忘れられた地 魔族の国へ
空が曇天に沈む午後、火焔亭の裏口に佇んだオッサンは、渡された封書を手に重く息を吐いた。
ドワーフの鍛冶神グラム・インゴットからの紹介状。それは魔族の国、ダル=ノアへの正式な招待状だった。
「……本当に行くのか? 魔族の国ってのはよ。俺たち、戦った相手だったんだぜ?」
そう呟いたのは、狼獣人のゼラだった。背中で腕を組み、焔色の尾を揺らしている。
「うん、でも今は違う。誰も、知らないだけだよ」
ミュリカはそう言って、風にそよぐ黒髪を整えた。オッサンは何も言わず、軽く顎を引いた。
この国では、魔族との大戦はなかったことになっている。
文献にも記録にも一切残らない。
それが“赤星の盟約”と呼ばれる契約の効果だった。
──互いに干渉せず、記録せず、忘却せよ。
「だが、お前たちには門が開かれる。魂が、古の誓いに呼応している」
ダル=ノア国境の魔障壁を越える際、使者の女性が静かにそう口にした。
肌は蒼白、瞳は紅玉のごとく輝き、背には灰色の羽根。魔族としては若くも高貴な出自に見えた。
「……魂?」
「かつて交わされた“黒陽の誓約”。王の器にして剣となる者が、血を継がぬままに門を越えることは許されぬ。しかし、汝らは『血に近き魂』を持っている。選ばれし者と見なされるだろう」
オッサンは眉をひそめた。
選ばれた覚えはない。だが、刃を打ち、戦い、命を救い、人を斬ってきたこの手には、何かしらの因果が宿っているのかもしれなかった。
魔族の都は、思いのほか静かで整然としていた。
石造りの街路、魔導によって動く浮遊の車輪、光を散らす空中の灯。
文化的レベルは高く、むしろ人間の都市より整っている印象すらあった。
しかし、その中心には黒き塔と煙を吐く工房群があり、そこには『かつての禁忌』の匂いが漂っていた。
「ここは……鍛冶の街か?」
「“黒き工房(ザイ=ヴァル)”。今は封じられたる場所。我らの技が、かつて幾多の魂を焼き、呪具を生んだ。その罪を贖うために交わされたのが、白焔の封だ」
そう語ったのは、魔族の鍛冶長老、フューリアだった。彼女はかつて、人間の鍛冶神とともに刃を打った最後の者だという。
「だが、その封を解く鍵がある。“**魂を削る火”に触れし者と、古の血を引く者、そして……第三の導きを持つ者」
その時、彼女の目がオッサンとミュリカを見つめた。
「まさか……」
「そう。“三炎三血の誓い”が予言する通り。かつて失われた三つの王家、三つの火、それが今、交わらんとしているのだ」
それは、今も眠れる“魂の刃”を揃える旅の始まりを告げていた。
この地にて、魔族の姫と出会い、そしてオッサンは知ることになる。
首無しの騎士がなぜ彼を狙い、どのような因果に縛られているのかを。
世界は、忘れてしまった誓約の代償を、今、静かに払い始めていた。
──そして、黒き工房の煙が、再び空を焦がす日も遠くない。