ふるさとについての備忘録
子ども時代を思うと、それはいつも潮の香りと、波音の中にある。
私の生まれ育った町は、住民のほとんどが漁業に従事していて、大抵夫婦で船に乗る。
私の両親や祖父母、そのまたご先祖たちも、代々漁師を継いできた。
私は、本好きで空想好きな大人しい子どもだったが、都会の大人しい子どもの基準に当てはめて考えると、多分かなりお転婆だったかも知れない。
同級生や、年の近い近所の友達は、男女問わず野性的で元気が有り余っている子が多かった。
今でも、故郷の子どもたちの躍動感溢れる野性味には驚かされるときがある。
増してや、家庭用ゲーム機などあまり普及していなかった当時の子どもたちの野性味ときたら、まるで子犬というより、オオカミの子のようだったと思う。
私たちの遊びと言えば、木の上に秘密基地を作ったり、蔓を伝って崖を登ったり、山に分け入って、竹や棒を組み、隠れ家を作ったり、丸太に乗って「ハワイまで行けるらしい」と、海に漕ぎ出してみたり、そこら辺の雑草をむしっては味見してみたり、甲虫の幼虫を掘り起こしに行ったり、服のまま海に飛び込んで泳いだり、凶暴な放し飼いの鶏をからかって逃げ回ったりと、とにかく自由気ままだった。
とにかく命がけの遊びも多く、蔓が切れて崖を滑り落ちたり、海で溺れそうになったりと、親に言えば激怒されるので未だに言っていないこともある。
しかし、親の世代はもっとワイルドな遊びをしていそうだとも思うのだ。
私は、学校が終わると、ひとりで竿とバケツと餌を持ち、堤防で釣りをするのも大好きだった。
メバルが沢山釣れた。ワタリガニも網で掬った。
釣った魚は、母がちゃんと煮付けや塩焼きにして食べさせてくれたものである。
学校の校舎は築100年の木造校舎で、建物全体が黒く煤け、階段は傾き、床には節穴が沢山空いていて、そこに消しゴムなど落とそうものなら、拾うことは困難で、箒の棒の先に画鋲を貼り付け、それを穴に差し込んで取ったりしていた。
その床はギィギィと軋み、「鶯張りの床」などと呼ぶ者もあった。
とにかく、校舎全体が、湿っぽいような、カビ臭いような、古い木独特の匂いがしていて、その匂いは未だに私の鼻腔の奥に残っている。
そして、トイレは校舎の外にあった。汲み取り式の、暗くじめっとしたもので、そこにはオットセイに似た幽霊が出るとか、便器から手が出るとかで、子どもたちみんなから恐れられていて、なるべく連れ立って行くか、ひとりで行かざるを得ないときは、個室に入りたくないばかりに、男子トイレで小用を足す女子もいたものである。それは私だが……
この町には古い言い伝えやしきたりが生きていて、私や友人の多くが、物心ついた頃には首から身代わり守りをぶら下げていて、私のは確か成田山新勝寺の木札だったと思うが、古銭のような形の銅製のものを着けている者もあった気がする。
私のは、いつだったか真っ二つに割れてしまったのを母が見て、「ほうら、あんたの厄の身代わりになってくれたんや」と言っていたのを思い出す。
祖父母の言う「海の亡者が出る」と言う言葉も、特に私の心に未だに残り続けていて、そのせいで、海育ちなのに海に心許せないようなところはある。
「海は恐ろしいもんや」そう教えられて育った。
やはり、海で命を落とす漁師は多く、うちの父なども、緊急の呼び出しで、遭難者を探すために船を出すこともあった。
今では、故郷の町もだいぶ近代化され、漁師たちもパソコンやスマホを使いこなし、都会と遜色ない暮らしを営んでいる。
かく言ううちの七十代の父も、タブレットでユーチューブなど視聴している。
しかし、私はあの頃の薄暗くて、神秘に満ちて、野性味溢れ、ちょっと遅れていたあの時代の故郷をずっと心に残して、忘れずにいたいと思うのである。