第3話 ~友達~
「あ? てめぇ何のつもりだよ」
金髪の男は、短時間に二回も連続で打ちつけた後頭部を撫でながら威嚇の声をあげる。それは泣きっ面に蜂というべきか、いや、自業自得が正しいのだろう。
「あ、いや、当てるつもりは……」
凄まれて少年は後ずさる。そして慌てたように手の平を横に振った。取り繕うように苦笑い、弁解を始める。
朱里は少年を見つめた。当然、初めて目にする顔だった。
美形、というわけではないが整った顔立ちに部類される方だった。ショートミディアムの髪にダークブラウンのカラーリングがされていた。あまり分け目がなく無造作に前髪が散らされている。毛先にはセミハードワックスによる軽い束感があり、それが爽やかな印象を与えた。
「分かってんだろうな」
金髪の男が一歩踏み込んだ。どつかれて少年は後ろによろめく。
「うわ、と。マジか、これ……」
俺ケンカなんかしたことないのに、と彼は小さく呟いた。滲んだ冷や汗がつつと、少年の頬を伝う。引きつった顔をして手の甲でぬぐった。
唐突な襲撃に、男たちの意識は完全に少年へと移ったようだった。朱里のことなど見向きもしない。
どうしよう、と朱里は男たちの背を見つめながら思った。それと同時に思考が混乱し始める。現状と原因と対策が頭の中で混線して、うまく考えられない。
何故このような状況になっているのだろうか。朱里を助けようとしているようにも思えたが、今の切羽詰った様子の少年を見る限り、偶然の出来事であるらしかった。
朱里はあたふたと現状を見守ることしか出来ない。
「仕方ないなぁ」
少年はちら、と朱里を横目で見やる。一瞬だったが二人の視線が交わる。
その視線を受けて彼女は、彼が何か伝えようとしているのだと直感した。けれど、それが何かまでは分からなかった。もう一度こちらを見てはもらえないだろうか、という希望と共に祈るように少年を見つめるが、その顔はもう朱里を見ていなかった。
「相手するからさ。付いて来なよ」
そう言うと、少年は二人の男に背を向けて急に走り出した。
「あ、待てよごらぁ」
「クソッ」
突然の挙動に、男たちは咄嗟な反応が出来ない。そして思い出したように追いかけ始める。
そこへ一人、中学生と思われる細身な少年が入店しようとしていた。男達は彼を押しのけて店の外へと出て行った。
彼は肩をぶつけられバランスを崩したが、ややあって立て直し、呆然としている朱里と出口を何度も見比べていた。
台風が過ぎ去った後に一人、ぽつんと取り残される朱里。騒がしいはずの店内は彼女の周りだけ、時が止まったような静けさが降りていた。
ふらふらと、休憩用の椅子に倒れこむ勢いで座った。
話の早い紙芝居のようなめまぐるしい展開は、彼女の脳へ整理する時間を要求していた。肩を落として床を見つめる。
どれくらい経ったのか。五分か六百秒か、あるいは一刻かもしれない。
はっと我に返った彼女は、初めて自分が泣いていたのだと気づいて、指で涙をぬぐった。疲れた心で何気なく腕に目を遣ると、掴まれた圧力で皮膚が赤黒く変色していた。
そこでようやく頭が回り始めた。めぐる血液が脳を活性化させる。
「そうだ、あの人……」
朱里は口元を手で覆いながら少年の顔を思い浮かべた。
意図的にしろ偶然にしろ、結果的に彼女は少年に助けられたのだ。その彼について、身を案じるのは当然のことだった。
「確か『相手してやる』って」
すると、今頃は人気の無い路地で格闘しているのだろうか、と朱里は考えた。
彼は喧嘩に特別長けているようには見えなかった。身長はあったが、そこまで引き締まった身体という印象は無い。それだけで判断するわけではないが、相手は複数でもあり、やはり不安の方が勝ってしまう。
追いかけて、助けにいかなければと思った。あのままでは朱里は何らかの被害を受けていたに違いない。その窮地を救ってくれたのだ。
でも、と朱里は呟いた。彼女の脳裏に狡猾そうな笑みを浮かべた二人の男が映る。
その映像は彼女の腰を椅子へと縛り付けるには、十分な効力を持っていた。そしてその反面、行かなければという使命感にも似た想いと恐怖に震える足。
朱里はジレンマに囲まれながら、彼女の視界の端に中学生らしき少年が目に入った。それを見て何か閃いたように顔を上げ、彼女は立ち上がった。
「あのっ」
少年に近づいた彼女は、緊張しながらもしっかりとした声を出した。
「な、何?」
突然の接触に彼は狼狽した。先程の予期せぬ災難がまだ心に引っかかっているかもしれなかった。
「あの……この辺りに交番はありませんか?」
「交番?」
思いがけない単語が出てきて、彼は眉をひそめて聞き返した。その目はきちんとした理由を知りたがっているように見える。朱里はその目に応えようと更なる言葉を添えた。
「はい。不良グループの喧嘩を止めたいんです」
「喧嘩って」と言った彼は思い出すように、「あぁさっきの」と続けた。
彼の言葉の端々には、朱里の事を同学年だと思っている節があった。彼女としてはそんなことを気にしている場合ではなかった。この駅周辺の地理が分からない彼女は、焦る気持ちで答えを待った。
「交番なら」何かに気づいたように息を呑んで、一度区切った。「出てすぐの交差点にある」
少年は簡潔にいう。照れを隠すようなそっけなさだった。
「ありがとうございます」
朱里は早口でお礼を言い終えてすぐにお店を出た。
彼女は腕時計に目を落とした。午後四時を回ったところだった。
辺りを見渡して確認した。確かにこの商店街の出口より奥には、交差点が見える。ここからでは交番は見えないが、通りまで出れば確認できるだろうと思い、商店街の出口付近を目指した。
交差点に出ると交番が見えた。十字路の角にぽつんと、頼りなさげに建っている。
横断歩道で待たされた。今は自動車が優先されるべき瞬間である。じれったい気持ちを抑えながら、まだかまだか、と信号が変わるのを待った。
ようやく着いた交番には一人の警察官が居た。その公務員は恰幅がよく、縁なしの丸い眼鏡がより一層、球体を想像させた。
彼は朱里に気づくと、ノートパソコンから顔を上げる。
「す、すみません」
「はい。どうしましたか?」
「えと、あのお願いがあるのですが……」
彼は面倒くさそうな表情をしながら、用件を聞いてきた。それを見てあまり期待できないな、と朱里は思ったが素直に事情を話してみる。
「なるほど。それは怪我でもしたら大変だ」
全く差し迫った様子を見せずに、事情を聴いた警察官はいった。内心では面倒事に関わりたくないのだろう。
「ですから、今すぐ向かって欲しいんです」
その飄々とした言い方に朱里は苛立ちを覚えた。市民を守るのが仕事だろう、と思った。
「それで何処へ向かえばいいんだい?」
「すぐそこの商店街の……」
警察官は曖昧な言葉尻を拾い上げて、それを繰り返す。早く言えと顔に書いてある。
「商店街の?」
「商店街の……」
朱里は間の抜けている自分を殴りたくなった。助けを求めることばかりに気がいって、肝心の何処へ向かっていったのかが分からなかった。
一つ息を吐いて「場所が分からないんじゃあ」と、小太りの彼は大げさに肩を竦める。
「で、でも。あの商店街周辺に間違いないと思います。簡単な見回りでもいいので、お願いします」
朱里は必死に頭を下げた。真剣な表情で見つめる。交番の外では、小学生二人がはしゃぎながら通り過ぎていった。
懸命に頼み込む彼女を可哀想に思ったのか、彼は「しょうがない」と小さく呟いて席を立った。その時だった。
「何してるの?」
少し大きめの声だった。朱里が振り返って交番の入り口を見遣ると、「あっ」と小さく声が漏れた。
そこには先程の朱里を助けてくれた少年が、暢気そうな目をくりくりさせて立っていた。
件の少年は朱里が交番にいることを不思議に思っているようだった。その考えはお互い様で、朱里も一緒だった。珍しいのか、彼は奇異な目で交番内へ視線を這わせる。
朱里はようやく出会えた音信不通の肉親を見つけたように、目を丸くして慌てて駆け寄った。
「藤宮さんって不良少女?」
「へ?」
彼と対峙して、放たれた第一声は朱里の理解を超えていた。思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「え、いや、あの」
意味が分からず朱里は返答に困った。
「あ、ごめん。意味分かんないよな」
朱里は首を縦に振った。小さく笑って、少年は次の言葉を紡ぐ。
「藤宮さんは事故で入院してる、って担任から聴いてた。だから今日も当然学校は欠席してるみたいだった。んで、学校帰りにゲーセン寄ったら、入院してるはずの藤宮さんが居てさ」
最早、話の輪に入っていけずにぼうっと突っ立っている警察官は、居心地が悪そうに二人を眺めていた。
「だから。治ったはいいけど、学校が嫌な藤宮さんはサボってゲーセンだったんだ、っていう」
酷い言われようだ、と思った。その思いが顔に出たのか、朱里は複雑な表情になる。
言い終わった彼は、一人勝手に納得したようなすっきりした笑顔を見せた。
何から聞けばいいのか、何から話せばいいのか分からない朱里は沈黙した。気詰まりな雰囲気が流れる。
そこで痺れを切らした警察官が「用が無いなら出てってくれ」と、二人を追い出し始めた。
交番の外で二人は肩を並べた。
気を取り直した朱里は、順番に解決を試みる。
「まず誤解して欲しくないのは、サボりじゃないです」
「ふーん」
「退院はしたけど少し様子見で……さっきは散歩してただけで」
好調だったのは最初の否定語までだった。次に続いた説明は単語が断片的すぎて、あまり説明になっていなかった。彼女は説明下手を痛感していた。言葉少なで、意味が伝わっているのか怪しかった。いや、恐らく正しく伝わっていないだろう。
順を追って説明するには事故について話さなければならず、言いがかりを付けてきた二人組みの男についても話さなければならず、その前に少年についても聞かなければ、とも思い段々と思考の糸が絡まっていく。最初の誤解さえ解ければ、と朱里は説明を諦めた。次の言葉を探す。
朱里はすっ、と深呼吸した。肺が酸素で満たされる。少し強めの深呼吸により、横隔膜は肺を押し上げて胸を膨らませた。吐き出すと同時に弛緩した横隔膜は胸部を縮めた。
「それより、えっと」
身長差で見上げなければならない朱里は、そこで首を下げた。重々しく口を開く。
「私のこと……知っているんですか?」
え、と彼は小さく唇を開いた。驚いている様子だった。
それを見て朱里の心は沈む。知り合い然として接してくる彼に、『俺の事を忘れたのか』と詰め寄られると思ったからだった。しかし、その予想はあっさりと裏切られる。
「……ごめん」
自嘲気味に彼は小さく微笑んだ。
「俺の事なんて知らないよな」
「え?」
彼は背を向けて一歩前へ踏み出た。朱里の視界には彼の背が映る。
「同じクラスにもなったことないし、喋ったこともないんだから当然といえば当然で」
方向を変えて彼は朱里へ向き直った。その表情は悲しそうに唇を結んでいた。
彼が告白した内容。つまりそれは――同じ学校に通っていながらも、お互い話をしたことが無い間柄、という事実。つまるところ、見知らぬ他人同士。
「でも」と、朱里の思考を遮るように、彼は続けた。
「校内ではよく見かけた。藤宮さん結構目立つし、ウチらの学年じゃ有名人だから」
「有名人って」
朱里は同じ言葉を繰り返した。何故有名人なのか彼女は頭の隅で考えてみる。一つだけ思い当たったことがあった。けれどそれは単なる自惚れなのではないか、と思い直す。
「そうそう。この四月から初めて同じクラスなんだけどね」
辺りはいつの間にか茜色に染まっていた。西日が世界の色を変える。瞳に痛々しく映える空色は意味もなく哀愁を誘うようだった。
「だから、タメ語でいいんだよ」
その言葉で、朱里は初めて彼に対して丁寧語で接していたことに気づいた。知らない人に対しては無意識で行っていた。
「別に敬語なんて使ってなかったよ」そっぽを向きながら朱里はいった。自然と唇が窄まった。
「そっか」無かったことにしようとした朱里が可笑しかったのか、彼は鼻で笑った。
笑われたというのに不思議と悪い気はしなかった。沈んでいた朱里の心は浮き輪が掛けられたように、ぷくぷくと徐々に浮き足だってきた。
二人は並んで商店街へと、来た道を戻る。
不良の高校生二人からは逃げ切り少年は無傷で済んだ、という話を朱里は聞いた。振り切った帰り道、見回りの強化を提案しようと、交番へ向かったという。それを聞いて朱里は彼の無事を喜んだ。胸のつっかえが取れた気がした。
「良かった。私のせいで怪我でもしたらどうしようかと思ったんだ」
「これが漫画とかだったら、その場で返り討ちにしたんだろうけどなあ」
少年は気にするな、とでも言うように皮肉で返した。その言葉に朱里は、彼の飾らない誠実さを垣間見た気がした。
「そこでケンカしてたらお店にも迷惑掛かってただろうから、それで良かったんだよ、きっと」
「うん。そうだよな」
朱里のフォローに納得した様子で彼は頷いた。
「空き缶を当てたのはわざと?」
「いや、偶然」
少年はかぶりを振った。
「でも絡まれてるのは分かった。空き缶が床に落ちる音で俺に気が向いてくれれば、って思って投げたけど何故か当たっちゃって。そしたら、すげー勢いでこっち来るんだもんな。最初っから逃げるつもりだったけど、あいつら手出すの早すぎるって。あん時は焦った」
その時の状況を思い出したのか、少年の顔の筋肉がわずかばかり強張っているように見えた。二人は横断歩道へと差し掛かる。歩行者用の信号は青を示していた。
「ね。聞いてもいい?」
「何でも」
横断歩道を渡りながら朱里は少年の横顔を見た。クラスメイトだ、ということを聞いたからだろうか。彼と接する際に何の気負いもなく、朱里は自然に話しかけることが出来た。まるで男友達のような気楽さがそこにはあった。
「名前。教えて欲しい」
彼は歩みを止めて数秒固まった。そしてすぐに、おおう、と頭を抱えた。
「うわぁ、大事なこと忘れてた」
しかしすぐに持ち直して、歩みを再開させる。落ち込むような表情のまま、彼は立ち止まった場所が横断歩道のど真ん中だ、ということに気づいたのだろう。
「あ、でもさ、もうすぐ学校に出るんだろ?」
「え、うん。多分来週くらいには出れると思う」
横断歩道を渡り終え、その先に商店街の入り口が見えた。
「じゃあ、そん時で」
朱里は目を瞬かせた。
「どうして?」
「謎めいてた方が何かカッコ良くない?」
「そ、だね」
疑問文を疑問文で返す人に対してはどのような返答が正解なのか。深く掘り下げるのが煩わしくなった朱里は、同意のみで返答を寄越す。すると慌てたように少年は訂正を口にした。
「あ、いやいや、やっぱ聞いて。まさか流されるとは思わなかった……」
一瞬の間。肌寒い風が弱々しく吹いた。春とはいえ夕方には気温も下がり気味のようだった。
「鳴海……鳴海奏太」
名乗ってから、彼は自身の髪をくしゃ、と右手で撫で付けた。
「よろしく、鳴海君。お店では助かった。ありがとう」
精緻なドールを思わせる彼女はそれとは不釣合いに、ほころぶようなにっこりとした笑顔でいった。精一杯の感謝の気持ちを表したつもりだった。
それを見た奏太は不意を付かれたように瞳孔が開かせた。そして頬にうっすらと朱が差さり始めたかと思うと、視線をあさっての方向へと逸らした。
彼女に初めて友達と呼べる人が出来た瞬間だった。
彼は初めて何かを自覚した瞬間だった。
ども。作者です。
奏太にバズーカ砲でも取り付けて、
不良どもを一掃させとけば話は早かったのですが、
そんな同級生は嫌なので止めました。