第8話 ~告白~
落ち着け落ち着け、と愛華は自身に言い聞かせながら深呼吸をした。彼女は後ろを向いている姉へと手を伸ばした。肌越しに感じる体温はやけに熱い気がした。
「ほら、逃げないでこっち向いてってば」
愛華へ向き直った朱里はしかし、目は逸らしたままで両者の視線は交わらない。
「ごめん、意味分かんないよね」彼女はそのまま告白を続けた。
「……記憶がまだないのは知ってると思うけど」
当たり前だ、とばかりに愛華は頷いた。
「何ていうか鏡で自分を見ても、その……他人にしか見えなくて。それで、えっと」
ここで朱里は要領悪く口ごもった。血色の良い唇が閉ざされる。
先を促すために「うん、それで」と愛華は助け舟を出す。
「それで」一旦浴室に目を向けた後、愛華へと視線を移す。「他人としてみれば結構可愛いな、って」
躊躇いがちに出た言葉は、朱里でない者が口にすれば、それは嫌味か自信過剰のどちらかに値するだろう言葉だった。思わぬその言葉に愛華は衝撃を受けた。
「え? あ、確かに可愛いけど……えぇっ!?」
「そんな驚かなくても」
姉は険しい表情で抗議の声を控えめに上げた。しかし、それが妥当な反応だということを彼女は十分に承知しているようだった。だからなのか、それ以上何も言わなかった。
愛華にその感覚は理解しかねた。いくら想像してみても、鏡を見ながら自身の可愛さに心が揺れる様など、到底無理な話だった。もちろん自分を不細工だとは思ったことはないし、日々可愛い女の子でありたい、という意識はある。だからといって、痛々しい自己陶酔に浸れるほどではなかった。それは単に記憶喪失を経験したことがないからだろうか、と彼女は考えた。一方で朱里の言わんとしていることが段々と掴めてきた。
「怒らない、怒らない」
「別に。どうせ、そういわれると思ってたし」
「でも私、お姉ちゃんなら許せる。お人形みたいだし、もっと武器にしてもいいと思うんだけどな」
朱里は相変わらずの仏頂面だった。けれど、纏う空気に微妙な変化があったことに気づいた。褒められることに慣れていないのか、その裏にある照れが隠せていないのだ。
「そんなことより」と、朱里が切り出す。その様子からは、朱里から言い出したことではあるが、出来ることならば避けたい話題にも思えた。
「あ、うん。続けて」
「それで」服の裾を撫で付けるように触れながら、朱里はいった。「可愛いな、って思っちゃったら、その……やっぱり意識しちゃうというか。裸はドキドキしちゃうというか――」
聞きながら、何か引っかかりを覚えた。
「それっておかしい気がする」
愛華は姉の言葉を遮った。え、と彼女は愛華を見た。
「他人に見えちゃうのはあるかもしれない。でも、女の子同士だと思えばそこまで恥ずかしがることないと思うけどなぁ」
愛華の指摘に朱里は黙ってしまった。ばつの悪そうな顔をしている。
そこで愛華は閃くものがあった。あっ、と口を開けた。先ほどの彩乃との会話が思い出された。
「お姉ちゃん、ちょっと変なこと訊くけどいい? あのね」
いいながら、愛華は少し迷った。こんなこと訊いていいのだろうか――
「今、お姉ちゃんって自分が女の子だ、っていう自覚ある?」
「それは……」
朱里は悲しげに目を伏せた。
「ごめんね。こんなこと、訊かれたくないよね」
その言葉に朱里は微笑んだ。無理に笑っているように見えた。
「正直にいうと、あんまりない」かも、と自信なさげに少女はいった。それが答えだった。
愛華は自らの直感が正しかったことを、改めて実感した。それと同時にもの悲しい感情が込み上げてきた。
「じゃあ」愛華はその感情を胸の奥に押さえつけながら、「自分が男の子だって――」口を開いた。しかしすぐに口を閉ざす。
二人はそれきり黙りこんだ。場に静寂が立ち込める。
妹は首を振った。「ううん、やっぱり何でもない」
さすがに躊躇いが生まれた。たとえそうだったとしても、口にすべき言葉ではないと彼女は思った。言ってしまったら、それがするすると現実味を帯びて実体化するのでは、と恐れたのだ。
姉を見る。無表情に近いが、いくらか和らいでいた。目が合い朱里の口がかすか笑みを形作る。
「ありがとう。やっぱり愛華は優しい」
「べ、別にそんなこと」
「でも……うん。だから、いいたくなったのかも」
「え?」
一人納得したような言葉に嫌な予感が走った。
「女の子、っていう感覚があまりないってことはだよ。つまり……僕は」
愛華は咄嗟に腕を伸ばした。朱里の唇に人差し指を縦にして当てた。形の良い唇がほんの少し沈んだ。
「いっちゃダメ」
遮られた朱里は驚いたような表情で妹を見上げた。なぜ、とその瞳はいっているようだった。
「何事も意識からだって。僕なんて使っちゃダメなの。その先は禁止」
「いや、でも……」
「でもじゃないの。以前は僕なんて使ってなかったし、記憶が戻りにくくなるかもしれないでしょ。こんな可愛いのに僕じゃ違和感あるし、それが癖になったら学校でも変に思われるよ、きっと。それに――」
「分かった、もう分かったから」
観念したようだった。辟易した顔をしている。
「よろしい」間延びした声でそれを見ながら、愛華は満足気に頷いた。
「強引だなぁ」呆れたような口調。けれどそれは嫌がっているような含みはなかった。ふふ、とどちらともなく、お互いに笑みを浮かべた。
そこでふと真面目な顔をして「それでね、私考えたんだけど」と愛華がいった。
「自分の裸が恥ずかしくて目隠ししてた。でもそれじゃ上手く身体を動かせなかった。まぁあんまり納得してないけどね」
目を閉じながら、状況を再確認するようにいう。
「私が洗ってあげれば良いと思うの」
空白。時が停止したかのような静けさ。朱里は閉口した。たっぷり時間を掛けて天井を仰ぎ、嘆くように手を眉間に置いた。
「何いいだすかと思えば」ふるふると首を振り、愛華へと視線を移し、力いっぱい告げる。「絶対やだっ」
その返答は予期していた。だから愛華は食い下がる。
「えー。どうして? このままじゃちゃんとお風呂入れないよ?」
「どうしてって……分かるでしょ?」
「分かんないなー」
朱里は困ったような表情をしていた。愛華はそれを眺めながら頭の片隅で考える。
まさか毎回、介護のように自分が洗ってあげる訳にはいかないだろう。かといって、従来のまま目隠しさせての入浴など危険極まりない。となれば、多少強引に事を進めてでも女性に対しての耐性が必要となる。そこまで考えた結果、一計を案じることにした。
「聞いて、お姉ちゃん。このまま入らないのと、目隠ししてまた転んで痛い思いするのと、私に洗われるのどれが良い?」
「えぇっ。そんなの……」
困った顔をしていた朱里は、狩人に追い詰められた小動物ように慌て、頬を赤くして呻いた。
「ほらほら」
急かす声。いってからすぐにしまった、と思った。知らず嬉しそうに破顔する自分を認め、わずかな罪悪感に囚われたのだ。
一つ上の姉はフランス人形のように小さく愛くるしい容姿とは対を成すように、性格は明るく陽気で非常にさっぱりとした女性だった。その容姿と雰囲気から幾度となく愛で回したくなる衝動に何度駆られたことか。
事故以前から実際にじゃれ合う事は多々あった。しかし今は事故の影響なのか、別人のように控えめで大人しい性格である。そんな彼女を見ていると愛華は軽い意地悪を働きたくなる。その反応が可愛いからだ。それはまるで、中学生の男の子が好きな女の子にわざといたずらをするような、幼稚な感情。それでいてどこまでも純粋な感情。
そうだ、楽しんでいる場合じゃないんだ。もっとクールに淡々と――そう思い直したところで朱里が声を上げた。
「うぅ、分かった。洗ってください」
お願いする立場だからなのか、その言葉は丁寧語だった。面食らった愛華は「あ、うん」と生返事を一つ。
朱里は、といえば清水の舞台から飛び降りる覚悟をしているような、思いつめた表情をしていた。
「でも今回だけだから、ね」そういって、朱里は床に落ちてる布切れを拾った。
愛華は今回だけ、と念を押す朱里を見返した。では次回からはどうするつもりなのか、と訝しみながら布切れを受け取った。
ども。作者です。
ここまでお読みいただきありがとうございます(ぺこり
お風呂ー、と前々話の後書きでのたまってから早3話目です。驚くべき事にまだ入ってません。自分が一番驚いています。