我慢してたのかな?」
天使のような悪魔の笑顔で迫ると、朱里は再びあわあわと取り乱した。
先ほどの辛抱強い姿勢とは打って変わった反応に、愛華は途方もない充足感を知る。
何か事を起こす。それに対して反応が返ってくる。その反応がいちいち愛おしい。分かっている。これが歪んだ姉妹愛だということくらい、痛いくらいに自覚していた。けれどこれ以上エスカレートすることはないだろうと思っている。それで満足しているからだ。それ以上を望んでしまったら、何かが崩れてしまう気がした。
身体の全体を洗い終え、シャワーで泡を流した。次はシャンプーだ。
「お姉ちゃん、手を前に出して」
「え? こうかな」
朱里は右手の手の平を下にして、無造作に腕を突き出した。空中でぶらん、と垂れている。
「違う違う、こうやって洗顔する時みたいに手の平でお椀作る感じで」
といいながら愛華はその真似をしてみせるが、目を布切れで覆っている朱里にそれが見えるはずもなかった。それでも分かり易い例えに従って、朱里は手でお椀を作るようにして、それを自らの胸の前に置いた。愛華はそこにリンス入りシャンプーを適量垂らす。
「はい、頭は自分で洗えるよね」
「洗えるけど……さっきと言ってること違う」
朱里は急激な変化に困惑していた。
「えへへー」
誤魔化すように笑いながら、愛華は手を伸ばした。その手は朱里を縛っている布切れへと移動し、結び目に触れる。そしてそのまま――解いた。
音も無く布切れはその役目を終え、床に落ちた。それだけがこの空間における異分子のようだった。
意味が分からない、という顔で朱里が鏡を見つめている。目隠しから解放されて、その表情の全貌がうかがえる状態だ。
鏡越しにその中の少女と愛華は目が合った。その少女の視線は愛華から外れたと思うと、鏡の中の胸部へと――
「わああぁっ」
ようやく、といったところか、ワンテンポ遅れて、悲鳴のような声が浴室内を反響させた。
怖いものから目を背けるように、顔を斜め下に逸らせて俯いた。手の平に溜まっていたシャンプー液は床に垂れて、平べったく横たわる。
「な、なんで、こんなこと……」
動転しているのか朱里の声は震えていた。それでも何でもないことのように愛華は答える。
「次回から自分で入れるようにするために決まってるじゃない」
「そんなこといっても……こんなの自分じゃない」
吐き捨てるようにいう。愛華には、それが心の底から吐露しているように見えた。自分じゃない、自分じゃない――。妙に胸の中に渦巻いた。
「慣れなきゃ。これから何年、何十年とずぅっと付き合っていく身体なんだよ。大丈夫、よく見てみて。自分の身体だよ? 羨ましいくらい綺麗なのに、それを怖がるなんて勿体ないよ」
きっとこうなると思っていた。それでもここは避けて通れない道だと思った。荒治療になってしまうが、ここさえ通過出来れば大きな一歩になると考えた。
愛華は自分の手の平にシャンプーを垂らした。手で泡立てて朱里の頭を撫でる。彼女の髪が泡に包まれ始めた。
「ね。ちょっとずつでいいから。まず目を瞑りながら、シャンプーでゴシゴシして」
そういって、愛華は手を離した。すると意を決したように朱里はおずおずと緩慢に動き始めた。目は瞑ったままだった。
「うんうん、そう。その調子だよっ。最初は薄目でいいから」
朱里は指の腹で爪を立てないよう丁寧に洗いながら、時折思い出したように恐る恐る目を開けていた。鏡の中の自分を認めると勢いよく、瞳を閉じる。それを何度か繰り返していた。そして、段々とその間隔が少なくなっていった。
やがて洗い終わったのか、朱里が腕を伸ばした。何かを探すような仕草だった。一瞬で理解した愛華はシャワーのノズルを手渡した。そして蛇口をひねる。
朱里は自分で頭をすすぎ始めた。お湯を止めると同時に陰影と光沢のある毛髪が姿を現す。透明な雫が無数に滴り落ちていく。まるで砕かれた呪縛の破片のようだった。
見れば、彼女は鏡を前にかすかな前傾姿勢をとっていてはいるが、その視線は鏡から外れてはいなかった。
「お姉ちゃん、やったっ」
愛華は服が濡れるのも構わず、朱里に抱きついた。
照れるように笑った朱里は「まだちょっと恥ずかしい」と、控えめに感想を漏らす。
「でも、もう一人でお風呂入れるでしょ?」
「ドキドキするけど、何とか」
「おっきな進歩だよ」くすり、と朱里に笑いかける。
やって良かったと愛華は思った。強行するにあたって、嫌がる朱里を見るのは辛かった。けれど怪我されるのはもっと嫌だった。
「今度は一緒に入ろうね」
愛華が満面の笑みで提案した。敗色が濃いと分かっていて口した。駄目で元々である。
「それはちょっと」
朱里は目を見張り驚いた表情をした。やがて苦笑交じりの顔になると、やんわりと拒否の意を示してきた。
「えーっ」
傷ついた振りをしながら、愛華はぼんやりと考えていた。
ここまで性に免疫がないのは仕方ないとしよう。鏡に映る自分が恥ずかしい。では、他人に自分の裸体を見られることに羞恥心はないのだろうか――
多分ないのだろうな、という結論に至った。まだまだ彼女は自分のことを自分と認識していないようだった。ならば、その裸体を見られても、それはあくまで他人事なのだ。だから羞恥心も生まれない。彼女が問題にしていたのはその瞳、レンズに映る内容の方だ。その先に羞恥の源がある。それが全てだったのだ。
それを質問したらどうなるだろうか。いや、と愛華はすぐにその思考を打ち消した。新たな懸念素材になりそうな気がしたからだ。その想いを胸の奥に仕舞いこみ、浴室の扉に手を掛けた。
「もう大丈夫だね」
そういって振り返ると、姉は既にお湯へと身を沈めていた。こくり、と首が動くのが見えた。それならば、ここに居る意味はない。眼福眼福、と心の中で唱えながら浴室を後にした。
ども。作者です。
ここまでお読みいただきありがとうございます(ぺこり
えっちぃ描写が出来ません。
もちろん、R18未満での範囲内で、です。
要精進です。
次回は彩乃さん視点な予定……かも。
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