第26話 お母さんと一日
月曜の朝、拓也が仕事用の服に着替えてリビングへ戻ると、ノエルがすぐに鞄へ目を向けた。
「今日も会社行くの?」
「うん。辞めるって決めても、今日から行かなくていいわけじゃないからな」
「そっか……」
昨日はあれだけ喜んでいたノエルの耳が少し下がる。
母はすでに来ていて、二人のやり取りをリビングから見ていた。
「手続きとかもあるし、もう少しは行かないと」
「早く辞めてね」
「分かってるよ」
拓也は笑って鞄を持った。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
ノエルは玄関までついていき、ドアが閉まってからもその場に残っていた。
少しして外から車の音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。
ノエルはリビングへ戻ると、窓の方を見たまま伏せた。
「今日は何して遊ぶ?」
母が声をかける。
「……なんでもいい」
「あら、今日は元気ないのね」
「タクヤいないから」
「そう」
母はそれ以上何も言わず、ノエルの近くへ座った。
しばらくして、母が思い出したように口を開く。
「あの子、会社辞めるんだってね」
ノエルの顔が上がった。
「うん!」
「昨日聞いて、ちょっとびっくりしたわ」
「なんで?」
「あの子、一人でいるの平気だったから。休みの日も、自分の好きなことしてればそれで満足するような子だったし」
「一人が好きなの?」
「一人でも平気って感じかな。友達と遊ぶこともあったし、家族とも普通に出かけてたわよ」
ノエルは母の話を聞きながら、少し首を傾げた。
「でも、誰かとずっと一緒にいたくて生活まで変えるような子じゃなかったの。会社も自分から辞めるって言うとは思わなかったわ」
「そうなの?」
「ええ。ノエルちゃんといるの、よっぽど楽しいのね」
ノエルの耳がぴんと立った。
「タクヤも僕と一緒がいいの?」
「そうなんじゃない? あの子もノエルちゃんともっと一緒にいたいんだと思うわ」
ノエルはしばらく黙っていたが、尻尾が少しずつ動き始めた。
「僕もタクヤと一緒がいい!」
「知ってるわよ」
「ずっと一緒に遊びたい!」
「じゃあ、会社辞めるまで少し待ってあげないとね」
「うん!」
さっきまで伏せていたノエルが立ち上がる。
母はその様子を見てから、持ってきていた袋へ手を伸ばした。
「ケーキでも作ろうか」
「ケーキ?」
「甘いお菓子。クリームと果物をいっぱい乗せるの」
「甘い?」
「甘いわよ」
「作る!」
ノエルはすぐに母のあとをついてキッチンの方へ向かった。
母が袋から丸いスポンジケーキと生クリーム、それから苺やバナナを取り出す。ノエルはリビング側からカウンターへ前脚をかけ、並んでいくものをじっと見ていた。
「果物、どれが好き?」
「どれがおいしい?」
「じゃあ、まず苺ね」
母は苺を一つ洗い、へたを取って半分に切った。小さい方をノエルへ差し出す。
ノエルは匂いを嗅いでから口へ入れた。
「甘い! これ好き!」
「じゃあいっぱい乗せましょうか」
「いっぱい!」
母が苺を切り始めると、ノエルの目が包丁の動きを追う。バナナも輪切りにして皿へ置き、今度はボウルへ生クリームを入れた。
「それなに?」
「クリーム。混ぜるとふわっとするのよ」
泡立て器を動かし始めると、液体だった生クリームが少しずつ重くなっていく。
「変わってきた!」
「もう少しね」
ノエルはカウンターに前脚をかけたまま、母の手元から目を離さない。
しばらくしてクリームができると、母はスポンジの上へ塗っていった。白いクリームが広がり、その上へ切った苺とバナナを並べていく。
「僕も食べるやつ?」
「もちろん。ノエルちゃんのために作ってるんだから」
「やった!」
尻尾が大きく振れる。
「苺もっと乗せて!」
「はいはい」
空いているところへ苺が増えていく。そのたびにノエルが嬉しそうに見ているので、母も笑いながら飾りつけを続けた。
出来上がったケーキをテーブルへ運ぶと、ノエルはすぐ隣へ座った。
「これ全部食べていい?」
「全部は多いわよ。一緒に食べましょう」
「僕いっぱい食べる!」
「じゃあ大きめに切ってあげる」
母が切り分けたケーキを皿へ乗せる。ノエルの分には苺も多めに乗せた。
「いただきます!」
ノエルは最初に苺を食べ、そのままクリームのついたスポンジへ口をつけた。
「おいしい!」
「よかった」
「これ好き!」
「また作りましょうか」
「明日も?」
「明日は早いわね」
「じゃあ明後日!」
母が笑った。
ケーキを食べ終わる頃には、ノエルは朝のように窓ばかり気にすることもなくなっていた。
そのあとは母とテレビを見たり、少し遊んだりして過ごした。昼寝をして起きると、また母のところへ行き、夕方まで家の中を行ったり来たりしていた。
それでも、外で車の音がするとノエルの耳がすぐに立った。
「タクヤ!」
玄関へ向かって走り出す。
ちょうどドアが開き、仕事から帰ってきた拓也が入ってきた。
「うわっ」
ノエルが勢いよく飛びつき、拓也が両腕で受け止める。
「ただいま」
「おかえり!」
ノエルは尻尾を振りながら、拓也に身体を押しつけた。
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