ゼラの料理旅 伍
それは、ほんの一瞬の油断だった。
亜人街の片隅、ヤリハの屋根裏。昼の仕込み中、鍋に残っていた油が弾け、火が天井へ舐め上がった。ゼラが振り返った時には、すでに布巾に引火し、炎が煙突の根元へ達していた。
「くそっ……!」
ゼラは桶を引き寄せ、火元へ浴びせかける。だが、木材に染み込んだ油が火を運び、炎は容易には鎮まらなかった。亜人街の住人たちが水を運び、やがて衛兵団も駆けつけ、どうにか消し止められたが、厨房の大半は黒焦げに崩れ落ちた。
怪我人は出なかった。それだけが救いだった。
夜、ボラは焼け跡に腰を下ろし、ぽつりと口を開いた。
「……ゼラ。お前を叱るつもりはない。火は料理人の試練だ。だが、これ以上ここじゃ学べん」
ゼラは何も言えず、ただ下を向いた。
ボラは続けた。
「俺の師匠がいる。南の港町。“火を喰う料理人”と呼ばれた男だ。お前に足りないもの、あそこなら学べるかもしれん」
「……俺は、料理人として失格か」
「違う。だから送り出す。あの日、お前が焦げた鍋の前で泣きながら作ったスープ……あれは、客を黙らせた。火に敗れたまま終わるな。ゼラ」
数日後、ゼラは街を発った。
誰にも告げずに。ミュリカにも、オッサンにも。
料理人として、もう一度自分の手で火を掴むために。
南の港町カンナ・セーラ。海風と太陽が交差する町の片隅に、赤い瓦屋根の食堂《火焔亭》があった。
そこに立っていたのが、片目に傷を持つ男・ガルード。年老いたとはいえ、背筋は伸び、鍋を振る手は鞭のようだった。
「お前が、ボラの言ってた“黒虎”か。……火に懲りた料理人ってのは、俺ァ好きだ」
その日から、ゼラの修行が始まった。
魔法で熱せられる鍋、魔力を通して焼き上げる鉄板、炎の精霊に語りかける技法。
調理場は訓練場だった。ゼラは毎晩、汗だくで床に倒れ、起きれば手に火傷の痕を増やしていた。
だが、少しずつ――ほんの少しずつ――火が怖くなくなっていった。
ある晩、ガルードが問う。
「ゼラ。お前の“火”は、何の味を目指す?」
ゼラは迷わず答えた。
「……懐かしい味だ。戦の帰り、母さんが作ってくれたスープの、あの匂い」
ガルードはしばし黙ったあと、笑った。
「よし。ならそれを、“火で作れ”。それがお前の料理だ」
こうしてゼラは、“火を越える旅”を歩み始めた。