洞窟で2
後輩に殺されかかる人はあまりいないだろうな。
岩手県に猊鼻渓という百二十メートルほど切り立った崖の中を流れる川を、観光舟でめぐる景勝地がある。その岸壁の中腹に水をチョロチョロと吐き出している洞窟がある。
もう三十年ほど前のことだが、夏に行われるケイビング大会が岩手県南部で開催されたとき、そこに入ってみようということになった。下から岸壁を登るのは大変なので、崖の上の木にロープを巻いて降下する事になった。
洞窟が開口する真上の部分はオーバーハングになっているので、ロープを垂らしてもアタックできなかった。岩壁の中腹に幅五十センチほどの岩棚があって、それが洞窟に向かって道のように延びていた。降下地点を探し洞口から川を上流に向かって二十メートルほど行った所に、岩棚に真っすぐロープを下せるポイントを見つけた。
リーダーとなった私はロープセッティングをして、全員が無事に降下したのを確認して最後に降下した。バランスを崩せば六十メートルほど下の渓谷に真っ逆さまなスリリングなルートだが、特に命綱を張らず私はフリーで洞窟に向かって岩棚を進んだ。
ロープを登降するための金具の音を立てながら洞窟の大分近くまで来たときである。岩棚よりも五メートルほど上の洞窟の中から後輩が「阿垣さん。今、どの辺ですか」と聞いて来た。
そういえば、なんで水が流れてないんだろうと思いつつ私は「水流の跡みたいな所の手前」と答えた。
「わかりました」と後輩の声がしたと思うと、上からゴウッという音が聞こえた。私はなんだと思ったが、かまわず前へ一歩踏み出そうとした瞬間であった。
「危ない」という後輩の緊迫した叫び声がしたので、私は何が危ないのか分からなかったが、ビックリして足を止めた。すると、私が足を踏み出そうとした水流の跡に、鉄砲水のような大量の水が突然流れ落ちてきた。
もし、歩みを止めずにそのまま進んだら、水流に足をすくわれて六〇メートル下の渓谷に落下して絶命していたのは間違いない。観光船の客は岸壁の洞窟からの突然の大放水に渓谷に「おおっ」と歓声を上げて喜んでいたが、人が死にそうになったっていうのに、喜んでいいところじゃないだろうと私は思った。
気持ちが落ち着いてきたころ、水流がチョロチョロに代わったので水流部分を越えて、五メートルほどの上の洞窟に到着すると、後輩達が全員土下座して私を待っていた。
全員が到着するまで時間があったので、後輩たちは私を驚かそうと思って、洞窟内の粘土で水流を堰き止めてダムを造って決壊させたのである。ところが、あまりの水量と勢いに直撃したら阿垣さんが死んでしまうと思い「危ない」と叫んだのであった。
危うく後輩のいたずらで殺されそうになるという、滅多に体験できない出来事であったが、こうしたエピソードの積み重ねから、不死身伝説は構築されていった。
ほんの数秒の判断が生死をわけることがあると身をもって知りました。