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1992 〜私の居場所〜

作者: 長崎日出海

「目は物を見れればいいの。鼻は息をするためにあって、口はご飯を食べるためにあって、それ以上でもそれ以下でもないのよ」悲しい顔をした私に、母はそんなことを言った。しかし、どうしてもあの男が私にしたことを許せなかったし、彼が何をしたのか。母に言ってしまうことができなかった。


 その時、私が私でいれる場所は毎日が大安売りを開催しているスーパーマーケットの上の階にあるゲームコーナーだった。

 高校に行けば、成績優秀者であり続けなければ自分の居場所がなくなってしまうような、そういう焦りがあった。教室の後ろに毎回貼り出されるテスト結果で私がよい成績を出せたとしても、医者志望や教師志望の受験勉強の猛者連中から(私たちの仲間にあなたも入るのかしら?)と、彼らからすると大学になった時の人間関係も計算した上での、ちっとも可愛くない挨拶をもらえるだけのことだった。

 小さなゲームコーナーにあるマシーンのディスプレーに映し出されるポリゴンのファイター。特にバーチャファイターのサラが好きだった。彼女は、エクスプレスユアセルフツアー時代のマドンナのような髪型に、海色の瞳と合わせたピッタリとしたコスチュームに身を包み、貧弱な私の体とはかけ離れた、筋肉が程よくついた健康美をモニター越しに見せつけ、私の思った通り、レバーの操作のまま動いてくれていた。

 ゲームのラスボス、デュアルまでたどり着いた時だった、大袈裟なアルファベットで誰かが私と対戦したがっていることが告げられた。マシーンの裏側にいる挑戦者の顔をしっかり見るほど、私は人に慣れていなかった。男が怖かった。女も怖かった。人が怖かった。

 身の回りのリアルな人間関係に溶け込むくらいなら、一日中ミュージシャン達のライブ映像でも見て、彼らを自分の仲間のように愛する。もちろん、一流のミュージシャン達が私のような小娘を知る由もないのだが。彼らを一方的に友人と思ったり、恋人だと思ったりした方が、なんだか楽だった。

 挑戦者のキャラクターはリオンだった。正体不明のチャレンジャーは、前進、後退を繰り返して小刻みに私との間合いを調整していた。そして、「来い!」というようにパンチを空に打っていた。私のサラは長い足で空中空間へと跳躍し、リオンの背後にまわろうとした。しかし、サラが空中に浮いている間に、あっけなくリオンのコンボ攻撃で地面に落とされ、ダウンしてしまった。突かれて、蹴られて、なぶりものにされ勝負ありと告げる、K.O.。

 また大袈裟なアルファベットが音声とともに表示されたのだった。仕方ない。二台しかないバーチャファイターは、この挑戦者に譲るか。そうして立ち上がった時だった。

「あれ?あんた女なんだ。デュアルまで行ってたからさ、てっきり男と思ってたよ。へえ」

 黒い学ラン姿の、やけにタッパのあるヒョロっとした男が、私に話しかけてきた。緊張して、私は顔がこわばっていた。男は更に気を遣ったのか

「女の子か。そりゃあ、もちっと手加減してやらなきゃいけなかったな」

 リアルに、特にこんな自分の趣味に没頭していればいいだけの場所で男に話しかけられるなんて、私のメモ帳には書いていなかった。

「ヤッホー、聞こえてますかあ?」

 男は、接触を求めている。彼の表情には世慣れた笑みすら浮かんでいた。

 雑誌で評判の映画を見る、本を読む、試験前に勉強する。そのルーティーンの中で生活し、ほぼほぼ友人だとか、恋人だとかを長く有したことがない私。

 全く別の世界からのコンタクトに対して、笑顔を返すには三日ほど自室の姿見で笑顔の練習でもしなければ不可能だった!

 くっ。ハードルが高い。しかも形の悪い私の頬ボネが笑顔になると目立って醜く映るだけだろう。しかし、無視するには彼は私と同級のような年格好であり、一瞬、情がわかないこともなかった。私は無表情のまま手を振ってみせた。

「名前なんていうの?俺と同じ歳じゃない?」

 向こうも、私の様子に気付いたようでゲームの画面から目を逸らさないまま、器用にこちらに声をかけてきた。そうだ!こんな優男と、テレビのドラマのような恋愛ごっこをしている時間があるなら、早く家に帰って、福岡の海賊版専門店で購入した、プリンスのラブセクシーツアーのビデオを見たい。素敵なクラウドギターをかき鳴らしながら短パンで踊り狂うプリンスを。私は見たい。腕時計に目を走らせると、夜の7時半を回っていた。

「帰るね。また」

 私は小走りにスーパーの階段を降りて行った。

 その夜も不眠症に酷く悩まされていた。

 家が真っ暗で、わずかに照らされる街灯の明かりが窓から溢れるのを頼りに、母の布団に潜り込んで一緒に寝ようとしたのだが、その日の街のスーパーですっかり冷えてしまった素足が、どうも母のお気に召さなかったらしく。母の足に自分のを近づけようとすると

「冷たい!」と、蹴られてしまったので、仕方がなく自室のベッドに戻った。

 アイワのデッキにイヤフォンを繋いで再生ボタンを押す。自分で編集した、延々とプリンスのスローな一曲のラブソングだけが三十分間、繰り返し流れるマニアックなテープがくるくると私のために回り始めた。私は夢を見る。どこか、異国の素敵な街はずれでプリンスに会う夢を。永遠に叶うことがない、私の渇愛。眠りに落ちたのは三時を過ぎていた。

 目覚ましの大きな音で、目が覚めた。教科書を自力で読みさえすれば、ほとんどの教師が私にとって不要ではあったのだが、今日はどうしても学校に行きたかった。2限目の現国は、外せなかった。

「あれ?今日は早いんだね。いつも、大学生みたいな生活してるくせにさ!」

 大学の休みで実家に戻って来ている兄から、からかわれながら私は家をあとにした。

 教室のドアを開けると、現国の先生であるHは教壇に立って授業の前の小話を始めていた。

「高校という場所は、本当の友達が、仲間ができる場所です。あなた方が入学してから一ヶ月が経ちました。しかしですね、こないだ私のことを呼び捨てで呼ぶ学生がいたんです。私が注意すると『先生、それは親しみだよ』と言って聞かないんですね」

 Hは天然パーマを短く刈った小太りで眼鏡の決してイケメンといった風貌ではなかった。しかし、悩み多き高校生と同じ高さか、それ以下の謙虚な目線で話をしてきたのでファンが多く、私もその一人だった。Hに『親しみ』と言った生徒の気持ちがよくわかった。一方、それを邪魔臭く感じているHを大人に感じながら私は席で話に聞き入っていた。

「尾崎豊というミュージシャンがこないだ亡くなりました。私は彼の曲が大好きですが、あなた達は若い。その一方で、私は大人です。人間として社会的に出来上がってしまった、つまらない私のような人間に親しみを感じるより、やはり、同じ未完成の学生同士で模索するような人生の方が生きがいがあるのではないでしょうか」

 急に、Hから距離を置かれた気がして、なんだかさみしい気分になって私は背中を丸めていた。後ろの席からクラスメートが私の肩をコツコツと叩いて来たので、わずかに上半身を捻ると彼女はボソボソ声で、

「H先生、最近結婚したらしいよ」

 と囁いてきた。

「え!?本当?だから、うちらと距離置くようなこと言ってるのかな?」

 私も小声で囁き返した。先生に聞こえてなければいい。私のつまらない好意や執着なんて、気づかないで欲しかった。周りと馴染めない遅刻常習犯の私への先生の小さな気遣いが走馬灯のように蘇った。

 こんなことがあった。クラスメートと何を話したらそつなく時を過ごせるのか分からず、もう諦めて、文庫本のページをひたすら席で繰る青白いもやしのような私の席の横を、中学時代に女子生徒を身篭らせたらしいとの噂のある男子生徒が、物知り顔で

「人は一人では生きていけないよ」

と言いながら通り過ぎる場面を、授業まえにHが目撃したのだ。授業を開始して間も無く

「あなた達の中には、いろんな人がいていいはずです。本を好きで読む人というのはですね、本とお話ししているんです。決して一人ではありません」

 そう言ってくれた。Hが、不思議な言葉で自分を守ってくれたような。リアルな人間関係を構築することを怖がっている私の全てを察して保護してくれたような気がした。それからクラスメートの噂で、先生が独身で一人暮らしであるらしいなどと聞き、自分の孤独と先生の孤独がどこかでつながるような気がして、私は現国の時間だけは、顔を出していたのだった。

 そうか。先生は幸せになられたのか。心の中でパキンと何かが折れた。

 その日、学校が終わるまで私の時間は現国の時間で凍りついていた。教科書の内容を教えることが義務である先生たちの声をひたすら受け取っているうちに、時計は4時を回って、ホームルームの時間になっていた。同じ部活の生徒同士が放課後の話をし始めると、私はカバンに教科書を何冊か入れ、帰る準備をした。

 学校を出て坂道を下り、街まで運んでくれるバスに乗って市内の一大アーケード街、浜の町に向かった。まだ、Hの残り香を嗅ぐ犬のように以前先生が授業中に推薦していた中上健次の文庫本を探しに書店に向かった。

 書架の中から「な」の作者名を示すプレートを見つけ、「中上健次」の文字を本の背表紙から一生懸命探していた。目に入って、手に取ろうとしたちょうどその瞬間、シミだらけのゴツゴツとした男の手も、その本を取ろうとして、少し手が触れ合った。

 おずおずと、私が男の手から腕に視線を移して顔を見ると、黒ずくめの初老で禿頭の男が

「この本を読んでいるのか?」

 と、聞いてきたので、何と反応すればいいのかわからず無言のまま男の顔から目をそらしていると

「お前はつまらないヤツだっ」

 と吐き捨てて、中上健次の本を私からもぎ取ると、レジにズカズカと歩き去って行った。

 ブスだ、ザコだと見た目を品定めされたことはある。しかし、内側まで否定されたことはなかった。しかも、まるで接触がなかった赤の他人から。なんだよ、ハゲ。ジジイ。たくさんの年長の男を罵る月並みな言葉が空を舞った。

 この私、せっかく高校生活をしているのに、リアルな人間関係一つ作れずに、手に届かないアメリカのスターや教師にいつまでも執着する、臆病者。本当につまらない人間なのかもしれない。少し不安になった。

 それから私はソニープラザに向かった。グローバルな企業のイメージが強いソニーの名前が店名に入ってる、ソニープラザは、当時欧米の小洒落た雑貨を探そうとする時に、真っ先に思いつく店だった。全国に散らばっていた。私の住む長崎も多分に漏れず街の少しはずれにソニープラザがあった。そこに行けば、自分の日常とは解離した何か美しいものがあるような気がして立ち寄った。

 制服や校則で縛られている私たちにとって、自分の内面の世界を同級生に表現できる手段は限られていた。腕時計。筆入れやペンといった文房具は、限られた中で自分の個性を主張する学生の味方だった。全く知らない舶来のペンがたくさん並ぶ中、店員さんの小さなポップで「魅惑の紫ボールペン。ラベンダーの匂いがほんのりと香ります。気になるあの人への一筆にどうぞ」と紹介されている小さな紙の下に、細身のボールペンが束になって売られていた。

(あ、プリンスの色だ!)

瞬発的に思った。アメリカのミュージシャンである、プリンスは1984年にパープルレインというヒットアルバムを作り、自身のテーマカラーを紫と決めており、アーティスト名のロゴも紫で書かれることが多いミュージシャンだ。また、CDアルバムについているライナーノーツに、プリンスと実際に会うと、ラベンダーの匂いがするといった情報が書かれてもあった。Hが、どうやら手に届かない存在になってしまった今、中学時代から愛聴しているプリンス本人に、私の想いをファンレターとして投げつけてみるのは、どうか。そう思った。プラスチックの開いた筒から、そのボールペンを一本取り出すと、すぐさまレジに直進して会計を済ませた。

 家に帰って、ソニープラザの袋を開けた。一緒に買った、花柄の便箋の封筒にCDについた小冊子に書かれてあるファンレターの宛先を書込むと、グッとテンションが上がった。つながるのだ。今まで、海の向こうの幻想だったスターと、私はリアルな関係を築き上げるのだ。そう考えると、脈拍がぐんと上がって体が熱くなった。プリンスのもとには、おそらく何千、ひょっとすると何万ものファンレターがアルバムの発表ごとに届けられるのかもしれない。その中で、どこか光る文章を私はしたためたい!両親の読まなくなった本が積み上がった倉庫で、英文レターの書き方なる本を見つけてI am your biggest fanが、どうやら「あなたの大ファンです」という意味らしいことを調べ上げたときには、もう夜だった。

「ご飯ですよー」

 母が階下で私を呼んでいる。頭の中で、PVでプリンスのバットダンスを見て以来、アルバムをレンタルしたり購入したりしながら4年間。おそらく、その期間の中では両親の声を聞く以上の頻度で、プリンスの声を聴き続けている。その想いを、スターである相手に拙い英語でどう伝えようか一生懸命だった。母のご飯を食べて欲しい、といった当たり前の愛情が届くような状態ではなかった。

「こんなところで何してるの?」

 倉庫でしゃがみ込んで本を繰っている私を呆れたかおで見る母親に、まさか、異国の王子様に手紙を書いているなんて言えなかった。

「英語の勉強。今度小テストがあるんだ」

 そう言って母をこれ以上困らせないように、立ち上がって下の食卓へと歩いていった。

 七時のニュースも耳に入らず、自分の大好きなスターに対して持っている、憧れだとか夢を英文で表現するには、どうすればいいか。日本語と英語がちゃんぽんに頭を走った。早めに夕食を食べてしまうと、引続き憧れのスターへのファンレター作成を続けに倉庫に戻って本を取り出すと自分の部屋の勉強机で再び紫のペンをとった。まず、自分が十代の高校生であることを書いた。もしかしたら、若いということに少しは興味を持ってもらえるんじゃないか、なんて思って。クラシック音楽ばかり聴いていた私が、楽曲「グラムスラム」の始まりのギターで初めてエレキギターの音色が美しいと思ったこと。眠れない時は彼のスローなバラードを毎晩聴いていること。そして、愛に溢れた楽曲で自分の毎日がどんなに癒されているのか、ということ。そういったことを書き綴って便箋に封をした。ありきたりなファンレターかもしれない。シュレッターに割かれて捨てられるような凡庸な手紙かもしれない。だけど、何も行動を起こさないよりは随分マシだろう。「お前はつまらないヤツだっ」と初老の男から品定めされた、今日の私よりも、もっといい自分になって次の日を迎えられるかもしれない。夜が深まれば深まるほど、自分の情熱がポッポ、ポッポと熱くなった。本の中でアメリカへの切手代を調べると、なんだか今日やるべきことが終わったような気がして私は風呂に入り、深い眠りに落ちた。

それから二週間後のことだった。

「葉書が届いてたよ」

 大きなテストが終わって、早めに帰宅していた私に母が一葉の葉書を差し出してきた。英語で書かれた宛先の裏には、写真が6枚ほど印刷されている。それは、プリンスファンクラブからの入会案内だった。やっぱり、スターにとって自分は他のファンと同様、One of Themなのだなあ、とため息をつきながらゆっくりと葉書を見回してポイと机の上に置いた。

「どうしたの。元気がないねえ」

 項垂れている私に、母が声をかけてきた。

「お母さんもわかってるかもしれないけど、あの、アルバムが出るたんびにCDを買っているプリンスに手紙を出してみたらね。返ってきたのが、その素っ気ないファンクラブの入会案内の葉書だったんだ」

母は、軽く鼻息を出すと、ふふふと笑い始めた。

「そんなもんよ。大スターは忙しいからねえ」

「ねえ。どうしたらさ、自分が好きって思う人とリアルな人間関係を築けられるのかなあ。高校の同級生とももっと仲良くなりたいんだけど、リアルな小説や本の中や音楽の歌詞みたいにさ、前向きな言葉ばかりかけてくれる人だけじゃないし。歴史的な大恋愛みたいな真剣な交際を自分とクソ真面目に望んでいる人だけじゃないと思うんだよね。例えば、同じ年頃の男の子なんてすっかり声変わりして、おじさんみたいな、ゲハハって感じの笑い方をしているのを教室で耳にするとすごく邪悪な感じがするんだ」

 こんなに真剣に母と、話をするのは久しぶりだった。Hへの想いが終わって、憧れのスターからも相手にされない私は、私という人間を産んだ母に問うしか術がなかったのだ。

「アンタにもいつか現れるよ。待っときなさい」

 そう言って、クスリと笑うと母は台所へ消えていった。私は、随分雑な返事しか母から貰えなかったなあ、と多少不満に思いながら、玄関に行ってトントンと靴先を床に叩いて、久しぶりにあのゲームセンターのあるスーパーマーケットに出向いてみることにした。

 青いベッチンの布がかけられた低い腰掛けに座って、いつものように一人で金髪のサラを操っていた。コンピューター相手に一人倒し、二人倒して場面は進んでいった。最初はゲームに夢中だった私はその内、どうして目に見える相手を私はひたすら倒しているんだろうか、と不思議に思い始めた。ひょっとすると、リアルな人間関係で、例えば同級生が怖い、同級生の男子の声が怖い、といった人間恐怖症と結びついているのではないか、と深読みし始めた。なんだかわけがわからない相手が近づいてきたから、とりあえず力で倒して、相手を打ち負かす。こんなゲームをしてるから、そもそも友人や恋人といったものができないんじゃないかと思った。そうして、戦うことをしばらくやめてぼんやりと攻撃されないように避けて過ごしていると

「随分、ゆるい戦い方やなあ」

 ひょっこり、いつかの少年が側に立っていた。

「‥こんにちは」

 多少、彼と出くわすことを想定していたので、落ち着いて声をかけることができた。

「戦う気、ないんだろ」

「あ、バレた?」

「うん、俺が裏で対戦申し込んだら、秒殺してたとこだよ」

 そう言って、得意気に彼は笑った。

「高校生だよね」

 私の様子を見て、そう言ってきたので

「うん。模試が済んだから遊ぼうと思って来たの」

 そう言うと、大袈裟に目を大きくして

「ああ!あの模試ね。俺も受けたんだけど、国語の評論文がさ、かなり難しかったよね!」

 と言って来た。

「よかったらさ、ここの一階のミスドでお茶しない?」

 誘ってくるので、

「うん」

 と受け入れてしまった。肌が光るように白い。長い手足。そして生まれついて持った愛嬌。3階にある、ゲームコーナーから一階のミスタードーナツへ一緒に移動している間、おばちゃんやら女生徒の視線がなんとなく彼に投げかけられているのがわかった。彼らの視線は隣を歩く私をちょっと見てすぐに背けられた。

「コーヒーもいる?」

 席について、ドーナツを一つ頬張ろうとしていると、気を遣って声をかけて来た。やんわりと断ると

「そう?俺、ここのコーヒー好きだけど」

 そう言ってカウンターに注文に行った。どうしよう。極端に美形な人と一緒にいると、自分の小さな外見へのコンプレックスが飛んでいくような痛快さがあるんだな。知らなかった。ようやく戻って来た彼に、開口一番。

「モテるでしょ?」

 と言ってみた。すると、かぶりを降って

「いやあ!全然。褒められたりすることもあるけどさ、全部社交辞令だと思ってる。でなきゃさ、あなたと同じように一人でゲームコーナーなんていないよ」

 そう言って、人懐っこく笑った。

「ねえ、どうしてそんな風にいつも笑ってるの?私。友達欲しいんだけどさ、なんか・・・。元々そんなに愛嬌がなくって」

 すると、いつでも上手く行っているような自分から見ると勝者のような彼は意外な反応をした。

「それは、俺だっていつも本当に楽しくて笑ってるわけじゃないよ。だけど、本当に楽しかった時のことを思い出して、普段は明るく笑っていようって心がけてるんだ」

「本当に楽しかった時・・・」

 一人で音楽や本を見て楽しかったことはある。また、プリンスの話を学校でするとき、私は確かに笑っていた。でも、同じ年頃の同級生と楽しい思い出を分かち合ったことなんて、あっただろうか。彼が辿って来た人生と自分の人生に大きな隔たりを感じた、その時だった。ガサッという音がして、彼が隣の席に置いていたリュックが床に落ちて、カンカンの筆入れや文庫本、そしてメモ帳が大きな音を立てて散らばった。

「いいよ。拾わなくても!」

 私の足下に、彼のメモ帳が落ちていたので自然と手に取った。

「返せよ!」

 強い口調で彼が言うので、ふと開きっぱなしになった今月の予定表に目をやると、そこには私と初めて会った、あの日を大きく赤で丸く囲って『サラ使いの少女と話す』と書いてあったのだ。びっくりして、手帳のページを指差して

「これ!私のことでしょ?」

 この広い世界で、私のこと。気にかけてくれた人がいたんだ。そう思うと、なんだか嬉しくなって私は暖かい気分になった。優男は最初は尻尾を掴まれたような罰の悪い顔をしていたが、私をじっと見て

「ほら。今笑ってるじゃん」

 と言って微笑んだ。一瞬、真剣に付き合いたいとすら思ったけれど、彼のことを何も知らない上に地味な私は自信がなかった。でも、この1ページに私という存在がつまらなくもなくカッコ悪くもなく、ただ「サラ使い」として記されていることがとても気に入って、つい

「この予定表のページ、私にちょうだい」

勇気を出して、優男に言ってみた。

「おいおい。人のプライバシーとか気にしないのかよ」

普通、そんなこと言わないものなのかな。対人経験が乏しい私にはわからなかった。

「私、自分が誰なのかわからないの。自分じゃない人が自分のことをその人の字で書いてあることがすごく珍しくて。あなたが見ている私が本当の私の一部のような気がして」

 優男は、目を丸くして

「なんか・・・真剣なんだな。わかったよ。やるよ」

 と言って、メモ帳を切って渡してくれた。


優男は、私を家まで送ろうかと言ってきたけど、まだ、実家の場所を教える気にはならなかったので一人で帰った。

家に帰ると、母が同じ年頃の友達ができたような気分で浮かれている私の変化に鋭く気づいた。

「どうしたの?ニヤニヤしちゃって」

「なんでもないよ」

 まさか、街で知り合った学校が一緒というわけでもない男の子が自分を意識しているみたいだとか、そういうことは言えなかった。母から、もうゲームセンターなんて行くなとか、詮索されることが怖かった。私は自分の部屋に入って、襖をしめた。『サラ使いの少女と話す』と書かれた紙切れを、生徒手帳の中に入れて「少女」と書いた彼の字をうっとりとなぞっていた。そうして、不意にHが言った言葉を思い出した。「同じ未完成の学生同士で模索するような人生の方が生きがいがあるのではないでしょうか」先生が言っていた、模索する相手が彼であってもいいはずだ。もっとあの優男のことを知りたかった。彼が身につけてる「笑顔」や「愛嬌」が本当に楽しかった時のことを思い出して振る舞っている、と言っていたことを思いながら、手鏡を見ながら無理やり笑顔を作ってみたけれど、私には何も思い出すことがなかった。


 週末がやって来た。いつも仕事場に閉じこもっている父が、一緒に外に出たがる。私、父、母三人で市内のホテルで昼食をとることになった。ホテルの入り口でタクシーを止めると、ボーイさんがドアを開けてエスコートした。

「いらっしゃいませ。3名さまですか」

レストラン、カウンターの女性が尋ねて、うなずく父。

「どうぞ、ご案内します」

通されたのは、ガラス窓から滝が見える眺めのいい席だった。すでに何組かの客で賑わう店内に緩やかなジャズミュージックが流れていた。私は、席に立ってボーイさんが椅子を運んでくれるのを待っていると

「あなたは・・・」

 どこかで聞いた声がしたので、振り向くと、それはゲームセンターの優男だった。両親が一瞬キョトンとして、母が

「知り合いなの?」

 と聞いて来たので

「うん。ちょっとね。クラスは違うんだけど同じ学校の同級生」

 と少し嘘をついて照れながら返した。他のボーイさんが来て、父が手早くコース料理を三つ頼んでしまうと、グラスに水が注がれていった。優男が消えた方向に目をやると、彼は壁の前にじっと立っていて視線に気づくと、まだびっくりしているのか顔が硬っていた。

 前菜が来ても、なんだか落ち着かなくて

「ちょっとトイレ行ってくる」

 席を立った。地下にあるトイレで用を足して洗面台で手を洗ってペーパータオルで手を拭き、出ると廊下でつながっている喫煙所に見慣れたシルエットがあり、そこに優男が立っていた。私を見るなり

「お嬢様なんだな」

と言ってきた。その一言で、彼と私があのゲームコーナーで会った時のフェアな関係と少し変わってしまったことを悲しく感じた。まるでHが結婚したという噂を聞いた時のように。

「今日はたまたま、お父さんにお金が入ったから来ただけだよ」

お茶を濁そうとすると

「いや、少なくともあなたの父親は、このクソ高いレストランにしょっちゅう奥さんと来ていたよ。ある程度お金がなきゃできないことだ。だから、俺みたいに努力して笑ったり、そういうことが必要のない星の下に生まれてるんだな」

優男の顔にはいつもの愛想はなく、頑なに悲しそうな顔をしていた。優男を誤魔化すことはできなかった。私は返す言葉がなかった。やがて、優男はポケットから一枚の写真を出して来た。そこには、優男の学校の女子の制服姿をした一人の少女の全身像が写っていた。

「いつも辛い時、この写真を見るんだ。幼稚園の時から、ずっと好きな娘なんだけど、何度アタックしても玉砕。今、別の男と付き合ってるけど、まだ好きだから、俺は微笑める」

そうか。優男は好きな人いたんだな。

「いつか、その人と上手くいくといいね」

優男の予定表に書いてある言葉を発見した時を思い出しながら、できるだけ優しく微笑んだ。すると優男は

「なんだよ、その顔」

そう言って踵を返すと喫煙所の階段を登りながら

「ブス!」

と大きな声で怒鳴って、消えた。

その後食事の間中、私はずっと俯いていた。本当は泣きたかった。目の前にフィレ肉や、美味しい野菜が来ては消えていったけれども、こんな食事や座り心地のいい椅子は手に入っても、自分から努力しなければ掴み取れないものの存在があることに、やっと気がついた。今まで感謝知らずだったのだ。

 椅子を運んでくれるボーイさん。ここまで運転してくれるタクシーのドライバーさん。そして、学校の先生たち。それぞれに、家庭があったり好きな人がいて、多少無理しながらも笑顔で働いていることに鈍感で、ただただマニュアル通り動くロボットのように見ていたのだ。

 今、同じ歳の少年が社会でやっていることを目の当たりにしながら、いつか自分が社会に出た時に、上手くやっていけるのか。それとも、居場所が見つけられないで家の中にしかいれないのか。突然、ひどく不安になった。そして帰った後、母にポツリと

「私、整形した方がいいかなあ?」

 と言った。優男のブスと言った一言が、まだ心に突き刺さっていたのだ。

「ああ、さっきの同級生。美形だったのが気になるのね?」

「うん、まあ・・・」

 全ては吐き出せず、言葉を飲んだ。

「そうねえ。アンタは、あんなお客さん商売は、できないかもしれないけど、自分のできることをすればいいのよ。それに、目は物を見れればいいの。鼻は息をするためにあって、口はご飯を食べるためにあって、それ以上でもそれ以下でもないのよ。人がなんて言おうと、自分の人生を全うしなさい」

 母の優しい言葉に、包まれて少し元気が出ると、私は自分の部屋のクローゼットを開けて、セーラー服から学生証を取り出すと、優男が書いた紙を破ってゴミ箱に放り込んだ。だけど、彼の顔や声の記憶は消えなかった。真っ暗になった夜空が見たくて窓を開けると、5月の心地よい夜風が入り込んだ。ー今日よりもっといい日が、明日来ますようにー私は手を合わせて祈った。

 



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