1 ベランダから、落ちました。
ぐぅっ……きゅるきゅるきゅるきゅる………………
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ふ、と。
意識が浮上して、飛世は目を覚ました。
――そら……だ。
飛世は、ほんとうの空、というものを初めて見た気がした。薄い青でも濃い青でもない。ただひたすらに澄みきった、青。鮮やかな、青。ただ一色が、どこまでもどこまでも終わりのない空を覆いつくす。何処までも完璧な青の綻びを探すようにひたすらに見続けて。その果てのなさにぐらり、と目眩がするころ、飛世はようやく青以外の色を見つけた。鮮やかな青は、薄い青になって、そしてやがて白になった。飛世はただボーっと、その軌道を目で追う。生まれたばかりの白は、流れるうちに丸々とした雲になる。羊の毛玉のようなそれは、少し早い気流に乗って、ちぎれて四散しながら。ゆったりと時間をかけて、目の前を通りすぎた。
――…わたがし、食べたいなあ。
硬いお砂糖の結晶が、熱と遠心力の魔法で、わたわたの、ふわふわになるフシギ。
その魔法効果で甘さも200パーセント増量だ。
……ぐるるるるるるるるるる………………
想像しただけで、口の中にじゅわっとした感覚が広がる。人間の生理現象。一気に唾液が出るから、正直痛い。口腔内の痛みにボーっとした頭が刺激され、どこか絵空事に見えていた景色が現実味を帯びてきた。
――……あれ。
そこでふと、疑問に思う。
わたし…死んでない?
飛世は、空を見つめたまま、記憶の糸を手繰り寄せる。まず最初に、落ちてきた記憶。真新しい、一番最近の出来事。―――そうだ、わたし。
…ベランダから、落ちた。
しかも6階。世紀の大落下だったよ。なんでそんなことになったのか、今はよく思い出せないけど。
とにかく守らなきゃ。
それだけを思って、何かをぎゅっと腕の中に閉じ込めた。地面がぐんぐん迫っているのが見えて、怖くて目を閉じて。たぶん死ぬ直前、気を失った。そこからの記憶がないから。
…そして不思議と、身体のどこにも痛みを感じない。マンションから落ちた時の浮遊感と落下感は、まだ身体に残ってる。でも、背中に当たってる硬い感覚。…地面、だよね。落ちたはずなのに、何で痛くないんだろう。死んだからかな。死んだから、感覚がないのかな。それとももう、死後の世界って所に来てるからだろうか。傷だらけの身体から離れてしまったから、痛みを感じてないだけなのかもしれない。6階から落ちて死なないなんて。そんな軌跡みたいなこと、起こるはずもない。
――やっぱり、死んでるのか。
自分の死に姿見ることもなく、成仏たんだ。潔いな。速攻で死んだってこと理解したのか。現時点で相当混乱してますが。せめて死に姿ぐらい………。……いや……うん…………見なくて良かったかも。あの高さから落ちたからね。絶対悲惨なことになってる。――GJ飛世。人間潔さが肝心だよね。
…となると、やっぱりここは死後の世界か。どう考えたってそうだよね。明らかに見えてる景色が違う。そもそも、落ちてきたはずのマンションがない。近くのファッションビルもオフィスビルも。何かしら大きな建物に囲まれて生きていた頃に、こんな広い空なんて見たことがなかった。…ホント何もないな、ここ。空と地面以外、何もない。死後の世界ってこんな感じなんだ。
ぐぅうううううううるーるるる………
…そういえばアレだよね。死後の世界って確か二つあるよね。天国と地獄。某小説のタイトルみたいだ。読んだことないけど。あの世って宇宙のどこら辺にあるのかな。太陽系?水金地火木土天海冥さあどれ!冥土の土産とか冥界って言葉もあるし、冥王星とかかな。そうなら、世紀の大発見だよね。そもそも宇宙にあるのかな。次元が違うのかな。あの世って何次元?ここ見る限り三次元だよね。…じゃあ三次元か。どっちにしろ、地獄じゃないよね、多分。そんなに悪いことしてない。何より、イメージと違う。地獄の空なんて――いや、"空"なんてものがあるのかは知らないけど――正に曇天って感じで、全体的にじめっとしみったれたものだと思ってたし。こんなきれいな空、見たことないもの。どっちかっていうと、天国に近い。じゃあ、天国?天国行くほど、良いこともしてないんだけどな。あれかな。サービスかな。大体助けようとして、死んで、地獄行きって…悲惨すぎるよね。うん、天国逝きってことにしておこう。
ぐ~~~ぐぅるるるるる…………
…そういえば、わたしの死因って何になるんだろう。ベランダ踏み外して死んだってことになるのかな。つまり事故死。でも、あのベランダ。フェンス結構高いからな。乗り出さないと落ちないよね。わたしも、まさか落ちるなんて思わなかった。じゃあ自殺?思い余って?……一応名誉の死亡のはずなんだけど。家宅捜索とかもするのかな。昨日ちょうど掃除したから、その点は問題なし。ああああだめだっそういえば冷蔵庫に賞味期限切れのジャムが鎮座してるよ。カビ吹いてたりするのかと思うと怖くて手が出せなかったんだ。ああせめてアレ捨てに戻れないかな。無理かな。ベランダから落下死ってどっちにしろ間抜けだけど。
…諦めよう飛世。人間潔さが肝心だもんね。もう死んでるけど。頭の中でぐるぐる考えてたって仕方ない。まずは、現状打破だ。どうしよう。なにしよう。そうだな、とりあえず。
ぐううう……きゅるるるるるるる
―――…おなか、減ったな。