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Still,  作者: ラヴィ太
2章
14/20

第6話 ~静かな奮起~

 朱里の記憶が戻ってから三日目の夜だった。

 彼女は溜息をついた。もう何度目になるのか分からない。それらが積もり積もっていくのだとしたら、それで一山を形成出来てしまうほどだった。

 今もこうして、この先どうすれば良いのか分からずに途方に暮れていた。結局は夢の中に出て来た動物に会う手段など、到底思いつくはずがないのだ。



 この三日間、彼女は自分がどう過ごしたのかさえ、記憶が不鮮明だった。

 死んだようにベッドで横になり、ひたすら考え事に没頭していた。いや、没頭している振りだけで、その実、何も考えていなかった。

 空腹など訪れなかった。心配になった母の彩乃が二階へ呼びに来てようやく食事をする有様だった。その食事もろくに喉は通らずに半分以上を残した。思い出したようにトイレへ行き、何となく水分を補給し、気づいたら眠りに落ちている。それの繰り返しだった。

 死んだように生きている、とはこの事を指すのかもしれない。

 彩乃は、突然心を閉ざしてしまった娘に、どう接したらよいのか考えあぐねている様子だった。そんな彩乃の様子に心苦しさを感じつつも、朱里はそれに応える余裕はなかった。



 ノックが響いた。大きめの音を長めの間隔で二回繰り返した。その特徴から愛華だろう、と朱里は思った。

「お姉ちゃんいる?」

 朱里は返事をしなかった。掛け布団を頭まですっぽりと覆った。誰とも会いたくない気分だった。

 ドアの開く音がする。足音が近づいてくるのに朱里は気づいた。

「寝てるのかな」愛華が布団へと声を落とした。

 またしても朱里は答えない。早く部屋から出て行って欲しい、と思った。

 すると突然、朱里の暗い視界に光が差した。掛け布団が奪われた、と分かったのは、上から覗き込む愛華と目が合ってからだった。

 少し責めるように口を尖らせて「やっぱり起きてた」と、愛華はいった。

 朱里に返す言葉はなく、目を横に逸らした。放って置いてほしい、という意思表示のつもりだった。




「今日もご飯食べてないでしょ」

「いらない」

 取り付く島もなかった。ぎゅ、と枕に力を込めながら朱里は横を向いた。思わず棘のある口調になってしまったのに朱里は気づいたが、今更取り繕う気にもならなかった。

 愛華は息をついて「だめ。食べなきゃ倒れちゃう」といった。ついた息にはほのかな諦念(ていねん)が混じっているようだった。

「倒れたっていい」

 その諦念にもう一押しするつもりで朱里は投げやりに答えた。掴んでいた枕がその言葉と共に形を歪め、真白いシーツにいびつな皺が刻まれる。その答えに愛華は息を呑んだ。

 その言葉は予想以上の効力を発揮し、心配する愛華を黙らせた。包まれた沈黙がそれを物語っている。望んだはずの静寂が、朱里の心にずっしりと()し掛かってきた。




「いいわけ無いよ」

 わずかな空白を経て、愛華は悲しげに呟いた。

「どうしてそんなに、自分を捨てられるの?」

 朱里は向けていた背を翻して愛華を見た。彼女の表情は今にも泣きそうな曇り空で朱里の胸を打った。自分がそんな表情にさせてしまっているのか、と思い朱里の胸中に暗い動揺が走る。

「だって」と朱里は口を開いた。それは何か伝えようと思ったわけではない。思わず口をついてしまっただけだった。

 愛華はぴくり、と顎を引いた。だって、何だと言うのだろう。その先をどう継ぐべきか朱里には分からなかった。

 自分は朱里という存在ではなく、明という男性なのだ、とでも言えばよいのか。それとも自分は君たちを騙してる最低なやつなのだ、と告白すればよいのか。朱里にはどれも相応(ふさわ)しくないように思えた。

「愛華はさ」朱里はベッドから体を起こした。二人の視線が交錯する。

「自分なんか要らない人間だ、って思ったことある?」

 真意が読み取れず、愛華は困惑した表情になった。次に彼女は、その先にある意図を探るようにじっと朱里の目を見つめてきた。

 言ってから、なんて馬鹿な質問をしているんだろう、と朱里は思った。遠まわしに今の自分の心境を吐露しようとしているだけではないか。そんなものを押し付けても、愛華を困らせるだけだ。

「ごめん、変なこと訊いた」

 質問をかき消すように軽く首を振った。




「思ったことはないけど、でも」

「え?」

 幕引きのつもりだった朱里には不意打ちに等しかった。声が漏れる。

「そんなの意識次第だと思う」

「意識、次第?」

 うん、と頷いて愛華は真剣な眼差しで続けた。

「要るか要らないか、なんて誰が決めるの? 明確な基準があるの?」

「それは」

 矢継ぎ早(やつぎばや)な問いに朱里は口をつぐんだ。それ自体が答えだった。

「でしょ? 曖昧過ぎて誰にも分からないと思う」

 愛華は後ろでに手を組んで目を伏せた。

「そんなことばっかり気にしてたら、私だったら人生疲れちゃうなぁ」自身の足元に目をやりながら、彼女はそうぼやいた。

 朱里にとって、それらの言葉はハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を伴っていた。その衝撃は凝り固まった朱里の常識にヒビを入れる。

 朱里は惚けたように遠くを見た。

 明確な目的を持って質問したわけではなかったが、意外にも実のある回答をもらった。目を閉じ、その言葉を咀嚼(そしゃく)して反芻(はんすう)する。

 そして、確かにと朱里は思った。

 自身のアイデンティティーに思考を巡らせ、答えが得られずに悶々とした日々を過ごす。誰しも、こういったことは一度は考えたことがあるのではないだろうか。そして、それに対するはっきりとした回答を得た者は一体どれだけいたのだろう。




「少なくとも」

 声が聞こえ、はっとしたように朱里は目を開けた。彼女の瞳には真摯に佇む愛華の姿が映った。

「お姉ちゃん居なくなったら、私が寂しいよ。それじゃダメかな」

 朱里は目を見張って体を強張らせた。姉妹愛を掲げているはずのその言葉は、朱里の心を鋭角に(えぐ)る。

「そんなこと」

 言わないで、と朱里は続けたかったが震えた声は最後まで続かなかった。

 彼女の内側から急激に込み上げるものがあった。目頭が熱くなるのが分かった。それを必死で押し留めようと努力した。

 そしてそれは失敗に終わった。洪水のように溢れ、涙という形に変化した。

 くしゃりと顔を歪めて、朱里は自身の肩を抱いた。ポロポロとした雫が床を湿らせる。

「ど、どうしたの」

 愛華は朱里の肩を支えた。狼狽した様子が声の調子に出ている。

 くぐもった嗚咽が部屋内に響く。

 何か言おうとしたが、朱里の嗚咽はひどく音像を結べてはいなかった。

 要領が得られないまま取り乱す姉に、愛華は困りきった表情を浮かべ、心配そうに手を添えていた。

「ごめん、ごめんなさい」

 ようやく聴こえた言葉に、愛華は眉根をひそめた。この状況で謝られても、泣いてしまってごめんなさい、としか取れないはずだった。

 そう解釈したのか「気にしないで。ほら、一旦横になって」と愛華がいった。とても静かな落ち着かせようとする響きだった。

 愛華が朱里の手を取って、ベッドへ誘導する。

 助けがなければ歩けないほどでは無かったが、朱里は何も言わずにその手を取った。そのままもそもそと寝床へ潜り込んだ。



 使い物にならない喉の変わりに、朱里は心の中で何度も何度も謝罪を繰り返した。

 ――姉を奪ってごめんなさい、と。



 横になった朱里は目を閉じた。デジタル時計の分数を示す数字が二回変化した。

 愛華はベッドの脇に腰を下ろして、何も言わずに黙っていた。それは決して気まずい時間、というわけではなかった。

 朱里は目を開いて息をついた。

「落ち着いた。ありがとう」

 朱里の眼は赤く充血していて、明らかに泣き腫らした後の顔だった。端整な顔立ちはそれくらいではびくともしないようで、損なわれない輝きが残っている。

「本当? 良かった」

 そういって彼女は自身の胸に手を当てた。姉の言葉に愛華は微笑む。

 朱里は少し躊躇うようにして、「愛華が、あんなこと言うから」といった。

 告白した涙の理由。それさえも嘘をつかなければいけないのか、と朱里は胸中に圧迫感を感じた。本当の理由は心の中で擦り切れるほど繰り返したばかりだ。

「あんなことって」

「だから。寂しい、って」

 愛華のセリフを朱里が引用してみせる。朱里は恥ずかしそうに語尾を萎ませた。

 愛華は少し困ったような表情を作り、「本当のことだし」と返す。困ったように見えるのは表情だけで、あっけらかんと言ってのける。

 そういう気恥ずかしいことをさらりと言える愛華の純真さが羨ましい、と朱里は思った。

 でも、と愛華は口の端を持ち上げて「私のせいだったんだ」といった。

「え?」

「私が泣かせちゃったんだよね?」

「そ、そうだけど、その言い方はなんか違う」

 聞いていないのか、愛華はそっかそっか、と嬉しそうに何度も白い首を動かして頷いた。

 しかし何かに気づいたように愛華は考える仕草をして、壁に目をやった。

「でもお姉ちゃん、そういうので感極まるタイプじゃなかったはずなんだけどなぁ」

 そういって彼女は首を捻った。

 朱里はどきりとした。そういった昔の違いを指摘されることに、いちいち胸が跳ねる。

 以前は記憶が無いから、と自分自身を納得させていた。けれど今は違う。事故前と事故後では本当の意味で、別の人物となっているのだ。

 真実を知ってしまっているからこそ、それが露見することに恐れを抱いてしまう。同時に後ろめたさや罪悪感も募っていく。

「そ、そうかな? よく分からない」と、朱里は曖昧に濁した。

「ふぅん。そんなものなのかな」

 分かったのか分かっていないのか、微妙な返事だった。




 自室で少し休んだ後、朱里は食事を摂ることにした。

 一階のリビングへ降りると、テーブルの上にラップに包まれたお皿がいくつも並んでいた。

 お皿の一つに一枚のメモ書きが置いてあった。淡いピンク色をしたメモだった。擬人化されたうさぎの絵が描かれていた。

『朱里へ お腹空いたらレンジでチンして温めてから食べなさい。年頃のダイエットに良い事なんて無いんだからね 母』

 それを見て、朱里は寂しそうにほほえんだ。心にちくりとした痛みと優しい温もりを感じた。

 メモを丁寧に剥がしてから、綺麗に折りたたんだ。


 温めた献立に手をつけながら、朱里はぼんやりと考えた。愛華との会話を回想する。

 愛華は恐らく、先ほどのやり取りの中でこう思ったのではないか。

 姉は記憶が戻らない事により他人との距離感が掴めずにいる。結果、自分は必要とされていない人間なのではないか、と精神不安定な状態に陥っている――

 それはそれであながち間違ってはいない。そう思ってしまうことも多々あったはずだ。だから、愛華の気にしたら疲れる、という言葉は救われた気がした。


 三つのお皿とお米が盛り付けられたお茶碗が並ぶ。大きめの平たいお皿には鳥の唐揚と、千切りにされたきゃべつが鎮座している。小皿には大根と竹の子の煮付け、漆のお茶碗にはお味噌汁があった。

 鳥の唐揚を口に運ぶ。咀嚼するとじわり、と肉汁の旨みが口内一杯に広がった。


 しかし、と思う。本当に悩んでいたのは別の事だ。

 それは朱里を事故で死なせてしまったことだった。そのくせ、自分はのうのうと生きながらえている。

 日記に書かれていたような日々がこれから先も彼女を待っているはずだった、と思うと胸が張り裂けそうな気持ちになる。

 自然と咀嚼する口が遅くなった。味噌汁で無理矢理に喉の奥へと追いやった。熱い液体が喉元を通り過ぎる。絶妙な塩加減だった。そして煮物へと箸を伸ばした。


 罪悪感で心が蝕まれていく中、先ほどの愛華の訪問である。

『お姉ちゃん居なくなったら、私が寂しいよ』

 彼女の言葉を聞いてその想いは増大した。

 愛華にとっては仮の言葉だ。この先もあり得ないと思っているのだろう。あり得ないと思っているからこそ口に出せたのかもしれない、と朱里は考えた。

 そして真実を知った時、愛華はどんな反応をするだろうか。朱里には想像が付かなかった。

 もちろん、言葉に出して信じてもらうのは難しいだろう。けれどもし、理解出来てしまったら。

 そんなわけない、と涙するのか。姉を返せ、と憤然と吠え立ててくるのか。全く分からなかった。

 それでも朱里は思った。

 どんな反応であろうと、恐らく喜ばしいものであるはずがないのだ、と。


 唐揚の濃い目な味付けはご飯の進みを非常に促進した。

 お茶碗から覗くお米は、既にその姿を消している。煮付けの残りも食べ終えて、味噌汁を飲み干す。最後に残ったのはきゃべつの千切りだった。

 朱里は冷蔵庫からドレッシングを取り出した。それを葉物へかけて箸で混ぜ合わせた。

 朱里は最後にドレッシングであえた野菜を食べるのが好きだった。最後のデザートを食べるような感覚だった。

 全てを食べ終えて食器を洗った。濡れた手をタオルで拭き、すぐに自室へ戻った。



 朱里は床にぺたんとお尻を付け天井を仰いだ。愛華の笑顔が思い出される。ピンク色のメモに書かれていた、彩乃の丸っこい可愛らしい筆致が頭をよぎる。

 それらと共に朱里が思うことは一つだった。


 どうあっても、彩乃と愛華が悲しむ姿は見たくないのだ。

 

 この気持ちは何なのだろう、と思った。

 友情ではない。では家族愛か。そうであればいいな、と彼女は思った。



 悲しませないようにするにはどうすればよいのか。

 現状、このまま朱里を演じ続けるのが一番だと思い至る。

 この決断が正しいものなのか分からなかった。覚悟と言い換えてもよい。


 ふと気づいて、朱里は自嘲の笑みを浮かべた。

 病院で目覚めた夜も、そんな風に悲しませたくないと思ったことを思い出したのだ。

 結局は記憶が戻る前から、朱里が今改めて覚悟したことを、無意識に考えていたのだ。それが無意識から決意へと変わっただけだ。

 自身の内面を確認した朱里は、心が軽くなっていくを実感した。このまま日常をこなしていけば、いずれ今の状況を解決する糸口が見つかるのではないか。そんな根拠のない予感さえしてくる。

 いつまでも引きこもっているわけにはいかない、と静かに奮起した。


 それは突然だった。部屋の扉が音もなく開いた。愛華と目が合う。

「あのね」

 どうしたの、と朱里は先を促した。

「お風呂沸いたってー」と愛華が明るくいった。妙に楽しそうな雰囲気を纏っている。

 ぴくり、と朱里の眉がわずかに動いた。

「あ、ありがとう。愛華はもう入った?」

「まだだよ?」首を傾げる愛華は不思議そうな顔をしている。

「じゃあ先入っていいよ」

「何か手が離せないことでもあるの?」と愛華が尋ねる。その目は怪訝そうに揺れていた。

「あ、えっと……そういうわけじゃないんだけど。ご飯食べたばっかりだから、少し時間を置きたくて」

 すると得心したように愛華は頷き「あっ、そっか。じゃあ、私先に入るね」

 そうして彼女は湯浴みの仕度へと戻っていった。

 閉じられた扉を見つめながら朱里は脱力した。傍にあったクッションへ身体を預ける。うつ伏せの状態でお腹の辺りにクッションが当たっている。

「はぁ」と、深いため息をついた。万歳のように投げ出された二の腕が、朱里の視界に入る。

 右手で左にある二の腕を掴んだ。それは恐る恐るといった体で、触れたら壊れると思い込んでいるのではないか、というほどに慎重だった。

 掴んだ腕からは柔らかい餅肌の触感が返ってきた。

「はぁ」

 そうしてまた、同じため息を吐き「分かってたけど、やっぱり女の子だよなぁ」と呟いた。

「お風呂……どうしよう」

 朱里は目を細めて嘆いた。

ども。作者です。


ここまでお読みいただきありがとうございます(ぺこり

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早く朱里を学校に行かせてあげたいのですが、お話が中々進みません。

その前にお風呂どうしよう。

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当作者の短編です。「Still,」との関連性はありません。
お時間ある時にでも、覗いてやってくださいまし。
わたしとケイと彼とサクラ

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